1990年のブルーハーツの転向(矢野利裕)
※本記事は、2009年5月に執筆した「90年代音楽論・イン・ジャパン――ブルーハーツの転向を手がかりに」(『POST』)と題した論考の後半部を抜粋したものです。
ザ・ブルーハーツのアイロニカルな政治性
ザ・ブルーハーツと言えば、セックス・ピストルズのように、破壊的なパンクバンドとしての印象が強いかもしれない。しかし、ブルーハーツ結成以前、甲本がザ・コーツ、真島がザ・ブレイカーズというモッズのバンドを組んでいたことは、ファンにはよく知られている。もちろん、イギリスやアメリカのパンクに受けた影響も色濃かっただろうが、コーツ時代の甲本がスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズのカヴァーをしていたなど(注1)、彼らが、当時の一般的なイメージほどパンク一辺倒ではなかったということには注意が必要だ。
だが、そんな彼らがブルーハーツとしてデビューすると、パンクバンドとして〈若者の代弁者〉と喧伝された。自主曲「1985」の一節「僕たちを縛りつけて/一人ぼっちにさせようとした/全ての大人に感謝します」と書かれたファーストアルバムの帯は、それをよく表している。しかしそれは、メディアからの一方的な宣伝文句というわけではなく、ブルーハーツ自身が引き受けていたことでもある。そのふるまいは、トライブの代弁者として、まさに音楽によって、自分たちの思想・態度を表明したものだったと言える。
デビュー当時のブルーハーツは、ストレートでシンプルなサウンドに、〈若者〉としての主張を歌詞に盛り込んでいたが、重要なことは、とくに真島が書く歌詞において、そのメッセージの矛先が、歴史や政治など大文字の〈社会〉に向いていたことである。
誰一人 望んではいないのに
誰一人 喜んじゃいないのに
爆弾が落っこちる時 何も言わないってことは
爆弾が落っこちる時 全てを受け入れるってことだ。
(作詞・真島昌利「爆弾が落っこちる時」)
痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう
全ての僕のようなロクデナシのために この星はグルグルと回る
(作詞・真島昌利「ロクデナシ」)
まあるい地球は誰のもの? 砕けちる波は誰のもの?
吹きつける風は誰のもの? 美しい朝は誰のもの?
チェルノブイリにはAh チェルノブイリにはAh
チェルノブイリには行きたくねぇ
(作詞・真島昌利「チェルノブイリ」)
反原発ソングの「チェルノブイリ」を筆頭に、真島は、しばしば政治性の強い歌詞を書いていた。こういった楽曲の数々と、およそテレビ向きではなかった4人のルックスもあいまって、80年代後半のブルーハーツは「若者の声なき声を代弁し、社会のあり方に一石を投じた〝時代の先駆者〟」(注2)として、社会派のバンドのように受容されていた感がある。しかし、ブルーハーツが広範囲な支持を得たのは、そのような過激なパフォーマンスの一方で、等身大とも言われるような――そう言ってよければ――〈素朴〉な「君」と「僕」の心情を歌詞に盛り込んだからである。「メンバーと自分を勝手に重ね合わせては、思春期特有の青臭い不安を和らげていたのである」(注3)といったような受容の仕方は、典型的なブルーハーツ支持者のありかただろう。そして、後述することになるが、現在から振り返られるブルーハーツ像とは、こうした〈素朴〉な心情の代弁者にほかならない。ブルーハーツの特色とは、大文字の〈社会〉への反抗心とともに、このような〈素朴〉さを持っていた点だと言える。では、ブルーハーツは、いかにして〈社会〉と等身大の「君」と「僕」に連続性を持たせていたのか。
当時、社会派のバンドと言えば、たとえば、共産主義革命を訴えた70年代の頭脳警察があった。また、80年代ならザ・スターリンを挙げられるかもしれない。頭脳警察にしてもスターリンにしても、トライブの代弁者という性格が強かったが、その音楽世界は、いわゆる等身大の〈素朴〉な心情とは無縁だった。頭脳警察もスターリンもブルーハーツも、〈社会〉を生きていくことに対してのフラストレーションを持っていたという意味では共通していたが、そのフラストレーションに対して、頭脳警察は、〈社会〉の変革そのものを訴える形で表現をし、ブルーハーツは、それを〈社会〉を通した個人の問題として描いた。そのなかでも〈社会〉に比重を置いたのが真島で、個人の心情に比重を置いたのが甲本だったと言える。ブルーハーツの曲は、甲本と真島が、ほぼ半分ずつ作詞作曲を担当していたが、このふたりの歌詞世界が、ブルーハーツに大文字の〈社会〉から個人の〈素朴〉な心情へのグラデーションをつけていた。
ただし、ここで重要なことは、甲本が個人の〈素朴〉な心情を歌うとき、その背後には、大文字の政治への不信・諦念がうかがえることである。たとえば、次のような歌詞。
どこかの誰かが泣いた 涙がたくさん出た
政治家にも変えられない 僕たちの世代
(…)
どこかの爆弾より 目の前のあなたの方が
ふるえる程 大事件さ 僕にとっては
原子爆弾 打ち込まれても これにはかなわない
NO NO NO… 笑いとばせばいいさ
(作詞・甲本ヒロト「NO NO NO」)
見捨てられた裏通りから 世界中にむけて大切な
メッセージが届くのを 君たちは見るだろう
鉄砲も兵隊も 政治家さえもいらないよ
君たちが望むのは 自由だけでいいよ
(作詞・甲本ヒロト「ブルーハーツより愛をこめて」)
甲本が一人称「僕」によって語る〈素朴〉な心情とは、大文字の政治的なるもの全般に対する不信や諦念を通過したものであり、「君達が望むのは/自由だけでいいよ」という言葉には、むしろ、各自が個人的な気持ちを表現することでこそ獲得される政治性への期待というものが表われている。このことは、甲本に限ったことではない。先ほど引用した「チェルノブイリ」の歌詞が、原発に対する批判とともに「あの娘を抱きしめていたい」と歌われるように、真島の歌詞にもまた、大文字の〈社会〉と同時に個人を見つめる視線が存在する。だから、ブルーハーツが歌う「もうだめだと思うことは今まで何度でもあった」(作詞・真島「終わらない歌」)や「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」(作詞・甲本「リンダ リンダ」)といった〈素朴〉な心情、あるいはシンプルなラブソングに過ぎないような楽曲も、彼らにとっては政治的な文脈をもったものだった。それは、〈社会〉との接点をもっていたという意味で、やはり〈サブカルチャー〉的なパンク・ミュージックとして存在していたと言える。
ブルーハーツにおける〈共感〉の消費
しかし、聴衆側も同じような文脈で受容していたかと言えばそうではない。ここで重要なことは、甲本や真島が〈社会〉や政治を通過した上で描いた「君」と「僕」の歌詞世界が、結果的に、多くの人にとって置換可能の世界だったということだ。
ブルーハーツの音楽は、88年の「TRAIN-TRAIN」がテレビドラマのタイアップ曲になるなど、「Jポップ産業複合体」の巻き込まれていくにつれて、先ほど述べたような政治性・〈社会〉性が漂白されていく。80年代後半というJポップ前夜に大きな支持を得たブルーハーツの音楽は、本来持っていたはずの政治性が引き剥がされて、単に「僕」の気持ちを歌った応援歌のようになった。そこでは、「君」と「僕」の〈素朴〉な心情はむしろ、前節に述べたような、置換可能な〈共感〉の図式に組み込まれ、「リンダ リンダ」や「TRAIN-TRAIN」などのヒット曲は、90年代以降、カラオケの定番になっていく。まさに、ミュージシャンとの相互浸透から、他者同士で「盛り上がる」ためのコミュニケーション・ツールと化していくということだ。
このことが、いちばんよく表れているのは、00年前半の「青春パンク」ブームである。ブルーハーツを後追いで知った――すなわち、Jポップ的〈共感〉の文脈で受容した80年前後生まれの若者たちは、00年前後、アメリカのメロディック・コアと、漂白されたブルーハーツ歌詞世界の影響下で、非常に前向きな青春を歌った「青春パンク」なるムーヴメントを起こした。「青春パンク」の代表バンドであるモンゴル800は、01年のインディーズにして大ヒットアルバム『MESSAGE』収録の「Song for you」において、「Let's sing a song of THE BLUE HEARTS.」と歌っているが、この歌詞は、00年代において、ブルーハーツがいかに漂白された存在かをよく示している。後追いの世代にとって、ブルーハーツの楽曲とはみんなで歌われるべき――それはつまり、みんなのコミュニケーションのネタになるべき――ものであり、モンゴル800が指示するブルーハーツにはもはや、当初の政治性がまったく存在していない。
モンゴル800は、若者を中心に大きな支持を集めたが、その楽曲が00年以降、カラオケでよく歌われるようになることも、ここでは注意が必要だ。また、05年には、女子校生4人が文化祭のためにブルーハーツのコピーバンドを組む『リンダ リンダ リンダ』という映画が公開されたが、この映画におけるブルーハーツも、モンゴル800のそれと同様で、みんなでただ歌われるべきものとして描かれている。このことについては、宇野常寛が、この映画におけるブルーハーツの存在は「「端的に日常を祝福する」脱臭された」ものかもしれないと、筆者とほぼ同様の指摘している(注4)。このように、「青春パンク」のブームと、それ以降のブルーハーツ受容とは、パンク・ミュージックが不可避的に持っていた(はずの)政治性が、〈共感〉という磁場によって、Jポップに飲み込まれた事態を意味しており、それはまた、ブルーハーツにおけるトライブの代弁者という側面が、90年代にかけてJポップの置換可能な〈共感〉と重なってしまったことを意味する。
1990年代のブルーハーツ転向
さて、先走って00年代以降のことまで言及してしまったが、翻って90年前後、「Jポップ産業複合体」が進行していく時期に際して、ブルーハーツはどのような位置取りをしたのかということについて考えてみたい。ブルーハーツの活動時期について、90年代を境に前期/後期とするのは、いまや一般的な見方になっていると言える。いままで本稿が取り上げてきた楽曲は、すべて90年以前の前期に属するものである。
この区切り方の根拠は、主にふたつあるが、ひとつは、90年に発表したアルバム『バスト・ウエスト・ヒップ』を境に、レコード会社が、メルダックからイースト・ウエスト・ジャパンに移ったという外在的な要因であり、もうひとつは楽曲の変化である。ここでは、楽曲の変化に注目したい。まず、サウンド面での変化で言えば、本作には、キーボードとして白井幹夫が参加している。白井は以後、ザ・ハイロウズに至るまで活動をともにすることになる。前作『TRAIN-TRAIN』では、シンプルなパンク路線からの脱却を試みる曲がいくつかあったが、本作では、パンク路線の脱却をいよいよ本格化したと言って良いだろう。そして、歌詞。大石始は、次のように述べる。
分岐点は『バスト・ウエスト・ヒップ』(90年)だった。このアルバムには、初期のブルーハーツが叩き付けていた孤独や痛みの代わりに、えらくすっきりとしたロックンロールが並んでいた。先に書いた〝ただの音楽〟へのシフト・チェンジは、厳密に言えばこのアルバムから始まっている。(中略)だが、何よりもその変化を実感させたのは、無意味で記号性の強い歌詞が増えたことだった。(注5)
大石の言う「無意味で記号性の強い歌詞」とは、円周率をひたすら歌う真島の「キューティパイ」のような歌詞だが、このような歌詞は、当時の状況を踏まえてみれば、両義的な意味を持っていたと言える。
それは、第一に、音楽業界が「Jポップ産業複合体」化するなかで、トライブの代弁者としてふるまうことの限界。第二に、安易な〈共感〉でネタ消費されてしまうことへの嫌悪である。音楽が風景に溶け込むような90年代においては、音楽が聴衆とって、〈社会〉に対する思想・態度の表明となることは根本的に困難であった。しかも、〈社会〉への態度としてオルタナティヴだったはずの「君」と「僕」の〈素朴〉な心情の歌詞世界は、今度は、〈共感〉のネタとして「Jポップ産業複合体」に回収されてしまう。出発点において、トライブの代弁者であることを引き受けようとした彼らにとって、「Jポップ産業複合体」に安易に回収されることも、また不本意だったと思われる。
このような状況に面したとき、甲本と真島が選択したのが、「無意味」というありかたへの転換ではなかったか。大文字の〈社会〉へのコミットに戻るわけでもなく、かと言って、安易な〈共感〉を促すわけでもない。磯部涼(注6)は、『STICK OUT』(’93)収録の「1000のバイオリン」(作詞・真島)について、「この曲の歌詞はどこか個人的で言葉足らずで、ここで歌われている悲しみを聴き手は理解できるが、同化することは出来ない」と述べているが、このような、ぎりぎりで〈共感〉を回避するようなありかたこそ、90年のブルーハーツの転換だった。『バスト・ウエスト・ヒップ』以降の歌詞における「無意味」性とぼかすような隠喩の多用は、当時の「Jポップ産業複合体」に対するブルーハーツの位置取りをよく示している。また、キーボードの白井を迎えた後期の多様なサウンドへの変化も、反抗的な意味合いを少なからず含んでいたシンプルでストレートな演奏からの脱却と見ることができるだろう。
このように、「Jポップ産業複合体」化する日本のポピュラー音楽シーンにおいて、独特な位置取りをしていたブルーハーツだが、こうした位置取りについては、さらに別の意味も持っていたのではないかと思われる。少し脇にそれるが、ここで、河田拓也(注7)による甲本への指摘を見てみたい。河田は、甲本の態度について「他者を拒絶し、気分とエゴへの万能感への反省をなくす超越願望を「ロック」と呼ぶ」姿勢であると批判的に述べ、さらに次のように付け加える。
これこそ、自分の肉体や無意識も含めた他者、自然に対する畏怖や敬虔さを投げ捨て、衝突や制限の中で、自分のエゴや意志がソリッドされていく過程を拒否し、「薬物などによって、体をいじって、自分を変えてしまえばいい」と居直るような、オウムに代表される現在の新々宗教と相似形だ。保証を神やグルに求めるか、ロックに求めるかの違いでしかない。
もちろん、これまでの論旨からして、河田の主張は本稿と真っ向から対立するものである。それは、河田の解釈が、歌詞以外の文脈を一切無視しているからだ。引用部以外を見ても、河田の文章は、歌詞のなかに作詞者の内面を見出すことで破綻してしまっているのだが、それでも河田の文章を引用したのは、この指摘が逆説的な意味で興味深いからである。
河田は、甲本の歌詞に、甲本自身の「ロック」という「超越願望」を見ているが、先に述べたように、甲本にとっては、〈素朴〉な欲望や心情を音楽として他者に表明することこそが、自らの思想・態度の表明を意味していた。そしてそれは、甲本的な文脈からすれば、まぎれもなく〈社会的〉で政治的な態度であった。だから、甲本における「ロック」とは、決して「超越願望」ではなく、むしろ〈社会〉とかかわるための表現であると言える。だとすれば興味深いのは、河田が甲本の歌詞に見出した「超越願望」としての「ロック」が、ほかならぬ聴衆のほうにこそ宿っていたのではないかということである。磯部涼は、先ほどの引用部の直前に、次のように述べている。
それにしても、初期ザ・ブルーハーツの楽曲が持つ同化作用は凄まじく、「リンダリンダ」といい「TRAIN-TRAIN」といい、口ずさんだひとは、皆が皆、まるで同じ気分になるはずだ。だが、それはどこか宗教やファシズムの作用にも似ていて、少年の僕はそこに嫌悪感を覚えて距離を置いたのだろう。
ブルーハーツの、とくに甲本による置換可能な一人称「僕」をめぐる歌詞は、ブルーハーツが発信する限りにおいて、トライブの代弁者として、いまだ〈社会〉との連続性をもっていた。しかし、それが聴衆の側に渡ったとき、ネタ消費としても、トライブの一員としても、置換可能な「僕」はただひたすら増殖されていく。しかも、ブルーハーツは元々、トライブの代弁者という側面をもっていたので、そのトライブの一員は、その歌詞世界をコミュニケーションのためのネタとして軽く消費するわけでもない。
磯部が感じた「宗教」感や「ファシズム」感とは、このように、いつのまにか〈社会〉性がなくなった置換可能な「僕」の〈素朴〉な心情が、しかし、トライブとしての文脈は保ったまま、熱狂的に、〈共感〉でもって結び付いた事態だろうと思われる。そこでは、まさに河田が、歌詞以外の文脈を一切無視したまま、甲本に「ロック」という「超越願望」を見出したように、トライブの構成員たちも〈共感〉によって、文脈を無視して「ロック」という「超越願望」を宿してしまっていた。それは、「君達が望むのは/自由だけでいいよ」と歌うブルーハーツにとって、まったく望まざる結果だったはずである。
このようなトライブを裏切っていく意味でも、後期ブルーハーツは、多様なサウンドと「無意味」な歌詞を駆使するようになった。まさに、転換点にあたる『バスト・ウエスト・ヒップ』の1曲目「イメージ」(作詞・真島)には、次のような一節がある。
どっかの坊ずが 親のスネをかじりながら
どっかの坊ずが 原発はいらねぇってよ
どうやらそれが新しいハヤリなんだな
明日はいったい何がハヤるんだろう
イメージ イメージ イメージが大切だ
中身が無くてもイメージがあればいいよ
かつて反原発ソングを書いた真島は、そのかつての自分のおこないを「ハヤリ」と呼び、しかもそれは、「明日」にはもう終わるものとしている。本稿の論旨からすれば、これは、自分に向けた批判と言うよりも、自分の歌に安易に〈共感〉してしまった聴衆を皮肉り、また、振り切ろうとした歌詞だととらえるべきである。ブルーハーツの聴衆が、結果的に、置換可能な「僕」の〈共感〉構造に充足してしまったこと。さらに、その自己充足に疑似的な〈超越性〉を見出してしまったこと。そうした事態を、ただの「ハヤリ」としてネタ消費させてしまうということが、後期ブルーハーツの第一歩だった。
そして、ハイロウズへ
さて、後期ブルーハーツには、置換可能な「君」と「僕」の世界を描いた曲も無いではないが、やはり、ストレートなメッセージ性というよりも、どこか意味をズラされるような歌詞世界が多い。ブルーハーツが解散するのは、95年のことであるが、その後、甲本と真島は、ハイロウズとして活動を続ける。
ブルーハーツからハイロウズになると、サウンド面はロック、ツイスト、レゲエ、モータウン調……とますます豊かになり、また、歌詞はますます「無意味」度を高めていく。それは、歌詞の〈意味〉を重視した前期ブルーハーツから比べると、サウンドも含めて、全体の〈強度〉に重心を移した楽曲の数々であると言える。甲本と真島のこのような態度は、見方によっては、パンクからJポップへの転向と言える。先ほど引用した河田の文章では、こうした変化をとくに真島の転向と見て批判していた。しかし、そんなハイロウズの楽曲は、――主観で恐縮だが――ネタ消費には還元されないながらも、他方、Jポップとしか言えないようなすがすがしさもあった。
〈意味〉から〈強度〉へ。宮台真司(注8)が、オタク対コギャルという構図によって、オタクにおける〈意味〉的な〈超越性〉への希求を否定し、〈強度〉によって「終りなき日常を生きろ」と説いたのは、やはり、ブルーハーツが解散した95年だった。80年代後半から90年代前半という時期は、社会の空洞化を埋めるようにオウム真理教が求心力をもった時期だが、宮台の発言は、言うまでもなく、そのような状況を踏まえたものである。こうして考えてみると、ブルーハーツという社会現象は、当時、オウムが支持された事態と裏表の関係にあると言えるかもしれない。
本稿は、ブルーハーツのファンを批判的に書いたものの、ブルーハーツとそのファンたちが喜びを共有していたのはもちろんまぎれもない事実なので、ここでオウム事件と比べることには多少の抵抗がある。しかしそれでも、両者が裏表の現象だと思えるのは、80年代後半から90年代前半の「Jポップ産業複合体」化が、音楽業界における空洞化の大きな表出だと言えるからである。「Jポップ産業複合体」においては、人々の愛する曲が実際に売れるということが困難になってくるので、音楽によって、人々の共通の記憶が紡がれるようなことも少なくなる。ブルーハーツは、そのような過渡期とも言える時期において、置換可能で誰でも〈共感〉できる歌詞世界と、トライブの代弁者という〈社会性〉を同時にもっていた。
このような性格の音楽は、人々に広がりつつあった空洞を満たすために、当時、もっとも求められていたものだったかもしれない。ベースの河口純之助が「幸福の科学」に入信したり、また、ブルーハーツ・ファンクラブの会長が、のちにオウム真理教に入信したり、95年の解散前後、ブルーハーツの周囲に〈超越性〉を求める動きをいくつか確認できるが、前期ブルーハーツが良くも悪くも〈超越性〉をもっていたとすれば、そのブルーハーツが〈素朴〉な歌詞世界を展開していたということは興味深い。
大澤真幸は、麻原彰晃について、「徹底した俗物性、過剰なまでの〈内在性〉が、逆に、麻原の〈超越性〉の根拠になっているのではないか」(注9)と指摘している。この〈超越性〉と〈内在性〉の合致という構造は、〈素朴〉で身近な歌詞だからこそ、同時代の社会派においてオルタナティヴだったというブルーハーツのありかたと類似的である。「アイロニカルな没入」などと言う気はないが、前期ブルーハーツにおける熱狂的な盛り上がりは、〈内在的〉、つまり凡庸な心情のありかたが、パンクの文脈において〈超越性〉を獲得したからではないかと考えられる。
いずれにしても、トライブの代弁者的な音楽のありかたとJポップ的な音楽のありかたの結節点として、ブルーハーツ/ハイロウズについて見るということは、90年代のポピュラー音楽シーンを考えるうえで興味深い視点を与えてくれる。
注
(1) 北沢夏音「ブルーハーツ・ヒストリー完全総括! 第1期 黎明期(1984年―1986年)」(『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評20』02・8)。
(2) 吉村栄一「ブルーハーツ・ヒストリー完全総括! 第2期 成長期(1987年―1989年)」(『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評20』前掲)。
(3) 大石始「ザ・ブルーハーツは一種の鎮静剤だった――『TRAIN-TRAIN』で心射抜かれて、僕はブルーハーツ・フ リークになった」(『ミュージック・マガジン』08・11)。
(4) 宇野常寛「「青春」はどこに存在するか――「ブルーハーツ」から「パーランマウム」へ」(『ゼロ年代の想像力』早川書房 08・7)。ただし、宇野は、「青春」という言葉を論の中心に据えながらも、ブルーハーツがいかにして「青春」に読み換えられたかという点については言及していない。宇野の論旨は、「ある種のカウンターカルチャー幻想の拠り所」として「愛されてきた」ブルーハーツが、『リンダ リンダ リンダ』において「脱臭」されたというものだが、筆者が本稿で述べたように、ブルーハーツの「脱臭」(漂白)作業は、90年前後からすでに開始されていた。
(5) 前掲注3。
(6) 磯部涼「ストレート路線からナンセンス路線へ、その狭間で――不良少年の心をひきつけ続けるヒロト&マーシーの歌詞」(『ミュージック・マガジン』前掲)。
(7) 河田拓也「「関係ねえよパワー」は、こんなもんじゃないだろ?――〈僕の話を聞いてくれ〉と叫んだマーシーが、「ロックおたく」の「万年青年」へと退行してしまうまで――。」(『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評20』前掲)。
(8) 宮台真司『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房 95・7)。
(9) 大澤真幸『増補 虚構時代の果て』(ちくま学芸文庫 09・1)。
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