令和四年 睦月 ふつう
いつもと違う、いつもの御節
「今年の御節はどれにする?」
年末になると家族が、候補を3つ以上は用意して必ず聞いてくる。私は毎年、これまで食べたことがないお店のものに票を投じていた。だから、年始には「ここの御節は、こういうしつらえなのね。」と面白がっていただくのが通例だった。
それが今年は違った。「今年の御節はどれにする?」に、「去年と同じで」と珍しい返事をした。そう答えたのには理由があった。30歳を迎えて、自分の中で普通(ふつう)を増やして特別を減らしたいと思い始めたからだ。
スタートアップ企業を経営をして2年半、朝令暮改なんてなんのその、非連続な変化がある日常をおくっている。日々の刺激はそれで十分なのだ。デザートは大好きだけど、メインディッシュにはしたくないように、特別なものは少しだけでいい。
普通を増やす
これは今の自分にとってとても大事な気がする。しかし大事にするにしても、普通という言葉は非常に懐が深い言葉で、自分の両腕の長さでは抱きしめられない気もする。だから増やしたい普通とは何か噛み砕いてみたい。
まずは、近い言葉を横に並べて、違いを観察し言葉の輪郭をあぶり出すことからはじめたい。
「普通」と「普通」以外の違い(普通の外部)
普通と普遍
「悲しいときに涙を流すのは普遍的だ」
「悲しいときに涙を流すのは普通だ」
似ているが、普遍は例外を許さない印象があり、普通は例外の存在を前提にしている印象がある。いいかえると、普通には、普通じゃない状態と、普通な状態があり、状態が変化する可能性が存在し、普遍というのは状態が変化する可能性がない。
普通と普及
「スマートフォンは日本では普及した」
「スマートフォンは日本では普通だ」
似ているが「普及した」は「結婚する」「勉強する」などのように「名詞+する」という形の動詞である。「普通だ」は「綺麗だ」「便利だ」などのように「名詞+だ」という形の形容動詞である。つまり、普通という状態になるための、作用として普及があるという関係になる。
普通と普遍と普及
この3つを図にするとこのような形になる。少し普通の輪郭がみえてきた。
「普通」と「普通」の違い(普通の内部)
普通の外部の次は普通の内部を観察してみよう。
普通と普通
「このラーメン普通にうまいっす」
「普通さぁ、先に謝るべきだよね」
言葉は同じでも逆の使われ方をしている。1つ目はポジティブな意味で、2つ目はネガティブな意味で普通が使われている。この使い分けはどのように行なわれているのだろう。もう少し例を出して観察してみたい。
A氏「3日でデザインが終わったんですね」
B氏の返答1「デザイナーだったら、普通です。」
B氏の返答2「我社のデザイナーだったら、普通です。」
B氏の返答3「私だったら普通、です。」
B氏の返答群の違いは、「〜だったら、」の前に入る文章が、徐々に外的な基準から内的な基準に変化しているということだ。
返答1は「デザイナーだったら、普通です。(おまえ俺のこと舐めてんのか)」という印象がある。
返答2は「我社のデザイナーだったら、普通です。(優秀なデザイナーが揃っているので)」とも意味をとれるし、「我社のデザイナーだったら、普通です。(精一杯頑張って早く納品したんですが、これでも弊社基準だと当たり前レベルなんです。)」とも意味をとれる。
返答3は「私だったら、普通です。(他の人よりスキルが高いので)」という印象を受ける。
結論、観察対象内では、普通の対象が内的であればよりポジティブに、外的であればよりネガティブに使われていることが確認できた。
これらを踏まえて、はじめに出した例文を振り返ってみる。
「このラーメン普通にうまいっす」は、俺基準で期待以上の結果だったという、非常に内的な基準に基づいて用いられている。
「普通さぁ、先に謝るべきだよね」は、このような状況であれば、一般常識としてそうするべきだ、という非常に外的な基準に基づいて用いられていることがわかる。
不断(ふだん)と普段(ふだん)
おさらいになるが、普通じゃないは普及というエネルギーを使って、普通という状態になる。変化が伴うということは、普通という状態を維持することにも、エネルギーを使うことが推測される。
なので、記事の主題である普通を増やすを実現するためには、この維持するエネルギーを最小化することにも目を向けるべきだろう。
エアコンに例えるなら、睦月の底冷えの中、エアコンをつけて心地よい25度にまで一気に部屋の温度を上げた後、25度を維持するために緩やかに電力を使うといったイメージだろうか。
エアコンのエネルギー源は電力だが、普通を維持するエネルギーとはなんなのだろうか。
普通の理解にあたって、類義語を眺めているとき、それを理解するのに、うってつけの言葉があった。ふだんという言葉だ。
突然だが、不断と普段の違いはなんだろうか。
不断は「不断の努力を続けたいと思います。」のように、ことが断ち切れないように意思を持って継続するときに用いられる印象がある。
普段は「普段通りにやるだけです。」のように、変化しないことを重んじて、意思の力は必要としないときに用いられる印象がある。
このように現代では、不断と普段は同音意義語のように扱われいる。しかし、言葉の歴史を調べてみると、元は同じひらがなの音のふだんから現代の用法に徐々に変化したものということがわかった。
まず、ふだんという音が先にあった。
その後、不断という漢字が先にあてられた。
その後、普段という当て字が新たに生まれ、普段と不断が使い分けられるようになった。
これから察するに、どうも日本人は普通を維持するエネルギーとして、意思の力を要するかで使い分けたいと思ってそうだ。
普通と普通、不断と普段
ここまでをまとめると普通の内部は、基準とする対象が内的であるか、状態を維持する方法に意思が伴うか、という2軸で整理ができそうだ。
この図に対して、目的である普通を増やすを充てる。
すると、求める成果としての普通、成果をあげるために改善対象とすべきスコープ、改善にはどのような変化を伴うかが見えてくる。
普通を増やす手順
普通の外部の段では、普通の内部化と、内部化を維持することに触れた。
普通の内部の段では、基準とする対象が内的であるか、状態を維持する方法に意思が伴うかについて触れた。
これらを統合して、普通を増やす手順としてまとめると、以下の図のように整理できた。
普通を増やすの言語化は以上とする。(すっきり)
趣向を凝らした普通を集める30代に
考えてみれば、御節には黒豆は「まめに暮らす」ために入れるだとか、昆布は「喜ぶ」の言葉にかけているだとか、やたら決まりが多い。つまりは特別が入り込む余地を無くしている。日本では、それが、さも当たり前と、無意識化された普通として享受している。無意識に、このきらびやかな、大変手間のかかる仕立てを年末年始に、やってのけるのである。
やぁやぁ、普通とはなんたる、社会、個人の努力の結晶であることか。
私も新年の抱負は書かず、新年だからと新しいことに挑戦はせず、それよりも日常に目配せして、御節のように、まだ特別になってしまっている、あいつらを、趣向を凝らして普通に昇華させたいものだ。
しばらくは20代に出会った特別を、自分の普通にしていくことでお腹いっぱいになりそうだ。いつもと違う御節を食べたいほどに、お腹が空くまでは。
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