6. Memo Akten's Learning to See: Gloomy Sunday
はじめに
こんにちは、この記事の趣旨はこちらでご覧ください。
第6回目の今回は、メモ・アクテンの『Learning to See: Gloomy Sunday』を取り上げます。
この作品はネット上で誰でも見ることができます。
彼のウェブサイトもあるので興味のある方はチェックしてみてください。
作家紹介
メモ・アクテンはトルコのイスタンブール出身で、現在はロサンゼルスを拠点に活動するアーティスト、ミュージシャン、研究者であると自身を定義しています。以下は、彼についてのホームページからの引用です。
作品紹介
『Learning to See: Gloomy Sunday』は、2つに画面分割されたビデオの左側でアーティストが布地や日用品を操作し、右側ではその配置をもとにAIが学習してきた海岸、火、雲、花の画像を随時可変させながら生成していく様子が映し出されます。
アーティストは画面の左側で布地の配置を変えていき、その形に沿ってAIが元となる学習した画像に変換します。このことは、言い方を変えればAIは学習したものの中からしか物事を認識できないことを示しています。つまり、布地それ自体としてではなく、今まで「見てきたもの」の記憶からでしか認識を構成できないという制限付きの世界に生きている?ことを鑑賞者に示唆しているのです。
このビデオの流れるサウンドは1992年のディアマンダ・ガラス『Gloomy Sunday』です。これは1933年にハンガリーで発表された作詞:ヤーヴォル・ラースロー、作曲:シェレシュ・レジェーによる楽曲のカバーで、あまりに憂鬱な曲であったため、自殺につながることを恐れ、多くの飲み屋で禁止され、「自殺者の出る曲」として都市伝説にもなっているそう。
これは傑作か?
音楽から想起するような憂鬱さは、機械や他のアルゴリズムが決して苦しむことのない心理状態です。
しかし、私たちはあらかじめ与えられたものからしか認識できない(海岸や火事や雲や花しか見えない)AIにある種の絶望的な感覚を得ずにはいられないでしょう。
近年のAIの急速な発達は、シンキュラリティ後の人間の存在意義についての危機感として私たちのAIに対する反発感情を増幅させているように思いますが、このようなAIの認識の限界について知ることには私たちを安堵させるかもしれません。
しかしながら、SF的な想像力は近い将来、人間と機械の融合において人類の限界は突破され、膨大な情報と常に接続された状態を夢に見ていますが、機械に私たちの認識が乗っ取られてしまえば最後、私たちは世界をありのままを制限されていることにさえ自覚不可能な、憂鬱な感情が消失したディストピアに生きることになるでしょう。
哲学者のカントは私たちは物自体について認識はできないが思考はできると言いました。他方でハイデッガーは物自体について認識もできなければ思考もできないのだといいます。
このことは機械と人間は差異はあるにしてもある部分においては同類であるということを意味します。
まるで、また明日から一週間が始まる日曜日の憂鬱であるかのようですね。
それではまた次回〜