ムガル料理概説➁”Indo-Persian料理”
Indo-Persian料理という料理体系があります。ずいぶん前にこれについて記事を書いたのですが、これについて改めて調べ、時系列でまとめてみると、もう少しはっきりと実像が見えてきました。この記事ではIndo-Persian料理について触れつつ、ムガル料理をもう少し掘り下げてみようと思います。
Indo-Persian料理
以前の記事では、”今のペルシャからインド亜大陸にかけて存在している、もしくは存在していた数々の料理の総称”と定義したのでしたが、その実態はもう少し小さいもので、おそらく各時代で移り変わるムガル料理の中の一形態、現代の北インドレストラン料理の源流となったムガル料理のプロトタイプのような料理だったのではないかと考えるようになりました。ただ、当時のムガル帝国は全盛期に向けて勢力を拡大中でしたので、その領土の広さから考えて、確かに以前の記事のような説明も間違いではなかったと思います。しかしそれでもムガル帝国のキッチンでその料理群の体系化が行われたことを考えると、ムガル料理の中の一形態と認識した方が、ムガル料理の成立に関して、その当時の状況を分かりやすく捉えることができると思います。
しかしながら、依然他の視点からの、Indo-Persian料理の異なる定義も可能です。千年単位というかなり長い時間軸で見たペルシャ文化圏とインド文化圏の関わりの中で生まれたフュージョン料理のようなものをIndo-Persian料理と定義することが、まずできるでしょう。この視点では例えばナン、シークカバブなど全てのカバブ、タンドリーチキンなどの全てのタンドール料理、プラオ、ビリヤニなど、北インド料理レストランで出てくるかなり多くの料理がIndo-Persian料理に分類できます。基準は何かというと、最も分かりやすいもので言うと、ヒンディー語でない料理名を持つものは基本的にその多くがIndo-Persian料理と言えるでしょう。また、さらに別の視点では、ムガル帝国は食事の作法や献立の組み方、栄養の取り方などは高度にイスラム化されていたと言われており、このような食文化は、最終的に一つ一つの料理のレシピにも影響を及ぼします。そこから考えると、ムガル料理がむしろ、長い年月の中で異なる地域、異なるタイミングで発生したIndo-Perisian料理の中の一つだったと言えるかもしれません。
ただ、このように長い時間軸で捉えると、適用範囲が広がりすぎる上に概念のような話になってくるので、料理を勉強するうえでは活用しづらくなってしまいます。そのため、本記事ではIndo-Persian料理はムガル料理の一形態と捉え、狭義的に話を進めます。
皇帝の嗜好と各時代のムガル帝国の移り変わり
帝国というのは民主主義ではないですから、皇帝の裁量が絶大です。また、ムガル帝国は300年以上続きましたが、当時人の寿命は1世紀も持ちません。いくら皇帝が絶対的な存在だからと言っても寿命は寿命で普通にやってくるため、帝国が存続する限り皇帝のバトンタッチは避けられません。また、ムガル帝国は今でいう日本や韓国と違い、特定の土着の民族が主体となって興した国ではないので、歴代皇帝のバックグラウンドは様々でした。そしてそのことはそれぞれの皇帝の時代の食にもかなりの影響を与えたようです。皇帝の裁量は絶大なので、やはり日々の食事も兼ねるムガル料理と言う存在には、各時代の皇帝の嗜好や、皇帝を取り巻く情勢などが反映されたのです。ここで、各皇帝がそれぞれのムガル料理にどのような影響を与えたか、重要なところをかいつまんで見てみましょう。
・初代皇帝バーブルさん
バーブルさんは当初ムガル帝国を興したときは、アフガニスタンからやって来たそうですが、出身はウズベキスタンのサマルカンドだったそうです。南アジアにはムガル帝国を興すときに初めて来たので、当初はその土地の食文化には当然、全く詳しくありませんでした。よって初期のムガル帝国の料理は、当時のウズベキスタン料理や、それに倣った料理が多かったようですが、バーブルさんは魚をはじめ、自分の故郷にはなかった食材も大いに取り入れ、楽しんだと言われています。またバーブルさんが長くいたアフガニスタンはウズベキスタンと隣り合っているので、当時のアフガニスタンの料理もムガル帝国料理の基礎が出来上がる際にはやはり大いに参考にされたものと思われます。
・二代目皇帝フマユーンさん
フマユーンさんはペルシャの文化を洗練された文化の代表と捉え、その流れをムガル帝国でも積極的に取り入れたと言われています。奥さんもペルシャ人だったとのことで、この時代にムガル帝国のキッチンにも一気にペルシャ料理の風が吹き込みます。ペルシャ料理でよく使われるアーモンド、ドライフルーツ、サフランがもたらされたのもこの時代ということで、今の北インドのレストラン料理にも見られる特徴の一端がこの時代に出来上がっていたということが伺えます。そしてこの時代のムガル料理こそが、南アジアの食とペルシャの食が一つの場所で融合して生まれたIndo-Persian料理と考えることができます。
・三代目皇帝アクバルさん
アクバルさんは全国各地から身分、宗教関係なく腕の立つシェフ、美味しい料理、上質な食材を集め、二代目皇帝の時代に確立されたペルシャ風ムガル料理(Indo-Persian料理)をさらに発展させました。使用する食材や、作られるメニューの数もこの時代に一気に増えたと言われています。一般的にムガル料理と言うとアクバルさんの時代に確立したと考える雰囲気があるため、この時代にIndo-Persian料理をベースにして、伝統的なムガル料理の基礎が完成したと言えるかもしれません。
・五代目皇帝シャー・ジャハーンさん
この時代にはNuskha-e-shahjahaniというレシピ本が纏められています。ナン、カバブ、プラオ、カリア、ドピアザ、バルタなど現代の北インドレストラン料理でも目にする名称の料理が多く登場するようです。またポルトガルによって中南米から持ち込まれたチリを料理に取り入れるようにもなったようで、この時代からムガル料理が今のインドっぽくなったと言えるかもしれません。チリの受容はもしかするとIndo-Persian料理からインド料理としてのムガル料理への完全な移行のきっかけと見做せる可能性があって、それはどういうことかというと、ペルシャ料理は対照的にチリを受け入れておらず、今も昔もチリをさほど使わないということがあります。現代のイラン料理においても辛さは全く重要ではなく、使うにしてもほとんど使わない、くらいの食材なのに対して、一方でパキスタンやインドはもうすっかりチリの虜であり、レッドチリパウダーに生のグリーンチリがないと料理が成り立たなくなってしまっています。ニつの料理にこのような決定的な差をもたらし、ムガル料理をインド料理にする道を拓いたのは、実はポルトガルだったのかもしれません。Nuskha-e-shahjahaniの電子データがネット上で公開されとったんで読もうとしたらペルシャ語でした。そりゃそうです。英語なわけないです。
ちなみにzeer biryanという名前で、ビリヤニのレシピも載っているようです。この本がレシピ本史上初のビリヤニかどうかまでは定かではないようですが、ビリヤニに当たる料理の記述がみられるのはこの頃からと言われています。ペルシャ語で読めなかったので、ネット上の情報の拾い読みでしかありませんが、このzeer biryanの中にはオスマン風というスタイルも記録として残っているようです。オスマン風とは、今でいうトルコ風ということですが、これは今でもトルコに野菜を使ったダムビリヤニの様な炊き込みご飯があったりします。作り方もどう考えてもダム調理を行っているのですが、現在のトルコではビリヤニの様に特別な名前は与えられてないようで、おそらくピラウ(トルコのプラオ)のバリエーションの一つとされているんだと思います。
以上、ずいぶん前に私が書いたIndo-Persian料理に触れた記事が発掘されたんで、その視点からムガル料理を掘り下げました。ちなみにこのような歴史を知ると、食材の流れが分かるようになります。すると何が良いかというと、現地の人に料理の話を聞いて、「これにこれは使う、使わない、使ってもいいけど私は使わない」と言われたときに腑に落ちることがちょこちょこ出てくることですね。これが分かるとインドにありえないはないとか言えんくなります。インドにもやはりないものはないです。そうなるとカオスなインドが割とすっきり見えてくるんで(それでもカオスですが)、扱いやすくなりますね。効率よく料理を学ぶのにすごくいいと思っています。それでは次回はムガル料理特集記事、最終回、さらばムガル帝国‼、です‼