母はつらいよ、嬉しいよ
これは完全に私のエゴの話。
息子が進行性の難病と診断を受けてから、たくさんのひとが希望とともに待っている遺伝子治療以外にも、何か方法があるのではないか、何か見落としていることがあるんじゃないかと思って、あちこち目を向けている私。
私の根底には、「きっと何か元気になる方法がある」という気持ちがあるんだよね。
あー、これもだめかーって思っても、また検索エンジンが動き出す。
そう、私は諦めが悪い。とても。
私が生まれた時のホロスコープを見ると、不動宮と言われるところに星をたくさん持っているのだけど、そのせいかもしれない笑。
これは良し悪しで、息子にとってはこれが「厳しい母」となることがあるのよね。
私はこれまで、彼が体を動かす際に、できるだけ手を貸さないようにしてきた。
時間がかかっても、彼が自分でやるのを待ってきた。
これね、健常であれば当たり前のことだと思うんだよね。
自分の子供にとって「これはできるだろう」って思うことは、何も考えずにやらせるでしょう?
それが成長につながるってわかってるから。
「ちょっと大変だけど、でもできる」というところを、私なりに見極めているつもりなのだけど、息子にとっては大変なのだ。
そこはわかっているのだけど、この病気では、体を使わなかったらどんどん動かなくなるということを、息子を見てきてなんども確かめてきたから、できるだけ体を動かしてほしいと思ってしまう。
手を貸すってことは、相手ができると信じていないということなんじゃないかって思ったりする。
時間がないから急ぐ、っていうケースもあるけど。
でも、これは本当にあくまで私の論理。
夫は、私とは違って、大変なことはさせたくない、と思うひと。
だから、さっと息子に手を貸す。
ずるずると引きずって移動させる。
少し遠いところにあるものを取ってあげる。などなど。
息子もそうしてもらうと楽だから、助けを求める。
夫が働き方を変えてうちにいる時間が長くなってから、息子が自分で頑張って動くことがめっきり少なくなってしまった。
でも、父親との絆は深まったと思うから、一概にこれが悪いとも言えないんだよね。
助けてもらうことが増えたためなのか、病気の進行のためなのか、そこは誰にもわからないけど、
息子の体はどんどん動きにくくなっていった。
加速していった。
そうした状態を見て、私が「もっと自分で動いたほうがいいよ」と言っても、動くことがより辛くなっているから、ますます動きたくない息子。
その気持ちもわからないでもない私。
だってね、腹筋がない私が腹筋運動をしようと思うと、ものすごく大変だから、やりたいなんて思わないのよ。
でも、そんな自分を棚に上げ、やっぱり動ける体を維持することがすごく大事に思える私は、息子に提案をしてみた。
あのさ、やれと言われなくても、
自分で這って移動したら、
100円もらえるっていうのはどう?
そう、お金の力を借りようと思ったわけ。
正直なところ、私はあんまり期待をしていなかった。
たかが100円で、つらいことをしないんじゃないかって。
ところが、
息子は
「え、ほんと?」
で、あっけなく交渉成立。
そしたらさ、
次の日から、稼ぐ、稼ぐ!
私のお財布から100円玉が消えていく。
「朝はからだが硬いから動かないんだよ、だから助けてもらうんだ」などと、助けてもらう理由を見つけるのは天才級だった息子が、
朝から自分で這って移動してる。。。。
昼も。
夕方も。
できるんじゃん。
息子本人としても、これまで言い訳にしていたことと自分の新たな行動とが矛盾しているので苦笑い。
でも、100円の魅力でその矛盾を乗り越え、みずから、動けることや動けるようになることを証明してしまった。
100円は偉大。
この病気は進行性だからよくなることはない、と言われているんだけど、でも、劇的ではないけど、よくなることがあるんだよ。
それを私は息子からなんども見せられているから、ひとの体の可能性を確信してしまっている。
ただね、
本人がどうしたいか、どうありたいか、
がキーだと思う。
からだが動かないことで経験できることを、経験したいのかもしれないから。
それは、からだが動くことでは経験できないことかもしれないから。
で、ここまでは私の主観だし、息子の主観。
息子は2週間に1度、訪問マッサージを受けている。
体育会系のお兄さんにからだをほぐしてもらったり、軽い負荷をかけながらからだを動かすサポートをしてもらったりしている。
そうやって、からだを動かすことを、からだが忘れないようにしている。
「自分で動いたら100円稼げる」制度を活用するようになって初めての訪問マッサージの日。
そのお兄さんと息子はずーーーーっと喋っていた。
別の部屋で作業をしていた私の耳にもずっと、そのやり取りする声が聞こえていた。
喋っていただけではなく、その間、息子は指示に応じてからだを動かしていたのだという。
普段は、言われたようにからだを動かすためには、喋るのをやめて、どう動かすかに集中する必要があった。
集中していても、あれ?どうやって動かすんだっけ?となることもあった。
でもこの日は、めっちゃ調子よく喋りながら、からだを動かせていたのだという。
しかも、とてもなめらかに。
これは、動かすという指令がからだに伝わりやすく、その指令にしたがって動かしやすくなっていたということかなと思う。
動かすという指令そのものもクリアだったということかなと思う。
そして、その根底にあるのは「動かす」という本人の意志。
心とからだと頭が一致した時に、
ひとはその力を発揮できるらしい。
私が腹筋運動しようと思っても、思うようにできないし、つらい。(言い訳がしつこいぞ)
筋力が弱くてさっさと動けないと余計につらいんだよね。
息子が這って移動するときもそうなのだと思う。
そういう息子に「動け」ということを、私は嬉々としてやっているわけではないのよ。
「動ける」ことが彼の自由につながると思うから、言うのはつらいけど言っている。
まあ、親って誰でもそういうことはあるよね。
理学療法士をやっている友人の
「見守るのってつらいよね。
手を貸すほうがよっぽど楽」
という言葉に涙したこともある。
でも、めげずに100円の力を借りてみたら、からだが動きやすくなっていることを、そんなことは何も知らない第三者が確認してくれたことで、うふふと嬉しくなっていた単純な母なのでした。
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