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ハタチやって、二十歳。

こんばんは。突然ですが、私あと一週間とちょっとで二十歳になるんです。
そこで、ちょっとハタチへの文章を書いてみてもよいのでは、と。
もうすこしで終わる10代、もうすこしで始まる20代を考えようと思います。

「ハタチって、怖い。アンケートでは20代にチェックを入れなくちゃいけないし、税金は払わないといけないし。ほんとうに、ほんとうにハタチになりたくない」
ずっと言ってました、五か月くらい前。夏休みが終わり、一瞬だった秋も終わり、長袖を引っ張りだすころにはそんなハタチへの恐怖も薄れ、別に覚悟を決めたわけでもなく、受け入れたわけでもなく、今はただ無といった感じです。でもさ、ハタチやって。二十年も生きてきたんやって、私。
甲子園の選手たちはみんな年下になって、kpopも年下だらけになって、そうやって気づいたら「平成生まれ」とか言われるのかしらーん。
vaundyやadoが懐メロとか言われるのかしらーーーーーーん。

昔、今よりもっともっと幼かったころ、ハタチのお姉さんってすごく大人びて見えた。可愛くて細くて優しくて、撫でてくれる指は白くて儚げで、自分にまでいい匂いがうつりそうな。あれになれてんのかな、私って。
周りのみんなは何事もなかったかのように、日常の延長みたいな感じでハタチを迎えていくからびっくりしちゃう。
おい、おまえらちゃんと分かってんのか。ハタチになったらもうカブトムシとか捕まえにいけんのやぞ、もうシロツメクサで花冠とかも作れんし、その辺に咲いてるツツジの蜜を舐めることもできんのやぞ。
うっそ。うっそぴょーん。十代でもツツジは取っちゃだめだし、ハタチになってもカブトムシは取っていいって、aikoも言ってるよ。
なんこのボケ、つまんな。

話は変わるけど、世間の皆さんは自分の誕生日ってどう受け止めてるんですか。私は自分の誕生日をおめでたいと思ったことないんですよね。自分が少数派なのか、それともみんなそんなもんなのか知りたい。
今留学中なんですけど、外食文化やから家出ても自炊とかするタイミングなくて、でもどーーーーしても鍋食べたくなって、ネットで電気鍋買って作ったんです。別にそんなに美味しくなくて、今度はポン酢が欲しくなったんやけど、自分のために自分のためだけに、スーパー行って、野菜切ったり包丁やまな板使って、机ひっちゃかめっちゃかにして料理するってのはすごかったー。何が凄かったのかは言い表せないんやけど、とにかく凄くて。
だって自分の好きな味なんて、自分の好きな食材なんて自分が一番よくわかってて、それだけ買いさえすればいいんやもん。見栄えのためによーわからん緑の葉っぱ入れんでもいいし、どんだけタレつけても素材の味がなんちゃらかんちゃら怒られんし。料理中も皿洗い中も、なんでこんなことしてるっちゃろーって思うタイミングいっぱいあって。階段降りたら300円ちょいでプロが作った美味しいごはん食べられるのに、なんでこんなお金出して汚れもん作ってんねん!って何回もつっこんだけど、これが自分を大事にするってことかーって思いました。

なんかさ、さすがにこのままきもいなー、嫌だなーって自分で自分を否定しながら生きるの辛いかも、って思ってネットとかで調べるけど、「自分の短所や長所を知る」「素直になる」「よく寝て、よく食べて、運動する」とかしか出てこん。でも私の自己否定ってそんな気分の上げ下げとか躁鬱とか生理前のホルモンバランスに起因するものじゃないんよ。どんなに楽しい時も悲しい時も、心をがばって開いたら、ヘドロみたいにへばりついてる思う。冷蔵庫のべたべたみたいなんが底のほうにこびりついてるかもしれん。
いつでもどこでもうっすらあって、もうこいつとは何年もの付き合いやから、うまくコントロールできるようになったし、どんなに波が荒い時でもいつもと同じように振る舞える。人に「私って自己肯定感低くて―」って言うことは何よりも不健康なことだって知ってるし、誰に褒められても慰められても、こいつの根本的な解決にはならんことも嫌というほど感じた。とにかく私は自分に自分を認めさせたいんですよ。

だから話は戻るけど、自分に料理をして自分に食べさせてあげる、って体験がほんとに新鮮で、「ほんほん、とにかく自分を可愛い犬だと思えばいいんやー可愛い犬には面倒でも、自分の手でつくった健康なご飯を食べさせてやらんといけんもんな」って痛感、自分の顔の人面犬がお座りしてご飯待っての想像して嫌悪感、次の日マック食べて快感、無事外食生活にUターン、こういう失敗今までで何度あったかしら既視感、結局人は簡単には変われないよ無力感、いやそれでもこのままではいけない危機感、自分の意志の弱さにbb弾。

まじでなんの話❓❓
こんな長く自分のことばっか書いてると、「自分語りごめんね」と注釈を入れたくなるけど、noteって自分語りの場所やんか、だから堪忍してよね。
でもほんとになんの記事書いてんのか分からんくなってきた。
だから、あれよ。
二十歳こそは自分のことちょっとは認めてあげられるようになりたいね、っていうのと、いつまでたけのこの里vsきのこの山でバズろうとしてんのそんなんでいいんか日本国民はっていう話。

フン、どんなに国力が衰えても、秋の気持ちよさだけは誰にも奪えないぜ

好意と悪意って不思議なもので、よく好意は量が決まってる、みたいな話されるじゃないですか。
自分を愛した分だけ他人を愛することができる、とか、まず自分を愛さないと人を愛することはできない、みたいな。
でも悪意って無限だと思いませんか?自分に悪意を向けつつ、他人にも悪意をばらまくことって可能じゃないですか。いや、むしろ自分に悪意を向けてる人間は、必然的に他人にもその目を向けてしまうものだと思います。
小学生の時に「自分に厳しく、他人に優しく」が口癖の先生がいたんですが、それって無理だと思うんです。そんなことができる人間はいないって。
自分に厳しい人は、自然と人に求めることも多くなっていくだろうし、自分に厳しいのに、他人には優しい人って、なんか人を馬鹿にしてませんか?それか、自分以外のすべてを諦めてる。そんな人、絶対いやじゃないですか。私は人にも自分にも期待して、外れて、落ち込んで、また期待したい。まだ若いし。じゃあ、「自分に優しく他人にも優しく」?それはあり。
ふと湧き出る冷笑や持て余した攻撃性を自分に向けない・「自分に優しい」と「自分に甘い」の差をしっかり理解し努力は怠らない・優しさを受け取るに値すると思えるまで自分を赦す、の三本。これができないから苦しいんですが。
ついでに言うと、「自分に優しく、他人に厳しく」って人はいます。うじゃうじゃ。嫌われるけど、なんだかんだで生きやすそうではある。

ずっと少女でいるために、死ぬほど成長しないといけないんだよね。
本当の子供は子供のままでいられない。


ネイルは魔法。


二十代が終わるとき、私の周りには誰がいて、誰がいないんだろう。
私の中には何があって、何が消えてるんだろう。
今年の夏、日本に帰国したらインサイドヘッドが金曜ロードショーか何かで流れてて、それを見てたんですが、久しぶりに見たせいか内容をちゃんと覚えてなかったんです。ビンボンっていうキャラクターなんて一ミリも印象になくて、でも自分を犠牲にして、ヨロコビを助けるところで号泣ですよ。
綿あめみたいな肌感で、鳴き声はいるかで、涙はキャンディー。なんて愛おしいキャラなんだろ。でもきっと私の中にもいたはずです、ビンボンと同じような友達が。でもそれってどう足掻いても一生懸命すくおうとしても、指の隙間からこぼれ落ちてしまうものなんですよね。ビンボンばっかじゃ成長できない。もう今私の中には「ヒネクレ」とか「シャニカマエ」みたいなのがいるなずなんです。はやく出てけよ、まじで。絶対いつかお前らを追い出すからな、いや、お前らが私を月に連れってってくれ。そして共に散ろうではないか。そもそもビンボンは犠牲にならなくてもよかったんだ。忘れられる必要ないだろ、いや忘れられたとしても、なぜか立ってるだけで偉そうな野球部の監督ポジになって、たまに司令塔を覗いて「おーいカナシミ、お前また太ったのか?そんな性格に体形じゃ彼氏もできないぞ、おっ、ムカムカは今日も不機嫌だなあ、生理かぁ?(笑)、ちょーっと後ろ通りますねぇ、あ、おい、ビビリ、ちょっとこっち来て手伝ってくれ、おいお前男のくせに力もねえのか、もういい、ったく、お前の変わりはいくらでもいるんだからな。イカリ、これお前がいれたのか?男が入れた茶なんてまずい、飲むわけないだろ。あ、ヨロコビちゃーん、俺のキャンディーなめない?(笑)」


才能もない、努力もしない癖に、現実にはないものが欲しくて欲しくてたまらなくなって、そのせいで現実を無下にしちゃう。関係も一緒。どうやったら今あるものを今この瞬間に愛せるのかなあ。


これ脱線しすぎてどう終わるのかわからんくなってきた、どうなんの、コレ。公開すんのかな。せんまま消えていくのかな。てか私の家族でも友人でもない癖にここまで読んだ人がいるならば、それはキチガイですからね。時間無駄にせんと、はやく洗濯でもしに行きやー。
この記事のタイトルって何にしたんやっけ、ハタチについて書けばいいんか。今カフェにいるんやけど、ずっと椅子がミシミシ言いよる、静かにしてほしい、私が重いみたいやん。


”自分が気を遣うのではなく、いかに相手に気を遣わせないかが上手なコミュニケーションの秘訣だ”
あ、まじ。そうなると、コミュ障って言葉の意味も変わってますよね。
きっと自分ができないから思うのだろうけど、他人に躊躇なく話しかけれる人って、他人のこと舐めてると思う。ごめん、言い方間違えた。自分の軸がしっかりしているから、人の一挙手一投足に心を左右されないんだと思う。だからぽーんと言葉を出せるし、多くの人はその無邪気さ、無遠慮さに魅了される。だって相手が気を遣ってるのってすぐに分かるしこっちにも伝染するやん。その強さが羨ましいよーーー、いえ。(大谷翔平)憧れるのをやめましょう。これまじでいい言葉だと思う。二十代は憧れるのをやめる年にしたいな、おっ話が戻ってきた。憧れって沢山ある。理想の姿もちゃんとある。「すごいねー羨ましいねー」って遠くから眺めるだけじゃなくて、「いやあれはイタいよ笑」って冷笑してる時もあるからたまったもんじゃない。自分も努力するんやよ、その憧れに少しでも近づけるように。


20歳になっても特に何も変わらんよーと言われる。
いや、変わるべきやろと思う。
人生のハイライトになりうる経験、なし。
忘れたくても忘れられない強烈な思い出、なし。
努力もできん、継続もできん、なにかを創り上げたこともない。
「私のことは嫌いでも、AKB48のことは嫌いにならないでください」を残して卒業したあっちゃんの当時の年齢は二十らしいですが、、、。
まじ病みそう。


大好きだった漫画や小説の主人公たちをどんどん追い抜いていくのに、私はまだその子たちに救われている。


お腹すいたし、コンビニに荷物取りいかんといかんから、雑な終わり方でも、そろそろ終わらんといかん。下書きに保存してあとで校正するほど真摯に向き合ってないねんよ。
いっぱい顔触ったから、チークのラメで掌がキラキラしとう。
こういうのを見ていちいち綺麗だなあ、幸せだなあ、って一回思ってみようかな。なんやそれ大したことじゃない大げさな詩人かっつーのって悪魔が囁くけど一回何も考えずに呟くことが大事だと思うんですよ。私みたいな人間は。
でも幸せって考えないことやから、無理に感じようとした時点でそれは本当の幸せなの?ちゃんと純度100パ―の幸せなんかな、ちょっとも嘘混じってない?お腹すいた、解散






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