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寄せては返す波のように

マミートラックという言葉、概念をご存知ですか?

平たくいうと、妊娠出産を機に "出世コースから外れる"  +そこから抜けられないこと です。

ダイバーシティに関連する組合活動をやっている中で、二人目の産休明けに知った言葉でした。3年前のことです。

…とても長くなりましたが、マミートラックにハマるまで、抜け出そうともがき足掻く今までを、思うままに書いてみます。

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■独身時代:

15年前に社会人になり、6年半営業をしていました。首都圏かつ花形といわれる部署に配属され、上司も同僚も今見ても優秀な方々に囲まれていました。

(女性営業)管理職第一号を目指せ。

わたしが何も言わなくても思わなくても、様々な先輩方から声をかけられていました。

何故私が先陣を切る?後輩たちのために?私の人生は私が決めるのよ。こんな多忙な生活のまま、子育てと両立なんてできやしない、まっぴらごめんだ。思っていました。

私の母は専業主婦です。小学生の頃は、鍵っ子のことを、自由そうでいいななんて思ってしまっていました。家に帰ればお母さんがいるのが当たり前。父は職業柄不規則な生活をしていました。それでも必ず土日は一緒に遊んでくれました。パパっ子でした。私とママ、どっちが1番好きなの?と、パパを困らせる一人娘でした。

■結婚、妊娠:

28で結婚、会社の同期で、夫はエンジニアです。夫が名古屋勤務で別居婚。お世話になっていた上司や諸先輩のおかげで、最短で異動させてもらえました。また、総本山と言われる花形の部署でした。

そこで、赴任直前の妊娠発覚。半年で産休に。会社に迷惑をかけたなと思いました。私の個人的事情に配慮していただいた上で着任したのに。2年近くフルフルで育休を取得し、さらに時短で復職。東京時代からお世話になってた先輩が課長になり、サポートしてほしいとのことで隣の営業課に異動しました。特命でプロジェクトを立ち上げましたが、また妊娠発覚。半年で産休に。

育休中に二人目を授かりたかったのですが、思うようにはいきませんでした。同僚や会社からすると面倒でしかなかったと思います…

一年半の育休を取得して復職(時短)。また東京時代からお世話になってた方からのお声かけで異動。エンジニア部門でした。営業は、やってただけに、しんどいのも分かっていました。エンジニア部門では名古屋以外への異動も少なくなります(組織体制上)。わたしへの配慮でした。有り難くお受けしました。営業へはいつか必ず戻りたいとお伝えした上で。

■マミトラ:

その頃には、トータル四年近くの産休育休期間を経て、同僚はみんな、夫も含めて昇格していました。課長代理は同期です。おかげで、彼の裁量で全て任せてもらえて、新規のプロジェクトや業務は全てやりたいようにやらせてもらいました。3ヶ月で概要が掴めてからは、業務調整もしやすく、こどもの急病にも対応しやすく、両立しやすい環境でした。

やりがいは自分で見つけましたが。課の成り立ちとしてルーチンワークが主。関連部門もしかり。…窓際ということです。上司もそういう人しか来ない。

ここに来るまでは、期待も評価も、何もこちらが意識していなくても、してもらえていました。わたしを引っ張ってくれた方が1年も経たず異動され、はじめましての上司が他部門からきました。わたしの意見や提案が煩わしかったようで、全く信頼関係を築けず。上司に信頼されない、信頼できない経験も初めてでした。関係者をおさえてても、その評価はひっくり返せませんでした。前の上司は昇格させようとしてくれてたのも、白紙に。

その間にコロナ禍になり、在宅は進んだものの、やはり席にいる時間が限られているので、手を動かせる時間が限られます。昇格したかったのは、上昇志向でも何でもなく、手を増やしたかったから。その方が柔軟性と貢献度を高められると考えたからです。

■脱出計画:

こどもが年長/年少になったのを機に、時短を解除。朝の送りは夫にお願いすることにしました。隙間時間や会社の制度、課長代理/夫の理解も有難くフルに生かして、業務を全うしました。周囲の信頼を得てもなお、上司の評価だけは変化ゼロ。もう、心が折れました。彼の下を去る決意をしました。営業に戻るのです。

■いま:

また、東京時代からお世話になっていた諸先輩のお力を借りて、最短で異動が叶いました。多忙で、社内でも異色の部署に配属になり、他ではできない経験を楽しんでいます。

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■キャリアって?人生って?

営業を離れていた間、はたと立ち止まって、色々考えることができました。今なら、あれも必要な時間だったのだと、思うことができます。どこに居ても何をしてても、わたしの味方で居てくれる方々の存在にも、改めて気づくことができました。その方達が居なかったら、わたしはきっと、とっくにあの時、折れていました。

お仕事、好きです。社会と繋がっている、誰かのお役に立っている、りさって呼ばれる。

〇〇くんのママだけになる人生が、いやでした。名字も捨てて、なのに下の名前も呼ばれなくなる。

二児の母は、誇りです。誰もが自然に授かれるものでもなく、妊娠という神秘的な体験も、親になることも、経験できて感動と感謝しかなく、そこに後悔は微塵もないです。

こどもたちが、自ら考え行動し、素敵な仲間たちと出会い、幸せに生きられるように。わたしにできることは、何だろう。

■先が、見えない。

5年後、10年後の自分、特にキャリア、見えません。頑張っていたら、何とかなる、何とでもなる、いー感じのところに辿り着ける、辿り着くものなんだろう、と、思っていました。いまは、自分で選ぶんだ、と、思っています。

夫のキャリアも含めた、家族も、大切。後悔しないように、その時のベストを尽くして考え抜く、やりきる。今の先にしか未来は無い。その積み重ねなんだろうなと。

今は、可愛い後輩たちのために、わたしにできること、考えられるようになりました。10年前のわたしが聞いたら、きっとびっくりするでしょう。こどもたちの世代にも、俗に言う"昭和の価値観"を引き継ぎたく無いからです。わたしの世代を境に、共働きが増えている体感もあります。国や会社が目標として数値化している、女性管理職に、はからずも最も近い世代でもある。(わたしにはまだ遠いけど。)

わたしに、できること。わたしだから、できること。

毎日、寄せては返す心や体の波を見つめながら。全力で休むことも忘れずに。

#ワーママ #自己開示日記