読蜥蜴の毒読日記 24/3/22 ②

それは「原作」とよばれる #1

映画『ザ・キラー』2023 と
漫画“The Killer”(“Le Tueur”の英訳版) について


“The Killer” directed by David Fincher (2023)
“Le Tueur” scénarisée par Matz dessinée par Luc Jacamon“
The Complete The Killer ”(English Edition) translated by Edward Gauvin and Matz  
ARCHAIA 電書版

「殺し屋は何と闘い、フィンチャーは何に敗れたか」


 映画『ザ・キラー』の原作はフランスのバンド・デシネ “Le Tueur” です。
 オリジナル版は全13巻。第1巻の刊行が1998年で最終13巻が2014年。足かけ6年の長期シリーズです。私が読んだ英訳版電書総集編だと1巻の頁数がだいたい60頁超くらいですからBDのなかでは長い方の作品になります。
 原作漫画““The Killer”(“Le Tueur”の英訳版)”の内容を紹介するとこんな感じです。

 主人公はフリーランスの殺し屋。
 原作第1巻は、標的が現れるはずのホテルの前の建物で殺し屋が張り込みをしているシーンから始まります。映画とほぼ一緒のシチュエーションですね。
 ですがなかなか現れない標的を待つ殺し屋は、次第に精神的に追い詰められていき…
という展開で、ここまでは映画と原作漫画はかなり一致しています。

 ところが、この後の展開は映画と原作漫画ではけっこう違ってくるんですな。

 第1巻の最後で標的を始末した殺し屋は、第2巻では追われる身になり、追尾してきた警官を殺し、引退を決意します。しかしそこで自分が罠にかけられていることに気付き、反撃にうってでると、とりあえずの借りをかえします。
 そして第3巻ではヴェネズエラの麻薬カルテルと関係を持ち、また殺しの仕事を引き受けざるを得なくなります。しかもカルテルのボスの甥を教育するため、その浮かれた素人と一緒に殺しをせざるを得なくなるのですが…
 そして4巻で自分の隠れ家を襲撃され、女を暴行された殺し屋は、第5巻で麻薬組織の手を借りて自分を罠にかけようとした者に復讐を果たし、本当に引退を決意します。ちなみに殺し屋を嵌めようとした者は全員が殺されます。やっぱそうでなくちゃね!
 ここまでで物語は一応完結するんですが、続く6巻で殺し屋はさしたる理由もなく引退を撤回、殺しの稼業に戻ります。そしてヴェネズエラの麻薬組織と再び関係を持ち、ボスの甥や元CIAと組んでキューバの石油事業に絡んでいくのですが…
 そして殺し屋稼業を続けながら主人公はトントン拍子に石油事業で大金を得るようになり、殺し屋稼業も続ける必要はなくなります。しかし……
 
 という訳で、後半はほとんど“起業ファンタジー”みたいな展開になって、私の様にフランス産ゴルゴ13を期待する読者を戸惑わせます。まあ結末は一応苦いものを迎えるのですが。。

つまり原作漫画は大雑把にいって二部構成の筋立てになっており、前半と後半ではかなり雰囲気が違うわけです。前半は「復讐篇」、後半は「石油成金篇」とでもいいますか(笑)

 ただ共通するのは主人公のキャラとその描写で、これが一風変わったものになっています。まあ正直かなりいけすかない奴なんですが。

 多分日本の漫画読者は“殺し屋”漫画といったら『ゴルゴ13』を連想すると思います。寡黙で何を考えているのか分からず、ひたすらプロとして暗殺を遂行するキャラクター。
 ところが本作の主人公はその真逆にいるキャラクターです。なにが逆なのか、というととにかくよくしゃべる殺し屋なんです。ただし、誰かを相手に話すわけではない。彼が喋るのは脳内で、声にならないモノローグにおいて饒舌なのです。
 それは第1巻の登場時から明らかで、彼は第1巻の大半を通じてひたすら標的が現れるのを待つわけなんですが、その待機の時間をひたすら饒舌なモノローグと過去の回想に費やすわけです。そのモノローグの内容も“哲学的”と言えば聞こえはいいですが“人間世界は弱肉強食だ”とか“人類は昔から殺し合ってきた”とか“資本主義の奴隷にならないために殺し屋になった”とかいう俗流マキャベリズムをなぞったようなものばかり。
 また殺し屋の生い立ちも別に普通で、法科の学生だったんですが、賃金労働の奴隷にならないために殺し屋の路を選んだ、というドラマ性皆無のものになっています。
(大学生あがりの殺し屋ではなく、もっと低階層出身の主人公だったらもう少しドラマチックになったのでは?と思いますが、まあそれはそれとして)

 そしてこの“脳内で饒舌に独り言を言う” というキャラは、映画版にそのまま踏襲されています。違うのは映画では疑似哲学めいた独白が少ないところと、原作漫画にはザ・スミスが登場しないところですか。

 原作漫画の方では、その饒舌な独白の合間に、殺しのアクションが炸裂するわけで、その殺人場面自体はまあ面白いと思います。
 ただ原作漫画を読んでいてどうも気に入らないのは、殺し屋の活躍がトントン拍子に行き過ぎるところなんですね。
 孤立無援の殺し屋なんだから、巨大な組織を相手にしたら女の心配なんかする暇もないんじゃないかと思うんですが、どういう訳か殺し屋の身辺に脅威が忍び寄るシーンは殆どなく、凄まじい情報を持つ殺し屋はまるで透明人間のように好きなところに出現しては標的を殺し、簡単にその場から逃亡します。
 そう、この漫画には哲学的歴史的な独白は溢れているんですが、サスペンスが足りないのです。
 主人公がいつ何時、危険に陥るかもしれない、という切迫感がなければ、いくら派手なアクションを美麗な画で描写しても読者は飽きてしまうんじゃないか、と思うんですけどね。
 
 そしてこの同じ欠点を、映画『ザ・キラー』も共有していると思います。
 映画の殺し屋も、最初の殺しが失敗してからは追われる立場にいるはずなんですが、いとも簡単に敵を追う立場に立ち、順調に復讐を遂げていく。お話としてはテンポよく進んでいきますが、観客を捕える膂力にはかけるところがあるのではと。
 ですが、そこはまあ欠点としては些細な点だと思います。

 映画『ザ・キラー』と漫画“The Killer” に共通するより大きな欠点、それはやはり「饒舌さ」だと思います。
 これはもしかしたら言いがかりに近い指摘かもしれません。なにしろフィンチャーはこの漫画を映画するにあたり、主人公の内面モノローグに魅力を感じて映画化したと言っているのですから
(正直、フィンチャーは原作漫画の第1巻だけを読んで映画化したのではないか、と私は疑っています)
 ですが、それは映画で実践した場合、やはりよろしくない点だったと思います。
 それは映画の冒頭部分で明らかではないでしょうか。映画は漫画と同じく、殺し屋の待機を描きます。つまり主人公が何もせず、ただ待つだけ、という姿を描くわけです。
 これが原作漫画であれば美麗な画面と並置された独白台詞(テキスト)という形で何もしないただ待つだけの主人公を面白く描けます。
 ただ、映画では何もしない主人公を描くとき別の課題があり、その処理にフィンチャーは失敗したと思います。
 それは「時間」をどう描写するのか、という点です。標的を狙い孤独な待ち伏せを続ける殺し屋を描く際、演出家はなにより無為な時間と沈黙とどう向き合うか、ということを考えるはずです。ですが、フィンチャーの企画ではそもそもその点が回避されている。なぜならこの映画には沈黙する時がほとんどないから。最初から主人公のモノローグが観客の聴覚を満たし、あろうことがそこにザ・スミスの音楽まで垂れ流される。その独白がきいた風な哲学的な内容でないのはよろしいかと思うのですが、ではかえって何のためのモノローグなのか、と気になってしまいます。単純に映画における沈黙を怖れて回避しただけではないか?

 そしてこの映画は沈黙を回避したが故に、時間とどう向き合うのかという点でも失敗したと思います。待ち伏せの間の無為な時間を描写するにあたり、フィンチャーはテンポよくアクションを摘み、画面で絶えず何かが起きて、観客の視覚を楽しませるという戦略にでました。それも一つの方法だったと思います。ですがそこでフィンチャーは時間に負けた。持続することを考えない細切れのアクションは、一見歯切れがいいように見えますが、タメがないために盛り上がりに欠けます。
 この何もない時間の演出を回避するため、アクションの見せ場をつないで映画を構成する、というのはほぼ全編にわたり実践されています。そしてその結果、この映画はタメの利かない、クライマックスのない作品になったと思います。

 おそらくこの映画の中で時間の流れがはっきり感じられたのは、中盤の格闘シーンとティルダとの会話シーンだけでしょう。そこでは適当に編集することのできないアクションの持続が映画の時間を実感させ、見ごたえのあるシーンをつくっていました。

 それ以外のシーンでは、持続することなく編集で摘ままれたアクションがだらしなく繋がれています。時間感覚を喪失し結果としてアクションの面白さを実感できない場面が続くばかりです。映画に時間がなければ、そこにはサスペンスもアクションもないはずです。『ザ・キラー』はアンチクライマックスの映画ですが、それはフィンチャーの狙いだったのでしょうか。

 デビッド・フィンチャーは応援している監督なんですが、作品を観るとしばしば失望させられます。この映画も、悪党パーカーを焼き直したストーリーのくせに、あの小説の特徴である簡潔さを避け、饒舌とだらしない見せ場の垂れ流しという信じがたい戦略を採用しています。
 フィンチャーは今撮りたい作品を撮れる地位にいるでしょうから、もっと簡潔な作品を撮ってくれないかな、と思わざるをえません。題材がシンプルなのではなく、そのスタイルと演出がシンプルであって欲しい。そんな新作を個人的に期待しています。

“Le Tueur” scénarisée par Matz dessinée par Luc Jacamon
“The Complete The Killer ”(English Edition) translated by Edward Gauvin and Matz  
ARCHAIA 電書版

“The Killer” directed by David Fincher

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