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フュージョンを聴いていたら、フラメンコに行き着いた件:1980〜81年のフュージョン風景

 78〜79年、大学に入学したとたんにやって来た一大フュージョンブームにハマって、ロック以外の音楽も聞き始めたわけです。

 ところが、80年代に入ると、一転してジェネシスとその過去メンバーのソロアルバムの乱れ打ちみたいな状態で、けっこうプログレっぽいところに回帰していたのですが、その間もまあフュージョンは聞き続けていました。でも、80年代に入ってからは、かつてのジョージ・ベンソンや渡辺貞夫のようなシングルヒットは生まれていなかったと思います。あの渡辺貞夫も、79年にMorning Island、80年にHow's Everything、81年にOrange Expressと立て続けにフュージョン路線のアルバムをリリースするのですが、以前ほどのヒットにはなりませんでした。唯一気を吐いていたのは元クルセイダーズのラリー・カールトンとジョー・サンプルくらいだったかな…。

Strikes Twice / Larry Carton 1980

Voices In The Rain / Joe Sample 1981


 そんな中で一番驚いたというか、この時期一番勢いがあったのがカシオペアだったのではないかと思います。彼らは79年にデビューしていて、そのときはそんなに話題になった覚えがないのですが、80年に発売されたこのアルバムを聴いて、わたしもぶっ飛んだ口なのです。

Thunder Live / Casiopeia 1980

80年の夏に帰省したとき、六本木のピットインで彼らのライブを見ました。そのときの演奏、そして観客の熱気がものすごかったことを良く覚えています。あの時代にカシオペアのライブを体験できたというのは本当にラッキーだったと思えます。

 そして1980年の夏のことです。この頃、毎年夏になると、ライブ・アンダー・ザ・スカイと称するジャズ・フュージョン系の野外コンサートが開かれていました。調べたところ、このイベントは1977年から始まっているのですが、ときどき地方に一部バンドが回ってくることがあり、わたしは当時住んでいた地方都市でこの年にスタンリー・クラークバンドを見ているのですね。ちょうどスタンリー・クラークが一番ロックっぽいことをやっていた時期なんですね。このときのスタンリー・クラークバンドは、4人組で、もちろんスタンリー・クラークはベースなのですが、リードギターばりにベースでソロを弾きまくるは、ベースでコードカッティングするとか、ロックなバンドだったのです(^^;)

Rocks, Pebbles And Sand / Stanley Clarke 1980

このアルバムは、完全にロックだと思います。スタンリー・クラークもこの頃はこんなことやってたわけで、まあこれも「融合」という意味のフュージョンの一側面なんですが、ロックならばスタンリー・クラークじゃなくてもいいんだよなあ、、とか思ってしまったのを覚えてます。こういうさじ加減って難しいですよね(^^;)

 そんな時期に、わたしは少しずつですが、ジャズ寄りのアルバムも聴くようになっていました。やっぱり入り口はチック・コリアだったわけですが…。

Return To Forever / Chick Corea 1972

Light As A Feather / Chick Corea and Retrun To Forever 1972


言わずと知れた、チック・コリアの名作ですね。もともとエレクトリックなチック・コリアから入門して、こういうもっとジャズ寄りのアルバムにも、ちょっとずつ手を伸ばし始めていたのがこの時期だったわけです。

Friends / Chick Corea 1978

 こうして、この頃から、チック・コリアだけでなく、セロニアス・モンク、コルトレーン、オスカー・ピーターソン等など、まあ有名ドコロのジャズ・ミュージシャンをちょろちょろかじり始めわけです。ただ、正直それほど深くのめり込むことはありませんでした。当時チック・コリアと並び評されていたハービー・ハンコックのジャズが、わたしにはどうにも難しくて、あまりハマることが出来ませんでしたので、まあわたしはジャズについてはその程度の耳しか持ち合わせていなかったということなのです。

Concierto de Aranjuez(邦題:アランフェス狂想曲) / Jim Hall 1975

この頃よく聞いたジャズでは、このアルバムもありました。名盤と呼ばれるジャズのアルバムはポチポチ聞いていたのですが、実はそれほど気にいるものが多くなかったのです。その中で、このアルバムは好きでした。

 そうして、81年の夏のことです。ライブ・アンダー・ザ・スカイに、チック・コリアと一緒に、パコ・デ・ルシアというフラメンコギタリストが来日するということになったのです。

 このとき、パコ・デ・ルシアというギタリストのことは全く知りませんでした。というか、フラメンコという音楽をまともに聞いたことすらなかったため、フラメンコギタリストがチック・コリアとジョイントでライブをやるという話を聞いても、なんだかあんまりピンとこなかったわけです。ところが、これが結構話題になっていたのですね。その頃だったと思うのですが、たまたま読んだ雑誌のギタリスト対談みたいな記事で、渡部香津美が「パコ・デ・ルシアは、凄すぎて、ギタリストとして何の参考にもならない」というような発言をしていたんですね。そのとき、「渡部香津美ほどのギタリストがそんなこと言うなんて、一体どんだけ凄いんだ?」と思って、興味をもったのでした。

 ところが、81年というのは、わたしが大学の卒論で絞られていた時期でした。フィールドワークを伴う卒論をやっていて、5月のGWの予備調査から夏の本格調査(ほぼ3か月フィールドに入っていた)などで追いまくられていたんです。卒業がかかってるわけですから、とても夏のライブ・アンダー・ザ・スカイを見に帰省するなんてことが出来なかった時期なのです。こうして話題になっていたパコ・デ・ルシアを見に行けなかったため、しかたなく、レコードを買ってみたというわけなのですね。ところが、このときチック・コリアとパコ・デ・ルシアが一緒に出したレコードが無かったのですよね(これ、いまでも無いですよね…)。なので、しかたなくレコード屋の店頭で物色して、1枚レコードを買いました。このとき買ったのが、「天才」と題されたアルバムだったのです。

天才 / パコ・デ・ルシア 1980

1980年発売のレコードですが、パコ・デ・ルシアが20歳の1967年に録音されたものだとか。全編ソロギターなのですが、この時点でもう天才としか言いようがないほどのパフォーマンスに圧倒されました。

 このアルバム、どうも日本独自のアルバムらしく、現在AppleMusicなどには並んでいないのですが、わたしの初体験は、このアルバムでした。月並みなんですが、初めて聴くフラメンコギターに、本当に衝撃を受けました。なんだこれは! という感じでしたね。また、このアルバムには入っていなかったのですが、別のアルバムに入っていた「二筋の川」という曲にもドハマリしたわけです。ということで、この時期ものすごく熱心にパコ・デ・ルシア聴いたんです。他にも何枚かアルバム買いましてね。それだけでなく、他のフラメンコギタリストにもちょっと手を出してみたのですが、そうするとちっとも面白くないというか、そちらは退屈なフラメンコに聞こえてしまったのですね。結局フラメンコが好きになったというよりは、パコ・デ・ルシアが好きになったというだけの話ではあったのですが。

Live Under The Sky, 1981(Live)

この81年のライブ・アンダー・ザ・スカイのライブはAppleMusicで聴けるようになってますね。2022年リリースみたいです。

そしてトドメみたいにやってきたのがこのアルバムですね。これも本当にシビレました。アル・ディメオラはもちろんRTFの頃から知ってますしソロアルバムも持ってました。ジョン・マクラフリンは、フュージョンを聴き始めた頃、マハビシュヌオーケストラのアルバムを何枚か聴いてはいたのですが、わたしはちょっと苦手なタイプだったのです。でもここでのプレイは壮絶としか言いようのないもので、この3人のギターバトルは、ほんとにトンデモナイ世界だったのでした。

Friday Night in San Francisco /Al Di Meola, John McLaughlin, Paco de Lucía 1981

 そして、翌82年にもう一度チック・コリアとパコ・デ・ルシアは来日を果たすのですよね(ライブ・アンダー・ザ・スカイではない単独公演)。このときわたしはもう会社員になっていたのですが、運良く世田谷の人見記念講堂で彼らのライブを見ることができました。ついにパコ・デ・ルシアのライブを見ることができたのですね。このときのライブは2部構成となっていて、1部はパコ・デ・ルシアのソロ、2部がチック・コリアとのデュオという構成でした。1部の幕が開くと、ギターを1本持って、ふらっとステージに現れたパコ・デ・ルシアが、中央の椅子に座ってギターを引き始めた途端に、ものすごい世界に引きずり込まれて、金縛りになったような記憶があります。あまりにもすごくて、正直「チック・コリアはどうでもいいから、2部もソロ弾いてくれ!」と思ったのを覚えてるんです。本当にあれも人生で忘れられないライブのひとつでした。

 こんな調子で、大学後半の1980年〜81年頃というのは、それまでの2年間に比べると、随分とフュージョンブームが沈静化した時期だったと思うのです。そして、その頃のわたしにとって、フュージョンの隙間を埋めたのが、過去のジャズ名盤や、パコ・デ・ルシアだったというわけです。大学生になって、酒を飲むようになり、「ジャズ」という音楽にちょっとした憧れみたいなものをもっており、そっちに少しずつ入っていこうとした感じもあったのですが、結局それほどジャズには深くはまれなかったわたしだったのでした。



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