1985年のプログレ的風景:フィル・コリンズ祭りの始まりと、マイク・ラザフォードのブレイクに、エイジアの失速...
洋楽の歴史として、1983年がマイケル・ジャクソン、84年がワム!の年だとすると、85年は、フィル・コリンズの年だと言っていいのだと思うのです。この年7月に行われたライブエイドでの悪目立ちのようなのまで含めて、この年は本当にフィル・コリンズが売れまくった年なのです。スタートは、85年1月です。ソロアルバムとして3枚目のこのアルバムのリリースからなのです。
No Jacket Required / Phil Collins
このアルバムからは、4曲のシングルカットがあります。一部アメリカとイギリスでリリース順が異なるとかあるのですが、以下はアメリカでのリリース順です。
One More Night
Susudio
Don't Lose My Number
Separate Lives
そして11月にアルバムから最後にシングルカットされたのがこの曲なんです。この曲がビルボードシングルチャート7位を記録したのは86年になってからでした。
Take Me Home
とまあ、一部86年にかかるわけですが、ここまでの5曲がいずれもビルボードシングルチャート10位以内を記録し、うち3曲は1位獲得と、ほとんどマイケル・ジャクソンのごときヒットを記録するわけなのです。
その間7月に行われたライブエイドでフィル・コリンズは、イギリスでスティングと一緒にステージに立った後、コンコルドに乗ってアメリカに駆けつけ、今度はエリック・クラプトンのバンドでドラムを演奏して、次にソロでIn The Air Tonightを弾き語り、その後レッド・ツェッペリンと共演するという、まあちょっとウザイほど目立ちまくるわけです。ただ、このレッド・ツェッペリンとの共演が、ちょっと物議を醸すことになるわけですね。
さて、年間通してフィル・コリンズが売れ続けたこの年ですが、3月にはピーター・ガブリエルの作品がリリースされています。こちらは今度は映画のサントラをひとりで担当したというアルバムでした。
Birdy / Peter Gabriel
映画もそれほどヒットしなかったと思うのですが、何よりもピーター・ガブリエルが、真面目に劇伴をつくっちゃってるんですよね。このパターン、真面目なミュージシャンがサントラ任されると陥るらしく、以前クイーンがフラッシュゴードンでやってしまったのと同じような感じなのですよね。それでもクイーンはタイトル曲くらいはヒットさせたんですが、このときのピーター・ガブリエルの作品には、シングルカットできるような曲が皆無でして、これはさすがのピーター・ガブリエルファンにとっても相当厳しくて、最後まで聴き通すのもつらいアルバムとなってしまっていたのでした。ここまで、ピーター・ガブリエルは、melt(ソロ3rd)Security(ソロ4th)と、安定した人気を持つようになってきたのですが、さすがにこのアルバムを聴いて「大丈夫か?」とちょっと心配になったのです。でも、これこそ杞憂だったのは翌年になるとすぐにわかるのですね。
一方、10月にやってきたのは、ジェネシスのマイク・ラザフォードの3枚目となるソロアルバムでした。
Mike + The Mechanics / Mike & The Mechanics
マイク・ラザフォードは、2ndソロアルバムで自分で歌まで歌って大コケした反省からか、今度は個人名のソロアルバムではなく、グループとしてのアルバムという体裁でした。このとき彼は、ひとりで曲を作るのではなく、共作してくれるパートナー作曲家をレコード会社から紹介してもらって曲作りをして、それをグループとしてのアルバムにまとめるという方法をとったのですが、これが当たったのですね。こうして、シングルカット第一弾の Silent Running が全米シングルチャート6位の大ヒット。さらに次の All I Need Is A Miracle が全米5位となる大成功を収め、以後マイク・ラザフォードは、このメカニクスというバンドをジェネシスの傍らずっと続けることになるわけです。(その後89年には、バンド名義で全米No.1の大ヒットまでとばすことになります)
Silent Running / Mike & The Mechanics
All I Need Is A Miracle / Mike & The Mechanics
そして、この年の最後を飾ったのは11月リリースのこのアルバム。エイジアの3rdアルバムです。
Astra / ASIA
ところがこれが売れなかったのですね。日本ではそこそこ売れたのですが、アメリカではアルバムチャートで最高67位、シングルカットされた Go も、全米46位が最高位という大失速。サウンド的には、スティーブ・ハウが抜けたとは言え、ジョン・ウェットンのエイジア節はけっこう健在で、わたしもそんなに悪くないとは思っていたのですが、でもやっぱりアルバムを重ねるたびにちょっとエネルギーが下がってる感じは受けてはいたのでした。ジョン・ウェットンは「なぜ急に売れなくなったのかわからない、あれだけの作品で売れなければ今後何を作ればいいんだ」とまで語ったそうなんですね。やっぱりこの頃、次々と新しいサウンドが出てくる時代に、一度ヒットしたからといって、キープ・コンセプトやってしまうと続かないということだったのでしょうか。
この年は、前年に全米No.1ソングを出したイエスが、勢いにのって次のアルバムをリリースしていれば、またひょっとして大ヒットもあったような気もするのですが、彼らの次のアルバム(Big Generator)が出てくるのは何と1987年まで待たないといけないわけで、そこまで間が空いてしまうと、もう全米No.1ヒットの余韻なんて何も残らないわけなのです。
さて、遠い日本ではまったく当時のムーブメントがわかっていなかったわたしですが、イギリスを中心として沸き起こっていたネオプログレッシブムーブメントの中心バンド、マリリオンは、この年も快調に3rd アルバムをリリースします。
Misplaced Childhood(邦題:過ち色の記憶) / Marillion
そして、このアルバムで、マリリオンはヨーロッパでの人気を決定づけるわけです。6月にリリースされた本作は、全英アルバムチャートで1位を獲得しただけではなく、41週もチャートにランクインするという大ヒット。その他ドイツ、オランダ、スイスのチャートでもベスト10に入ったわけです。内容も、いかにもプログレのコンセプトアルバムでして、ジェネシスがかつてFoxtrotという4枚目のアルバムで一気にプログレバンドとしての評価を得たのと同じようなことを、彼らは3枚目のアルバムでやり遂げたと言うことなのでしょう。結局、ヨーロッパにおいてはまだまだこういう音楽は求められていたということだったわけで、エイジアやイエスだって、もうちょっとやりようがあったんじゃないかと思ったりするわけです。まあ今さらなのですが。
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