安曇野いろ「アイリッシュグリーン」
『ダブリンの市民』 ジェームズ・ジョイス
岩波文庫
アイルランドは厳しい風土条件と、争いによって傷めつけられた国というイメージが強い。その一方で、ケルトの民という神秘的なイメージもついて回る。イメージカラーはもちろんグリーン。
本を読むきっかけになったのは、新聞に掲載されていた伊集院静の娘西山繭子さんの記事。高校時代の読書ノートを見た父(伊集院)がその乱読ぶりを諫めたか、感心したかは定かではないが「何か書こうと思っているのならこの一冊を読めばいい」とアドバイスをくれたのが『ダブリナーズ』(ダブリンの市民)だったらしい。どんな本か読んでみたい誘惑にかられ、図書館で『ダブリナーズ』をリクエストした。ところが遠くの館からの取り寄せになるという。それでもと予約して帰宅したら、時間を置かずに司書さんから連絡が入った。「『ダブリナーズ』ではなく『ダブリンの市民』として同じ方の訳のものが当館にありました」。すぐに借りに行った。
好みの物語ではないなと思いながら短編を読み進むうち、じわじわと引き込まれて行った。知らぬ間にそこに漂う空気感にシンパシーを感じている。ほの暗い風景と、寒さと貧しい暮らし。都会への憧れと劣等感。その懐かしいような心象風景と背景描写は、明治から昭和の初め頃の日本の田舎を彷彿とさせる。貧しさの中で必死に生きる人の、純粋さだったり狡猾さだったり、愚かさだったり。すべてがどこか自分の身のうちから生じる「羞恥」のような感じがして、切なくなってくる。子どもも大人も、他愛のない嘘や言いつくろいを重ねて、自分の人生を肯定しようとしているのに、それがいつ間にか取り返しのつかないことになっていたということはよくある話だ。綱渡りをしているような危うさで、誰もが世間を生き延びていくのではないか。よほどの楽天家でなければ、自分のすぐわきに存在する落とし穴や罠や邪なものたちの姿を感じたことがあるはず。そして、ちいさな罠や落とし穴ならば、抑えきれない好奇心や欲で、そこにはまってしまうこともある。人間というものはどうしようもないものだなとやっぱり切なさを感じてしまう。
「ダブリンの市民」は「どこかの市民」でもある。自分の人生を肯定しようと、心の中で(あるいは実際に)嘘をついたり言いつくろったりしながら生きていく。
人間というものは哀しいな、切ないなと思いながら読み終えた。涙を流すような悲しさではない。じわじわと心をとろかす哀しみと言ったらいいのか。自分自身の記憶のように、懐かしさと温かささえ覚えるような哀しみ。
こんな哀しみは、塩のように人生の味を深くする調味料なのかもしれない。