時に「教える」は罪なこと
以前、業務用エアコン工事の立ち会いをした時のこと
業者の中に若い茶髪のあんちゃんがいました。
脚立に乗って天井の点検口に頭を突っ込んだまま、器用に脚立の跨ぎを変えて行ったり来たり、エアコンの配管、配線を天井裏で小気味良くこなしていました。
若いのに大したものだと思い、業者履歴書をみると21歳、業務歴6年!いっぱしのキャリアじゃないですか!
若いうちに手に職をもったわけで、これから先どんな職人になっていくことか!
日本の未来に頼もしさを感じたのです。
わたしも祖父、父と生まれた時は大工の家でしたから、職人のスタイルは肌で感じていたのでわかります。
昔の職人の世界は、中学出たら働きに出る。
手に職を付けるには早い方が良いのです。
職人は自分の技術を教えない。
どんな偉い職人でも、最初は準備/片付/ゴミ拾いやら工具の手入れやらで、現場で、できる人たちの仕事を観ることから始まる。
給金を上げるには、仕事を覚えるしかない。
腕を上げていくしかない。
でも親方は教えてくれない。
だから、盗む。
そこまで行くと、「教える」なんて甘いチョコレートみたいなものはない。
おすわる側が、次々と技術を盗んでいく。
一人前になるために、給金を上げるために、親孝行するために、恩返しするために、目的はいろいろでしょう。
職人は先輩たちの技術を盗みながら一人前になり、それ以上を目指すのです。
そこから観て学校教育はどうでしょうか。
知識を手に入れたい人は、スポンジのように知識を吸収する。
しかし、そうでない人には馬耳東風、無価値な情報を受けているだけになる。
「教える」ということの弊害は、
・教えて君をつくってしまう
・人によっては答えを見つけるというプロセスを無視しているので、知りたいという価値欲求をつぶしている
時に「教える」は、「知る楽しみ」を奪っているのかもしれません。
目的からくる「知りたい」という欲求、これ本当に大事です。
時に「教える」は罪なことだと理解すべきですね。
ですから、わたしは、教えることが大好きでしたが、それに気づいて以来、教えることをやめました。
子どもの教育期はなかなかきつかったです。教えませんから。
「教える」は、人生で大事な大事な「知る楽しみ」を奪ってしまっていると心底感じたからです。
それから、他人ごとではなく自分も知りたい欲求スピリットを持ち続けていくことも大切ですね。
知る楽しみの先に気づきがあり、そこから行動に違いが出てきますからね。
100Love
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