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ハサミムシの母

 ハサミムシの一生。
 こんないきものが、石の下に隠れて、健気に生きているのだと思った。かなわないと思った。

 黒い肢体で、お尻にハサミのような、「( )」状のものを備えたいきもの。
 よく、「虫でさえこんなに子を愛するのに、人間の母親は…」という比較があるけれど、ぼくは単純に、その本能に感動した。

 きっと、何もハサミムシに限った話でもなかろう。「人間は」とか言ったところで、千差万別だ。
 ただ小ささ・・・、そのけなげさに、やられているだけだと思う。
 このいきものが熊のように大きかったら、そんな感動もしなかったろう。

 書いてしまえば、何ということもない話だ。要するに、ハサミムシは、とことん子を守ろうとすること。
 隠れている石をどかされ、身の危険を感じると、彼女は人間に対しても威嚇をする。
 全く、勝てる相手でない。それでも、彼女は敵を威嚇する。彼女の産んだ、生命を守るために。

 そのハサミは、自分のために使われるのではない。子を守るために使われる。
 子が成長すると、彼女は「私を食べなさい」と、子に、その身を捧げる。子は、むしゃむしゃと母を食べる…

 彼女は、「私は、どうして自分がこうするのか分かりません。ただ、こうするようになっているので、こうしています」と言うだろう。

 ぼくはそれを徳とおもう。かけがえのない、だいじな、だいじな、徳だとおもう。自己に備わったはたらきを、何を憂うでもなく、何を尊ぶわけでもなく、ただそのままにはたらかせていることを。

 一匹の、単体としては、弱い生命かもしれない。しかし、その生命を絶やすことなく、繋げていくことが、まことの生命の、力とおもう。

 人間の場合、単に生命だけを繋ぐだけでは、おさまらない性能をもっている。思想、財産、見栄、優劣、家系… 引く手あまたなほどに、考えることに事欠かない。

 ぼくが、ハサミムシの彼女に感動したのは、ぼくと、全く正反対の生き様のように感じるからだ。ぼくなど、取るに足らぬ存在だと思った。そう、感じ、思うことが、人間であるぼくの、はたらきなんだとも思った。

 そしてこのはたらきを、一体どのように、現実に、人間世界の生命の如きものに、はたらかせることができるのか。その判断がつかないのだった。