
評価について── 「荘子」逍遥遊篇(六)より
「── 彼みずからは、たとえ世をあげて誉めそやそうとも(誉められても)、一向に良い気分にさせられることもなく、反対に世をあげてそしろうとも(罵られても)、一向に気を腐らすこともない。
「というのも、内にある自己と外にある世間の評価とが無関係であることを知り、真の栄誉と真の汚辱とが何であるかの区別を明らかにしているという、この一言によるのである。
「彼は世間の評価に対して、心を煩わされることがないのだ。だが、その宋栄子も、まだ自分の立場を確立しているとは言えないところがある。
「かの列子は、風のまにまに乗り遊び、飄々として、いかにも楽しそうである。さまよい歩いて十五日経つと、再び我が家に帰る。彼は、我が身に幸福をもたらすものについて、何の関心も抱くことがない。
「だが、その列子も、足で歩く煩わしさから解放されているとはいえ、まだ頼みとする他者 ── 風を残しているのである。
「これに比べると、天地の正道に身を乗せ、六気の変化にうちまたがり、無限の世界に遊ぶ者に至っては、もはや何を頼みとすることがあろうか。
「だからこそ、至人には己がなく、神人には功を立てる心がなく、聖人には名を得ようとする心がない、と言われるのである。」
── 「荘子」逍遥遊篇(六)からの抜粋。この(六)はもっと饒舌に語られているが、「これがイイ」「これがワルい」などということは、一言もいっていない。
ただ彼はこうである、彼はこうである、とだけ淡々と書かれている。
「私は」という主語もない。といって、これを書いている誰かはいるのだ。
それにしても、まったく「私」が出てこない。感心する。
宋栄子という人物がかなりの人格者に描かれているが、荘子はさらに上乗せする。
〈 列子はまるで自由そうに、だから自分の足から解放されたようであるが、まだその身を任せる「風」を残している 〉のくだりだ。
まだその身を任せる『風』を残している!
どこかの章にあった、「枯れ木のようになる」「生きているのか死んでいるのか分からない」そのような状態、ひとりでそんな状態にあることが、素晴らしいという…
荘子らしい一篇だ。