死神と呼ばれる医者
死神と呼ばれる医者としてまず思い出すのは、手塚治虫の「ブラック・ジャック」に出てくるドクター・キリコだ不治の病人に大金を払わせ安楽死させる。
しかし、これからのこれからの話は現在の日本の話である。そして、この話をする前に現在の高齢者病棟の現状を話さなければならない。
現在の高齢者病棟では会話が出来る患者はまれである。認知症にかかっている患者も多く、認知症でないとしても点滴や酸素の管のにつながれて天井ばかり見ている。生きていることの定義は何かと考えさせられる状況だ。
この状況は胃ろうの登場でさらに深刻になった。食べることが出来なくなったらそれが寿命だという概念が無くなり、老人病棟はさらに呼吸だけをしている患者が増え続けている。
患者本人もそのような状況で長生きしたいと思う者は多いとは思わないが、そのような状況で延命措置を望むか、望まないかの意思表示がなされているケースは多くはない。
それではそのような場合に延命措置を行うか否かは現場の医師がきめている。医師も好きで決めているわけではない。本人の延命措置に対する意思表明の制度がないので決めざるを得ないのである。 そして「呼吸をしているだけでは生きていることにはならない」との考えをする医者は時として死神と呼ばれることさえある。
現在、スウェーデンでは健康保険財政の点から80歳を超えた老人にはあえて延命措置は行わない。スウェーデンのように健康保険のお金の切れ目が命の切れ目というのもいかがなものかと思うが、少なくとも後期高齢者になった時点で「呼吸するだけになった場合の延命措置」に関しての意思表明を聞く制度が必要ではないか。
勤務医はそれでなくとも過酷な労働条件のもと使命感だけで日々の治療を行っている。それなのに死神と呼ばれるのはあんまりではないだろうか?