記者になりたいのだが、だが、だが
記者になりたい。
でも大きな声では言えない。
自分は自分を世間知らずだと思っているし、学歴もそんなに高くないから。
昔から記者になりたいという想いを持っていた。
きっかけ忘れちゃったんだよね。ESに書くのに大切なんだけど。
中学の時新聞社に職業体験に行った。数ある場所から新聞社を選んだということはその前から興味を持っていたということだ。
将来のことを考えるようになってから既に記者というのが選択肢にあった気がする。
だけど最近はあまりにも他にやりたいことがなさ過ぎて、ただ昔の夢に縋り付いてるだけなのではと思い始めた。
だけど一番自分が働いている様子が想像しやすい、私の大切な選択肢だ。
昔と違って今は誰でも情報発信ができるようになった。
その上で「情報発信」を仕事にするというのはどういうことなんだろか。
記者と名乗り活動するいうことは例外もあるけど大きな組織に属しその組織名義で情報発信をするということだ。
だからこそ個人が発信したものよりも「信頼性」があって頼りにされることが多いはずだ。。。。
最近はどうだろうか。
SNSでの大手メディア批判は止まらない。
特にテレビ局は常に疑いの目で見られていると思う。
本当に正しい情報なんてものはこの世には存在しない。
言葉や媒体を通じてその間にある人の考えや味方が必ずしも反映されるものだ。
だけど組織としてのメディアはできるだけ「形」にのっとり情報伝達を行うことで共通の言語として出来事を伝えられる。
それがいいところかな。
だけど権力などによってウソの情報や忖度した表現が混じっているという事を考えると果たしてわざわざ企業に就職して情報を発信する必要などあるのだろうかと考えてしまう。
私は記者になって何をしたいのだろうか。
私はいろんな美しいものや愛しさを記録したいという想いがある。
奇跡のような、あたたかい、少し寂しい、美しさ。
でもそれは私の目標でしかなくて、組織に所属して働く以上
社会のため、人のためと言い切れるような別の目標はおそらくあったほうがいいのだろう。
大学の講義で渋谷敦志さんという世界各地の紛争や飢餓、災害を取材し写真を収めている方の話を聞いた。
なんか大げさだけど人生が変わったというか、胸をやさしくつかれたような衝撃があった。
紛争や災害が起こっていて自分には想像できないような生活を強いられている人々のことをニュースを通して「わかった気にならずにひたすら考え続けること」が大切であると。そして「分かるということは分けるということ。それで自分事としてとらえられないならわからないままでいい。」とも。
(おっしゃっていた言葉とそれを聞いたときに私がメモッた言葉とがぐっちゃになっていて、本当はどう伝えてくれたかが思い出せないのであまり参考にはしないでほしい。おい、おまえそれで記者になれるんか。。)
記録するだけではなく今生きている人に考え続けてもらうために情報発信をするというのはもちろんベクトルは違くとも私にもできるかもしれない。
記者として働くならテレビ局か新聞社かその他ネットニュースメディアということになるだろう。
私は「報道」がやりたい。
だけどほとんどのテレビ局は(特に地方は)総合職募集で入社してから何をするかわからない。
正直テレビのバラエティは全く見てないし、面白いと思わない。
もし制作に回されたりしたらあまりにも自分の人生との接点がなさ過ぎて
即やめると思う。
ちゃんと報道部として雇ってくれるところとなるとやっぱり限られてくる。
にゃーん。就活きびしー。
でも整理できたね。さっきまで実は心がざわざわしてたけど戻った。
書くことは向いてる。
私にとっての瞑想だ。
少しずつでいいから進めていこう。大丈夫。大丈夫。
(もし記者の方、報道関係の方がこれを読まれていましたら、アドバイスお願いしたいです。。。)