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生かされている感謝(涙)とはならないのよね| スピ的タブーに切り込む
子供のころから、魂の成長を目的として輪廻の中で生きていることを理解していました。だけど、「生かされている」とか「生まれてきた感謝」とか、大袈裟な表現にはピンときていませんでした。
なので、親に感謝感謝というのも、それはそうなんだけどちょっと違うと思ったり、生かされていると知って涙が止まらないという感情にも理解し兼ねるところがありました。
私がおかしいのではないかとも思いつつ、なぜ違和感を感じるのかをずっと考えていたのですが、最近40歳を過ぎてから何となくわかってきたので書きます。
親に感謝すること
まず、産み育ててくれた親に感謝というのは、理屈ではわかります。私も親ですから、時間と労力と愛情をかけなければ成り立たないことは理解できます。
でも、自分は子供に感謝しろとは思わないんですよね。自分は、産みたくて産んで、育てたくて育てているからです。
「産み育ててもらったことは、感謝に値することですよ」という理屈はわかるけど、強要するものでも期待するものでもないと考えます。
もちろん毒親さんを持つ方もいるので、一般論の話として筆を進めますね。
ご先祖さまのこと
あとは、ご先祖さまのこともありますよね。確かに、自分に繋がるご先祖さまがひとり欠けても自分はいないことを思うと、壮大なスケールの話になって感慨深いです。凄いなぁと思います。
でも、魂は魂としてあることを思うと、生まれる必要があるなら、別の家系にちゃんと生まれて地球を体験するだろうし、今の血筋にこだわる必要もありません。
めちゃクールですみません。
生かされているということ
私たちは大いなる源から光を分かれた存在。だから、誰ひとり不要な人はいないというのは理解しています。必然があって地球を体験している。だから、生かされているのだと。それはわかるんです。
でも、それに感動するわけではありません。もっとニュートラルなものではないかと思っているからです。そうだから、そうである、というだけ。
「生かされている」と涙する人は、無価値感が強いのかもしれません。何か、そうさせるバックボーンがあったのでしょうね。でもニュートラルでいる場合は、生かされていると言われても、涙は流しません。「生かされているよね、そうだね」ってなっちゃいます。
まとめ
私が非情なのか、感情がバグっているのか、見る人によってはヤヴァイ奴かもしれませんね。
スピリチュアル関係の人は、「生かされている…」とか「感謝…」と、涙するのが暗黙の了解で「正しい」という思いが強い気がしていました。
それに対する違和感を持っても、切り込んでいくのはタブーみたいな。でも、どんなことにでも違和感を持ったり考えたりするのは構いませんよね。それで今回、分析してみました。
皆さんは、どう感じましたか?