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関ケ原(上)

司馬遼太郎の関ケ原(上)を読みました。

上・中・下と3巻ある中の一冊目で、上巻だけで500ページ超えの長作です。

関ケ原(上)500ページ超え

この本をなぜ読んだかというと、

ディズニー+「SHOGUN」と同じ時代をより詳しく理解したいと思ったからです。

具体的には、豊臣秀吉が亡くなった後から関ケ原の戦いまでの流れです。

私の高校までの日本史の知識だと、下記のような理解でした。

関ケ原の戦いとは、
豊臣秀吉没後、石田三成と徳川家康がその後継を争った戦いであり、石田三成の部下が早々に裏切ったため徳川家康の勝利で決着がついた。

年表で表すと、

1598年9月18日:豊臣秀吉の死

1600年10月21日:関ケ原の戦い

これだけシンプルになります。
(学校の勉強は他にも覚えることがいっぱいありますので、これだけシンプルでしょうがないかとも思います。)

これがどうも色々と複雑なことがあったのだと、上巻を読んだだけでも分かります。 

詳細の年表ver

より細かい年表に直すと、

1592年:文禄・慶長の役(朝鮮出兵) 
1598年
1598年7月:五大老・五奉行の制度を定める
同年8月:豊臣秀吉が死去@伏見城
1599年
1599年3月3日:大老の前田利家が死去@大阪城
同年3月4日:石田三成屋敷襲撃事件@大阪城
同年3月10日:石田三成が佐和山城@滋賀県へ帰る=奉行職を辞す
同年9月:徳川家康が伏見城から大阪城へ移る
同年9月:前田利家の妻である芳春院が江戸へ人質へ

ここまでが上巻の流れです。
まだ、関ケ原の戦いまでは到達していません。

1600年10月の関ケ原の戦いまで、約2年ですがものすごく色々なことがあります。

噛み砕いた説明ver

先程の年表だけでは分かりにくいと思うので、登場人物の気持ちに沿って、もう少し噛み砕いて説明します。

豊臣秀吉「私が死んだら息子の秀頼は大阪城で成人するまで大切に育ててほしい。大老の前田利家は大阪城に住んで、徳川家康は伏見城に住んでね」

徳川家康「了解しました。仰せの通り伏見に住みます。」

前田利家「もう死期が近いようじゃ。息子の利長は、豊臣家を何があってもお守りするように」

前田利家が死去

石田三成「朝鮮出兵の恩賞問題に始まり、豊臣方の武将とめちゃくちゃ仲悪いんだよな」

七将「大老の前田利家が亡くなったので、気に食わない石田三成を襲撃しよう」

七将(しちしょう)は、豊臣秀吉子飼いの7人を指す。一般的には、福島正則(尾張清洲城主)、加藤清正(肥後熊本城主)、池田輝政(三河吉田城主)、細川忠興(丹後宮津城主)、浅野幸長(甲斐甲府城主)、加藤嘉明(伊予松山城主)黒田長政(豊前中津城主)

wikipediaより

石田三成「襲撃されるって噂もあるし、大阪城に住んでると危ないなぁ。熟考した結果、本拠地の佐和山城@滋賀県に帰ろう」

徳川家康「よっし、大老の前田利家が亡くなって、口うるさい石田三成も大阪城から追い出すことができたぞ!何か名目をつけて大阪城に私が住もう!さすれば天下は我が物よな!」

とまあ、こんな具合です。

どんどん家康が謀略を駆使しながら、天下取りに進んでいく様子がよく分かります。

最後に関ケ原(上)のあらすじを紹介します。

東西両軍の兵力じつに十数万、日本国内における古今最大の戦闘となったこの天下分け目の決戦の起因から終結までを克明に描きながら、己れとその一族の生き方を求めて苦闘した著名な戦国諸雄の人間像を浮彫にする壮大な歴史絵巻。秀吉の死によって傾きはじめた豊臣政権を簒奪するために家康はいかなる謀略をめぐらし、豊家安泰を守ろうとする石田三成はいかに戦ったのか?

関ケ原(上)より


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