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(連載小説:第12話)小さな世界の片隅で。

前回巻末:歩が帰宅し、眠りにつく所から

その日、歩は、祖母の夢を見た。
それは、遠い遠い、昔の記憶と、亡くなる数日前、ばあちゃんに会った時の記憶。

夢の中でも、ばあちゃんは微笑んでいた。
歩に心配をかけない様にクシャっと微笑むその顔は、今でも、決して色あせ
ることはなく、その笑顔と一緒に、皺の刻み込まれた手の暖かさや、ばあちゃん家の匂いが、歩の傍で、ふっとしたような気がした。

第12話

(Xー6日)
歩は、薄明かりの中、浅い眠りから眼を覚ました。眼を覚ました後で、携帯のアラーム音が鳴った。日を間違わなければ、今日が、1週間後の事故を防ぐ事ができるターニングポイントになる日だ…。

少し肌寒い薄手の掛け布団を、何かから踏ん切りをつける様に体の上からゆっくりどける。
自室から1階のダイニングへ向かう為、歩は、階段を降りる。
浅眠のせいか、身体がだるく、少し頭がツーンと痛い。

“おはよう。”

リビングにいる父が声をかける。

“おはぅ…う。”

力なさげに歩は返事を返す。

テーブルに置いてある残りのおかずと、ご飯をよそい、1人用のマグカップ用の茶入れに湯を注ぎ、お茶を用意する。

朝のワイドショーを見ながら、手早く朝食をとる。ワイドショーでは、2022年10月、現在の新型コロナウイルスの感染情報は、夏に一度落ち着きかけたものの、10月からオミクロン株の流行の再拡大が始まってきていると伝えていた。

“いつまで、続くのかな…。”

歩は、心の中でひとりごちた。

玄関を開ける音がする。妹の千恵が仕事に出かけていった様だ。

歩も程なくして、通勤用の服に着替え、家を出る。通勤用の自転車に跨り、勤務先の病院へ向かった。
風がひんやりとした、秋晴れの良い日だった。

程なく、病院の駐輪場に着き、自転車の鍵をかける。

一度目の鍵を抜く所で引っ掛かり、もう一度鍵を回す。鍵は今日も二度目で抜けた。

“自転車、もう変えなきゃダメかな…。”

返答するはずのない、10年の月日を重ね、色褪せ、古びた自転車に向かって歩はつぶやいた。

玄関のICカードにタッチし、ロッカールームで着替えを済まし、やや早足でリハビリルームへ向かう。

入り口の自動ドアを抜け、スタッフが集まっているプラットホームに着いた。

“おはようございます…。”

歩は、誰にともなく声をかけ、プラットホームの片隅にしゃがみ込んだ。

”おはよう。“

”ざぁす…。“

”おはようございます。“

”…ざいます。“

何となく声が返ってきた。

上司の原田さんが、今日出勤のスタッフに声をかけてる。

“今日は、鈴川君が休みだね。”

”今日は、新患さん出てないみたいだから、鈴川君の持ち患さん、6人。1人7人頭位で、とりあえず振り分けようか。“

“はい”、“ざぁす”、“はい”、“は…い”

原田さん、歩、山野、守田、川本さんが、鈴川のフォロー票に丸をつけていく。

“どう?足りない人いない?”

原田さんが全員に声をかける。

“多分、良いと思います。”
全員の様子を確認して、歩がそっと返した。

“そう。”

“そしたら、今日の連絡事項は、特になし。感染対策は、引き続きお願いします。”

“はい”、“ざぁす”、“はい”、“は…い”

“あ、あと、配布した個人用の手指消毒、手に染みて痛いのは分かるけど、分けた分は、決まった日数できっちり使い終わってね。”

“リハビリに入る前と後。それから、何か触った時は、4プッシュずつ。必ず守る様に。大体3日で使い終わるはずだから。”

“ちゃんと、記録とってるからね。お願いしますよ。”

“はい”、“ざぁす”、“はい”、“は…い”

“その他、連絡事項ある方いますか?”

“…。”

“それじゃあ、これで解散。”

“はい”、“ざぁす”、“はい”、“は…い”

原田さん、山野、守田、川本さんは、それぞれ持ち場へ散っていった。

歩も、軽くため息をつきながら、院内のデイサービスセンターへ向かう。

いつもの様に、院内を歩く歩の足元には、少し肩を落とした、情けない歩の影がピッタリと寄り添っていた。

デイサービスセンターに着き、自動ドアが開くと、いつものテーブルで、上司の杉山さんが座って待っていた。

“おはようございます。”

歩は杉山さんに声をかける。

“おはよう。”
杉山さんの声は、いつもの様に冷たかった。

歩は、いつもの様に、フロアを準備しているスタッフに混じる。

スタッフの海野さんが、歩に近づき、声をかけた。

“歩君、おはよう。”

“おはようございます。”

“歩君、何か最近元気なさそうだけど、大丈夫?”

“元気なさそうに見えます?大丈夫ですよ。”

“そう?なら良いんだけどね。”

“海野さんの方こそ、お身体大丈夫ですか?”

“あたしは、大丈夫だよ。ばあちゃん(お母さん)の面倒も見なきゃいけないんだから。倒れてなんていられないよ。”

”たくましいですね…。海野さんは。“

”そんな事ないよ。“

”歩君も、何か悩んでる事があったらさ。何でも言いな。何も出来ないかもしれないけど、話を聞く位なら、あたしでも出来るからさ。“

”はい…。いや、大丈夫です…。本当に大丈夫なんで…。”
”声かけてくれて、本当にありがとうございます…。“

海野さんは、ふいに杉山さんの方に目をやり、少し声を小さくして言った。

”あの子も、そんなに悪い子じゃないんだけどねぇ…。たまに、歩君に対してだけ、すごくきつく当たる時があるからさ。“

”いえ…。“

”まぁ、気楽にやるだよ。気楽に。ね?“
”適当に受け流すって事も時には、必要だよ。”
”ここ(職場)が、全てじゃないんだから。ね?”

”はい。ありがとうございます…。“

歩には、海野さんの言葉が、優しく染みた。

海野さんたちスタッフと支度をしていると、いつもの様に向こうのテーブルから、杉山さんが歩に声をかけた。

”歩君、ちょっといい?“

”はい…。“

”朝の送迎なんだけどさ、またルート変わったから、確認してもらっていい?“

”はい、分かりました…。“

何となく想像がつく光景を確認しに、送迎表の元へ向かった。

送迎表を確認すると、また、到着時間に、到底間に合わない様な、スケジュールが送迎表に書き換えられていた。

歩は、もう、ぐったりとした。
これはもう、嫌がらせとしか思えなかった。

これが、この先もずっと続くのかと思った。

協力も、もう仰がない事にした。ほかの人にまで、迷惑をかけたくない。
もう、何も言わずに、送迎へ出る。

さっきの海野さんの暖かい言葉が、歩の中で、消えかけていた。

玄関の自動ドアが開くと
10月の外の風は少し涼しく、日差しは妙にじんわりと暖かかった。
複雑な外の気温が歩の心の内を表している様であった。

歩は、送迎車のエンジンをかけ、利用者さんのお宅へ到着時間の電話をかけ終えた。カーステレオのボリュームを戻すと、車内のスピーカーから、いつものローカルFMのBGMと、メインDJの元気な声が立ち上がってきた。そのいつもの声で少し心を落ち着けた後、ゆっくり車を走らせていった。

”はい…、申し訳ありません。すぐ着きますので。”

”気を付けて、ゆっくり歩いてくださいね。”

”じゃ、いってきますね。また戻ってきますんでね。”

”トイレは、もう大丈夫ですか?”

”忘れものありませんか?”

利用者さんのお宅で、適宜声かけをする。

前日の様に、時間を何とかやりくりし、それでも、10分遅れで、センターに無事到着した。

洗面台で手を洗っていると、奥のリハビリスペースから、杉山さんが歩がいる空間に向かって声をかけた。

”歩君、ねぇ。今、何時?”
”また?ねぇ、歩君?”

”責任感、何にもないんじゃないの?”
”午前中のリハビリどうするの?間に合うの?”
”何にも考えてないんでしょ?っていうか、何にも出来ないんでしょ?”

その場のフロアにいる、出来るだけ大勢に聞こえるように、杉山さんは、大きな声で捲し立てた。

利用者さんの他、何名かのスタッフがギョッとした顔で杉山さんの方を見ていた。

”フフフ…”
杉山さんの近くにいる、介護スタッフが何名か、笑っているのが分かった。

歩は、杉山さんの元へ行く。
”すみません。今日も遅れてしまいました…。”
”午前中は、何とか自分で回します。”

歩は、杉山さんの顔を見て、そう伝えた。

”何で?”

”はい?”

”はい?じゃなくて、何で?”
”遅れた理由。”

”(あなたが毎回送迎表をいじるからでしょう)”

とは、言えず…。

”送迎表の急な変更があったものですから、対応できなくて…。すみません。”

”だから、何で?”

”はい?”

”対応できなかったのは何で?”

”(そもそも、いじる必要のないスケジュールですし、対応できるようないじり方じゃないでしょう。何故、対応できない様にいじるんですか?)”

とは、言えず…。

”自分のできる範囲内で、回る順番、時間調整等、対応しましたが、間に合いませんでした。すみません。”

”答えになってないよ。じゃあ、回る順番、時間調整をどう工夫したの?”
”なんでその順番にしたの?”
”何で?だから、それは何で?”

杉山さんは、大きな声で捲し立て続けた。

”えぇと…、ですから…。”

歩は、答えの無い質問に対して、自分でも無意味だと分かりながら、言葉を絞り出し、並べていく。

傍目からみれば、使えない部下を叱責している上司が、部下のいい訳を延々聞いているという風に見えるだろう。

”もういいや。とりあえず、業務に入って。”
杉山さんが、吐き捨てるように言った。

もやもやした気持ちのまま、歩は業務に入った。

何とか業務を終え、記録を書くため、スタッフルームへ入る。
先に杉山さんが記録を書いていた。

”お疲れ様です…。失礼します…。”

”うん。”

歩は、空いている、杉山さんの隣のデスクに座り、記録を書き始めた。

隣から漂う空気がピンと張りつめ、ほんの少し熱い気がした。

”歩君さぁ…。”

杉山さんが話しかけた。
言葉の発し方や、仕草から、杉山さんが、まだ、少し苛ついている感じがした。

”はい…。”

”本当に反省してんの?”

”はい…。すみませんでした…。”

”あのさぁ、思ってもない事言わないでもらってもいい?”

”いいえ、そういう訳じゃあ…。”

”じゃあ、何か不満があるんだったら、言ってみてよ。”

歩は、少し考えた後、杉山さんに尋ねた。

”あの…、その送迎表の件なんですけど…、朝いつも杉山さんが、直前で訂正されるじゃないですか?あれは…、どういったいきさつで…変更されるんですか?”

”必要があって、変更してるんだよ。”

”…はい。”

”何?もしかして、疑ってるの?”

”…。”

”ちょっと、何言うかと思ったら、何?僕のせいって言いたい訳?”
”もう、だめだ、こりゃ。”

杉山さんが、ヒートアップしていくのが分かる。
2度目でもきつい…。

”おーい、運転手さん!”

杉山さんは、部屋の外にいる、運転手さん達に向かって声をかけた。
運転手さん達の周囲の人にも、聞こえるように、大きな声を出す。

運転手さん達が振り向く。

”明日から、送迎、一人抜けるんで、配車もそれで組み直して下さい。”
”歩君の分マイナスで。”

”変わりに歩君を助手につけるんで、手伝ってもらって下さい。”

”え?”

”歩君、明日から、送迎やんなくていいから。”

”運転手さん達の助手で一緒に乗ってって。運転手さん達も忙しいみたいだからさ。”

”頼れる助手が増えましたから。ねぇ!運転手さん!”

運転手さん達が、何とも言えない顔でこちらを見つめ返している。

”フフフ…。”
近くで、朝笑っていた介護スタッフがまた笑っている声がした。

歩は、居たたまれなかった。分からない道を教えて貰ったり、フォローでルートを変更してもらったり、声をかけて貰ったり、いつも助けてくれた運転手さん達だ。

迷惑だけは、絶対にかけたくなかった。

”杉山さん…、あの…”

歩は、杉山さんの言葉を遮ろうとしたが、
その行為と、介護士の笑い声がさらに杉山さんをヒートアップさせた。

”あとさぁ、この間言ってた、資料の件は、どうなってるの?”

”月末を目途に作るとかっていってたよね?”

”あれは、どうなってるの?”

杉山さんが、歩に詰め寄る。

”あれは…、昨日してた話ですよね…?”

”月末に期限を設けさせていただいたので、その予定で進めようと思っています。さすがに昨日の今日で、形にできる内容のものでは…”

”じゃあ何?まだ、何も出来てないってこと?”

”はい…。月末に提出というお話でしたので…。”

”月末までには、あと、3週間位あるよね。”

”って事は、今の時点で、少なくとも1/4位は、出来ているべきじゃないの?”

”その1/4を、今出して貰いたいんだけど。”

”あの…、杉山さん…?”

歩は、もう何を言われているのか分からなかった。
どうしたら、こんな話になるのか。

でも、まだだ。変えるポイントは、ここじゃない。
心の中で歩は、呟く。

”出せないなら、もうこれは、問題だよ。”

”毎回、送迎に遅れる、提出物の期限を守れない等、勤務態度に問題がある事。上司の僕と上手く関係性を作れない等、コミュニケーションに問題がある事等を、僕から科長に報告して、午後、僕と科長と一緒に面談をしてもらう。いいね。”

”時間は、また伝えるから、午後の時間対応できるよう、少し開けといて。”

”分かりました…。”
もう何を言ったらいいのか、分からなかった。

歩は、記録を書き終え、デスクから立ち上がった。

”お疲れさまです。お先失礼します…。”

”…。”

歩は、杉山さんに声をかけ、軽く会釈をし、スタッフルームを後にした。

デイサービスから病院へ戻る院内の通路で、他部署のリハビリスタッフとすれ違った。

すれ違いざま、今回の人事考課で、鈴川が出世する事が決まったと話をしていた。

後輩が、上司になった瞬間であった。そして、先輩が部下になった瞬間でもあった。

歩は、食堂まで続く長い廊下を、俯き歩きながら、廊下がもっと長く続いてくれと、願っていた。

(次号へ続く)

※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から。徒歩より。

第11話。

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