(連載小説:第5話)小さな世界の片隅で。
時計を見ると、もう8:00になっていた。
そろそろ歩が、家を出る時間である。
歩は、一旦考えるのをやめた。
軽く身支度をし、重い足、疲れた体を引きずりながら、家を出て、
通勤に使ういつもの自転車に、情けない自分を乗せた。
”会社、行きたくねぇなぁ…。”
ふと、一週間前と同じセリフを言ってみた。
雰囲気を出そうと思って、ちょっと言ってみたかったのである。
悪くはなかった。
歩は、自転車をこぎ出した。
10月の朝は、空気が澄み、風も静かで、空が高かった。
”おじいさん、いや、神様か?それじゃ、いってくるよ。”
歩は、空に向かって呟いた。
すこし早い秋風が、歩の背後で吹いた気がした。
歩は、自転車をこぎ出した。
空気が澄んでいるのが分かる。乾いた秋の風が歩のほほを撫でていった。
歩の勤める職場までは、自転車で、15分程度の距離だ。
朝の出来事、考えていた事を思い出しながら、自転車をこぎ続けた。
当然の事だったが、
”皆あの時の同じように生きていた。”
”同じ時間を生きていた。”
一度失った、
歩のかけがえのない、そして、うんざりする日常が返ってきたのだ。
1回死んでみて、同じ人生を振り返ると、歩を苦しめていたものの正体が、ぼんやりと浮かんでくるような気がした。
その時、視野が極端に狭くなっていて、見えなかったものが見えてきたような気がする。
それは、事故に至った原因が1つというよりは、歩の人生の周りに幾つかの要素があって、その悪いところが重なった(もしくは、何かのきっかけで、自分で悪い面しか見えなくなり、それが重なった)時に、選択肢がそれ(事故)しかない、そうせざるを得ないと歩が勝手に思い込んで、実行せざるを得ない環境を自分が作りだしていたような気がした。
これまでの人生で、長い時間をかけて、摩耗しながら、自分の事を、いい面も、良くない面も、含めそれはそれとして、ようやく受け入れる事が出来た。ようやくわかり始めたと思っていた。
自分を自分として、扱えると思っていた。
でも、その中で、あんな事を…。
何が…。そこまでは掴みきれなかった。
掴みきれないが、当時は、大事なものを見失い、本当はどうでも良い事に縛り付けられていた様な気がした。
そこの整理がぐちゃぐちゃになっていた気がした。
ただ今は、本当は、もっと色んな生き方があっただろうに。
そう、当時の自分に言ってやりたかった。
不思議な感じがした。
二度と歩けない時間を、こうして、もう一度歩んでいる。
これから職場で起こる事も、今日のお昼は、何を食べるかも、1日の間で起こる事、この1週間で起こる事も大体予測出来ている。
そして、1週間後に起こる事も…。
今は、いい意味でも、悪い意味でも、俯瞰してこの人生を見る余裕がある。
2度目の人生の中で、変えるべき(自分がこうしたいという)ポイントは分かっている。でも同時に、
”変えるのは、そこだけでいいのか?”
”そんな安易な事で、問題(事故)は防げるのか?”
”そもそも防ぐことが出来るものなのか?”
少し、疑問にも思った。
答えのない自問自答しながら、自転車をこぎ続けた。
家を出てから10分程経った。歩はふと思い出した。
そういえば…、先週の今日(X-7日)、同時刻に、この先の角を右へ曲がり、大きな通りへ出る所で、同じく通勤中と思われる、自転車に乗ったサラリーマン風の男と、ぶつかりそうになった事を思い出した。その時のやり取りも、うっすら覚えている。
もし、これが、本当に2回目の人生なら、同じ事がそこで起こるはずだ…。
歩は試してみたくなった。
出来るだけ、普段と変わらない様に、その角を曲がった。
その瞬間、右側からサラリーマン風の男の自転車が突っ込んできた。
歩は、自転車のブレーキを思い切り握り、ハンドルを少しだけ左へ切った。
サラリーマン風の男は、ぶつかる寸前で自転車のハンドルを右に切り、
衝突は避けられた。
サラリマン風の男が、自転車上から、歩に声をかけた。
”すみません。大丈夫ですか?”
歩は答える。
”だ、大丈夫ですよ。”
歩は、顔を上げながら、男の方をゆっくり見た。
”急いでて、ちょっと見てなかったもんですから。ごめなさいね。”
”いえ、こちらこそ(急に飛び出して)、すみません…。”
”じゃあ、ごめんね、すみません。”
お互いに軽く、会釈をして、その場を後にした。
歩は再び自転車をこぎだした。
驚いた。
全く同じだった。寸分違わずといってもいい。
アクシデントの始まり~終わりまで、一週間前(X-7日)と。
もっと驚いた事は、意識せずとも、その時の、歩の心の動き方、動作、言葉も、一週間前(X-7日)と、全く変わらない事だった。
アクシデントそのものは、事前に予測できていたが、その時の、
心の動きや、咄嗟にでる反応、動作や、言葉は、ほとんどコントロールできなかったのである。
正確には、コントロールできたのかもしれないが、歩の人生の積み重ねの中で培われた”何か”が、行動が抗えない形で、まるで脊髄反射のように表に出てきて、それが、心の動きを変え、行動、言葉を通して発信されている感覚がした。意思や、行動を制限している感じがあった。
そして、それは、当時の、歩そのものを表しているように思えたのである。
その時、ふと思った。
この2回目の人生で起こる出来事の中で、この反射の様な”何か”に、身をまかせておけば、そのまま、同じ未来を描く事ができる。
その延長は、1週間後の事故につながるのだけれど…。
反対に、変えたいポイントがあれば、そこで、”何か”の意思を抑えて、現在(2回目)の自分の意思で決断すればいい。
同時に、こうも思った。
そのポイントを崩したら…。
そのポイントを崩した時点から、予測可能な1日は終わる。過去の時間ではあっても、そこから先は、出来事すら予測できない、予測不能な未来へと変わる事を悟った。
そして、その結果がどうあれ、1週間後の事故後の時間が生まれた時点、そこから先の未来には、2巡目の人生(この1週間)を送る、歩が持っている意識、考え、感情は完全に失われて(上書き)しまう事の本当の怖さを知った。
今の歩には、
変えたい未来と、変わりたくないもの、
失う事が怖くて、しがみついてしまうもの。
思い込み、とらわれ。
どうしようもない事。
これらが、序序に整理されてきてはいるが、まだごっちゃになり、歩の人生に大きく横たわっている。
残された時間の中で、今の生活、日々の出来事に対して、どうしてそう思うのか、感じるのか、理解して、納得していくのと同時に、自分にとって、何が一番大事か、どうありたいかを考え、記憶がなくなる未来へ向けて、生き直す必要がある。
とても難しい事の様に思えた。
でも、やるしかない。せっかく、チャンスをもらったんだから。
会社の駐輪場に着いた。
駐輪場の空いたスペースの輪留めに、自転車の前輪をかけ、右手で後輪を持ち上げ、右の足先で、スタンディングをかける。
乗り続けて10年程度経つ、歩の自転車の、少し赤茶けた自転車の鍵を下す。
”ガチャリ”と音がなり、鍵が下がったが、その錆のせいか、鍵が抜けなかった。
”何だよ。”
歩は、呟いた。
鍵を戻し、同じ動作を繰り返す。
2回目で、ようやく、”ズッ”と。ぎこちなく鍵が抜けた。
自転車のかごから、バッグを手に取る。
ポケットからスマホを取り出し、表示を見ると、就業時刻の10分前だった。
軽い駆け足で、会社の入り口に向かう。
いつもの警備員のおじさんと目があった。軽く会釈する。
入口のICカードに、自分のカードをタッチする。
モニター検温で体温測定、隣のスタンド式の手指消毒用の機械に手をかざし、アルコール消毒をする。
階段を上がり、ロッカールームへ。
手早く、制服へ着替え、階段を下り、職場の入り口から中へ入る。
”ブーン”と入り口の自動ドアが開いた。
管理された空調の柔らかい暖かさが歩を包んだ。
ドアの先に、いつもの職場の仲間が、待っていた。
眼があい、軽く会釈する。
”おはようございます。”
”おはようございます。歩君、さっそくなんだけど…”
業務が始まった。
歩は、小さく、情けない意思を静かに固めた。
制服の右ポケットには、軽く赤茶けた自転車の鍵が頼りなさげに入っていた。
(次号へ続く)
※新年あけましておめでとうございます。今年も良い年でありますよう。社会の片隅から願っております。
今年は、これを中心に頑張っていきます。
社会の片隅から、徒歩より。
第4話。
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