(連載小説:第6話)小さな世界の片隅で。
ドアの先に、いつもの職場の仲間が、待っていた。
眼があい、軽く会釈する。
”おはようございます。”
”おはようございます。歩君、さっそくなんだけど…”
業務が始まった。
歩は、小さく、情けない意思を静かに固めた。
制服の右ポケットには、軽く赤茶けた自転車の鍵が頼りなさげに入っていた。
(X-7日:月曜日)
”・・・ 何でしょう?”
歩は、院内用のマスクに付け替えながら、声をかけた上司の原田さんの所へ、背を屈めて近づいた。
そこは、病院内のリハビリルームのプラットホーム(大きな治療台)の一角だ。
プラットホームの上には、スタッフの体温測定表や、本日休みのスタッフのフォロー表(休みのスタッフの受け持ち患者さんを、本日出勤のスタッフに代理で入って貰う為に、患者さんの診断名や注意事項等の患者情報が書かれた申し送りの書面)、新規入棟患者の情報が書かれた書面、その他、申し送り次項等が書かれた書類が雑然と並んでいる。
その書類が並んだプラットホームを中心に囲むような形で、歩の職場仲間が肩を並べてしゃがんでいる。
駆け寄ってきた歩に、しゃがんだ状態で、上司の原田さんが続ける。
”歩君、今日、2名新規入棟の患者さんが出ててね。”
”1人は、82歳の男性。うっ血性心不全の増悪による呼吸苦で、自宅から搬送された人。外来でうちにかかってたみたいだね。奥さんと2人で暮らしてて、入院前のADL(日常生活動作)は自立レベルの人と、”
”もう1人は、92歳の女性。誤嚥性肺炎の疑いで精査中の人。市内の老健で食事介助中、ムセがあって、その後、熱発して、呼吸状態悪化~意識混濁で、搬送されたみたい。要介護4で、ADLは、食事以外は、ほぼ全介助みたいだね。2人とも、入院時の(コロナの)抗原検査は陰性だったみたい。”
”…はい。”
”現状は、落ち着いてて、今日からリハビリ処方が出てるんだけど、”
”歩君、どう?今日、2人とも、入れそう?”
歩は、少し考え、ゆっくり答えた。
”大丈夫です。僕、今受け持ちの人少ないので。
今日入って、良ければ、そのまま受け持ちます。”
”ありがとう。じゃあ、お願いね。”
原田さんは、2枚の新規患者の情報が書かれている紙に〇印を書き、端によけた。
そのまま続ける。
”あと、今日休みの山野君の患者さんが、5名いるから、振り分けようか…。”
”今日は、大体、(スタッフ)1人、(患者さん)6人づつ位で揃えようか…。”
”…はい。” ”うい。” ”っす。” ”はい。”
全員が答え、各々、山野のフォロー患者さん達をとり、フォロー表の空欄に自分の名前を書いていく。
”全員とり終わった?”
”そしたら、他の連絡事項は、今日は無いみたいだから。”
”その他、誰か、連絡事項ある人いますか?”
”…。”
”ないなら、申し送りはこれで終わり。最近落ち着いてきてたけど、コロナがまた流行ってきてるみたいだから、各々、手指消毒、マスク、アイガード等、感染対策には、十分気を付けてね。”
”それと、調子が悪かったら、絶対出社しない様にね。”
”何か体調に異変があったら、院内の連絡窓口があるから、そこへ連絡して、対応を仰いでください。”
”その時のリハビリ科への連絡も忘れないように。”
”…はい。” ”うい。” ”っす。” ”はい。”
”じゃあ、以上。解散。”
朝の、ミーティング(申し送り)が終了した。
歩は、病院を出て、ゆっくり、併設のデイサービスセンターへ向かう。
歩は、例の反射的な”何か”に身を任せていた。
原田さんの言う言葉も予測できたし、歩の返答も自然に出てきていた。
それは、まるで、自分が出演するテレビを遠くから見ている様な感覚であった。改めて、不思議な感覚だ。
”ひとまず、今日は、様子見だな。”
歩は、歩きながら、自分にそう呟いた。
歩は、地方の中規模の民間の病院に勤めている。
この病院で、リハビリの仕事をする、理学療法士という職業についている。
ここに勤めて、12年程経つ。
病院は4階建てで、1階に受付と、外来診療室、検査室、薬剤室があり、2階から上が(手術室を含む)入院病棟になっている。
入院病棟は、a,b,cの3病棟に分かれており、それぞれ、a棟:急性期病棟、b棟:回復期病棟、c棟:療養型病棟という役割別に分かれている。
病院の敷地内には、デイサービスも併設されており、通所でのサービス(食事、入浴、レクリエーション、リハビリ等)も行っている。
今の歩の業務は、午前中は、デイサービスでの仕事(送迎~リハビリ)を、午後からは、所属病棟に入院されている患者さんのリハビリを行ってる。
歩の所属は、c棟:療養型の病棟だ。
c棟のスタッフは、年齢だけはベテランの歩と、上司の原田さん、中堅の山野、鈴川、今年入社の新人の守田、ベテランパート社員の川本さんの6名の療法士が配属されている。
上司の原田さん、パート社員の川本さんは、歩と同世代。山野と鈴川は30代前半、守田は、20代前半。川本さんは、男性の中の紅一点。鈴川と歩以外は全員既婚者だ。
a棟:急性期、b棟:回復期病棟にも、それぞれ6名の療法士が配属されており、合わせて、18名の療法士と、科長で同じく療法士の大石さんの1名を加え、19名が勤務している。
リハビリは、急性期や回復期が花形といわれる。患者さんの状態の変化が大きく、リハビリの介入による効果が最も現れやすい時期だからだ。
これに対し、療養型の病棟は、どちらかというと、地味な印象で目立たない。リハビリ介入による効果が(評価結果の数値等の目に見える形で)図れない事が多いからだ。
慢性的な経過、所謂、入退院を繰り返す様な状態(疾患)の方。具体的には、重度の既往、合併症を含む、慢性的な肺炎や心不全、脳卒中、末期がん等の方、またはその結果、寝たきりの状態となっている方等が、多く入院されており、この病棟で、最後を迎える方も多い。ターミナルケアの意味も含んでいる。
入院の安静加療に伴う、体力低下や、それに伴う、合併症(認知機能、呼吸~循環機能機能の低下、長期臥床に伴う関節拘縮等)の予防、治療に伴う疼痛緩和等を目的として、(医療保険下での)リハビリが提供されている。
デイサービスは、主に、来所中のリハビリ希望がある利用者さんに対し、加齢に伴って、体力が落ちない様、来所中に運動の期会の提供することや、自主トレーニング(または、個別のプログラムの作成)の実施、促し。慢性的な疼痛への介入等を目的に(介護保険下での)リハビリが提供される。
病院勤務というと、聞こえはいいかもしれないが、リハビリ職は特に待遇が良いという訳ではない。
勤務形態は、病院という会社に勤務して、給料(月給)をもらう典型的なサラリーマンだ。給料も一般職のサラリーマンとほぼ変わらないだろう。
といえるのも、歩はいわゆる転職組だからだ。
歩には、一般企業に勤めていた過去がある。
過去の事を振り返りながら、歩は、歩き続けた。
デイサービスへ向かう、歩の足取りが少し重くなるのが、自分でも分かった。そして、それが何なのかも。
向かう先の、デイサービスの玄関前には、出発前の白いハイエースや軽自動車(送迎車)が、数台、頭をこちら側に向けて止まってのが見えた。
朝の陽の光に照らされ、眩しく反射する、その姿は、臆病で、ほの暗さを秘めた歩の心に、今にも襲いかかろうとする猛獣の群れの様に見えるのだった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れさまでした。
社会の片隅から、徒歩より。
第5話。
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