プリンスメロン
店の入口には金属製の看板がぶら下がっていた。
銅レリーフの様でもあり、鍋底を叩いて作った子供の工作の様でもあった。
プリンスメロン 懐かし屋
一つの名前なのか、分離しているのか、後方が説明なのかはわからなかった。
店の中は山小屋の様で薄暗かった。カフェメニューは飲み物しかなく、日替わりでクッキーやマフィン、パウンドケーキのスライスしたもの等が添えられた。
入った左手には二階に続く階段があり、運がよければ幅の狭い一段を覆うように横たわる長毛の猫を見ることができた。
一階の奥の段差を降りると展示スペースがあった。
七〇年代の少年誌、少女誌。リリアン。水にぬらすと溶ける秘密手帳等が並べてあった。
リリアンを買えないかと尋ねている客に、店主はどうぞといくつも渡していた。通販で容易に補充できるとのことだった。本や年期ものの商品以外は、希望するものに快く与えていた。
アーケード街のシャッター通りの片隅に見つけたこの店を私は気に入り、休日の昼下がりには買物の休憩がてら立ち寄った。休日に地元の町中へ出かけること自体がもはやほとんどなくなっていたので、買物よりはこの店で寛ぐことが目的になっていたのだろう。店主のかわいらしい服装と半ば放任のようなのんびりとした対応が好きだった。ワンピースやエプロンドレスを好んできていた。年齢不詳だったが、それでも春には定年を迎える私よりは遥かに若いだろう。
ある晩、職場の要請で他社との懇親会に参加した私は、普段職場から離れているアーケード街に夜の九時近くに佇んでいた。そのままバスで帰るところだが、ひどくコーヒーが飲みたくなり、この時間でもやっているのだろうかと休日にしか訪ねたことのなかった店を覗いた。「プリンスメロン 懐かし屋」の看板は発光したような灯りに包まれており、板チョコのような窓から覗く店の中はひどく温かそうに見えた。
「まだやっていますか」からりとカウベルを鳴らすと、店主は「貸切ですよ」と笑った。私しかお客がいないという意味だな、私が帰ったら閉店かなと思った。
暖かいコーヒーがポットで運ばれてきた。冷たいチーズケーキのスライスが添えられていた。いつもカップなのに優しいな。時間を気にせずにってことか。ポットに被せられたペンギンのかたちのキルトカバーをかぷかぷと持ち上げてみる。ペンギンってあっためあうんだものね。
店主はカウンターの中のスツールに腰掛けて、両手のひらで頬杖をついている。見慣れた光景を風景のように一瞥したつもりが、ふと釘付けになった。右手がパペットにつつまれている。
「やあ、僕はプリンスメロン」視線に気づいた店主はパペットを揺らした。金の冠を被り黄緑色のマントを纏い南瓜ズボンをはいた王子、アメコミのキャラクターのようなうるさめのお顔が少しコミカルだった。
「小さい頃は喜んで受け入れていたのに、気がつけばたいしたありがたみもなくなって、思い出す糸口さえ失ってしまった。僕はそんなさみしいものたちの具現化です」
「プリンスメロンか」なんとなく納得する。
「よろしかったら一緒に二階に行きませんか」パペットを外して店主は云った。
階段半ばにいる猫を一段とびして二階に上がった。扉をあけるとソファーのほかには何もない和室だった。ただ物にあふれていた。ソファーも物置代わりだった。
「これ覚えていますが」店主が広げたのはグレーのローウェストのワンピースだった。二十歳になる時、サークルの新年会のために母が買ってくれたものだ。いつもTシャツやセーターとジーパンの私に、この町の商店街で買ってくれたのだ。裾にほど近いウエスト部分には黒のビロードのリボンが添えられている。後輩にかわいいと云われ、母が選んだのだと云ったら、おかあさんセンスがいいですねと云われたのを覚えている。まちがいなくもうない。そりゃあ半世紀近く前だ。でもこんな大切なものをどんなタイミングで捨ててしまうのだろう。
「すごい。なんでもあるの」「なんでも」店主は云った。「生ものは無理ですが」そう云ってクリーム色のカットソーを渡した。胸から下の辺りに赤茶色の猫の毛がたくさんへばりついている。みかげだ。いっしょに撮った一番お気に入りの写真で着ていた服だ。
「わかったわ」私は云った。「夢の中だわ。久しぶりにいっぱいお酒飲んだし。これから何かね、懐かしい小さなものを私にくれるの。そうして朝目を覚ました時掌を開くとそれがあるのよ」
「ジョッタジョーターじいさんですね」店主は云った。そうして私の前に冊子を置いた。私が小学校四年生の時の学研の読み物特集号。巻頭の物語だった。私はずっとこの本を探していた。恋焦がれていた本が古書ネットで意外と容易に入手することができるようになった今でも、一九七〇年代小学校中学年対象の読み物特集号は検索に引っかかることさえなかったのだ。
私はもう若くはないけれど、また、新たに何かを失い、どうにかして取り戻したいものは増えるのだろう。得ることよりも失うことが更新されていくのだ。そうして、もうここに導かれることはないのだろう。昼間に来ても、夜遅くのぞいても、いつもの落ち着いたカフェがそこにはあるのだろう。見上げれば、壁のオブジェとして張り付いたプリンスメロンのパペットが見透かすように笑っているのかもしれない。
「もう一年前の読み物特集号はありますか」「もちろん」
一番読みたかった「ダイヤのかんむり」が大好きな作家の物語であることを知った。
気がつけば長毛の猫が私に寄り添い、アメジスト色の瞳で私を見上げている。
2023/12/30
読み物特集号…手に入りませんか…