パイン/千早ちゃんへ/①
パイン
千早ちゃんへ
①
コンビニで千早を見た。雑誌を立読みしていた。知らんぷりして買物をして外で待っていた。出てくる時の千早は少し小走りで、きょろきょろして、それから僕を見つけて、「束砂(つかさ)」と云う。「知ってたのよ」
僕の袋の中のスナック菓子を見て、「友だち来てるんだ」と云う。普段の僕の部屋には存在しないものたち。千早の袋の中はいつも一泊二日用のチョコレート。ビスケット。ウーロン茶。七月の夜で、三日間雨が降った後で、アスファルトはきらきら光り、空気は低く流れる。
「期末テスト終わったんだ」
「うん」
「夏休みだね」
「うん」
「あ」千早は立ち止まる。月のぐるりを柔らかい光がとりまいている。オレンジ色で縁どられてパンジーの様だ。丸い光はまっすぐにここまで届き、水たまりの中でちりぢりになった。千早がつま先でチョンと揺らしたから。「束砂くんもうすぐ十六だ」
「八月に」
「十五の間は甘えていいよ」荷物を後ろ手にして軽やかに歩き始める。
「あと少ししかないじゃない」
「へへ」千早は笑った。
「最初会った時、小学生だもんね。小学生。中学生。高校生。夏休みもあって、テストもあって、この先のこともわかんなくて。すごいなあ。私なんかずっとOL。初めて束砂に会った時もOL。束砂が受験の時もOL。今も。ずっと」
「もう済ませちゃっただけじゃない」僕は云う。「みんないっしょでしょ」
「周りはそれなりに変ってくよ。結婚したり、おかーさんになったり。まあリセットもあるけど」
そう云ってから千早は急に口をつぐんだ。
「どしたの」
「うん」しゅんとしている。夜道のスキップは終わっていた。
「またやっちゃったなって思って。調子にのって、がーっと喋って、失敗する。いつも」
「なんだ」僕は云う。「いいのに」
両親は僕が幼い頃に離婚していた。母親は家を出、後に再婚した。以来父と二人暮しだったが、その父も僕が中学二年の春他界している。
「ある種の言葉の無神経さに人は気づかない」
千早は云う。小さなケガをした後こすって血を出す様に。その方がきれいに治るかの様に。そうしてもう一度同じケガをしない様に。
「たとえば命に関わる様な病気でも、人は冗談でその言葉を使えるの。全く関係のない世界に住んでいれば。人はその言葉で笑うこともできる」
「新発売のチョコレートだそうだ」
キャットフードの缶詰の様なパッケージを僕は藤城に渡した。
藤城典和と僕は中学がいっしょだった。彼は泊りに来たり、遅くに帰ったり、遅くに現れたりした。千早は僕に友だちという言葉と藤城という言葉を等価で使う。彼女は藤城しか覚えなかったのだ。だが実のところ僕自身も数多の人間やいい人たちに接し乍ら彼女の選択に違和感はなかった。
「千早さん来てるのか」
「わかるか」
「わかるよ」そういって藤城はペラリとふたを開ける。ムラサキ色のセロファンにくるまれたチョコレートが紫陽花みたいに並んでいた。「チョコレート、好きだよな」
「夏に新発売なんて邪道だって云ってた。チョコレートの新発売は秋の季語だって」
「日常会話に文学少女入ってるな」
「最近は形骸化してきたってさ」
「そういうところがさ」
「まあね」
「オマエも一途だよな」
「ええ?」と僕は笑い、チョコレートの包みをカシャカシャと誤魔化しの様に玩んでいるのは藤城の方だった。千早は僕が下宿しているアパートの管理人のばあちゃんの孫娘だ。普段は自宅から会社に通勤しているのだが、こちらの方が会社に近いのでよくばあちゃんのところに泊りに来る。ねっからのばあちゃん子でもあった。中学の中頃までだろうか。本当にそれだけが理由だと思っていたのは。「それなりに蛇行してるんだけど」「でもキミの三日月湖は浅い」ここ数年定番となったやりとりで僕の話を終わらせて「そっちはどうなの。夏休み」そう云い乍ら藤城のマグカップにほうじ茶を注いだ。
「わかんないなあ」
「わかんない?」
「楽になりたいんだか、してあげたいんだか、がんばりたいんだか、わかんない」
藤城は中学の時の同級生とつきあっている。彼らがつきあい始めてまもなくの頃、学校でその子を見かけた時、彼女は黒地に黒く小さなバラの刺繍のリボンを髪に結んでいた。一つに束ねた髪型がポニーテールに見えたらその人は幸せなのだろうと思った。
「何か、中学の時はさ、ほっといても勝手に楽しいことついてくるみたいな感じだったのに、転化するってかさ、ハチミツかけたみたいに、キュウリでもメロン。だけど今はさ、努力を要する、楽しくなるのに、評定みたいだな、勉強しなきゃいけないのか」
藤城はポテトチップスの袋を両方の掌で挟んで云った。
「学校変ったからかな。それだけが理由なのかな。でも理由があるってのはいいな。転嫁できる。この部屋は本当に何もないな。オレはいつも菓子の袋をぱりぱり開けている。食べかけの袋を出されたことがない。乱雑で気紛れな娯楽もない」
テレビにも雑誌にも邪魔をさせてはやらなかった。だんだんととりとめなくなる彼の話をきいていた。藤城はがんばりたいんだなと思った。シビアな選択肢を並べていたけれど。キュウリだっておいしいんだ。時にメロンよりも。
洗濯物を干していると千早がドアを開けて「束砂」と呼ぶ。「藤城くんは」
「帰った。デンワがぴろぴろ鳴って」
「デンワなんて一人の人の為にあるね」
「味方か」
「味方よ」千早は云った。「もうどこへでも行けるわ」
安心の国に行く。でも、安心の国の住民ならそれを必要とするだろうか。そうして僕は千早と電話で話すことがないのに気づく。いつも顔を見て話す。出会って。
「お願いがあるの」
千早はそう云って手招きする。お願い。配線か。力仕事か。後手に持っていたスニーカーを彼女は秘密の取引の様にさしだした。
「ひもを通してくれないかなあ」
「上からと下からとどっちがいい」
「上から」即答してから、下からひもを通した僕の黒いごついスニーカーを見て考え込み、もう一度「上から」と云った。
ぴかぴかの新しいスニーカーに真白なひもを通す。
「昨日頼もうと思ったんだけどさ、夜だったから。不幸が歩き出しちゃうといけないからさ」
「いつでもどうぞ。千早は永遠にこれ、うまくできないだろうからさ」
「スニーカーひも通し役だなあ。スニーカーひも通し家」
「称号を与えられるなら不幸まで肩代わりできなくちゃね」
金魚をすくうみたいに、線香花火を競うみたいに、玄関先で二人ぺたんとしゃがんでいる。太陽は千早の肩越しに光り、きれいな夏の朝は終ろうとしていた。
「はい」
「ありがとう」
僕が片手でぶらりと渡したスニーカーを千早は両手で受け取った。それからすくっと立ち上がり、「どっか行かない」と云った。
この町から一時間ほど離れたところにある観光スポットの一角で夭折した作家の没後五十年展が行われていた。千早の「どっか」は既に決定された場所だった。そこにはきれいな空間があり、おいしいケーキ屋があった。彼女にしてみればフルコースだ。作家展は一人でもよかっただろう。でも千早は道連れがほしかった。きれいな場所とケーキに。天気がいいお休みの日に。
館内には初版本や草稿や手紙が展示されていた。下書や私信が晒されるってどんな感じだろう。この人は何を望み、人々は何を知りたいのだろう。だけどガラスケースにへばりついている千早を見れば、需要と供給は一致をなしている。一枚のハガキに赤いオーバーコートを着た少女のスケッチが描かれている。今はかろうじて赤と判別できる赤。雨の日。雪の日?作家は電車の中で向いに座った見知らぬ少女を記憶にとどめた。寒さだか、淋しさだか、何かに共鳴して。
「私、高校の時、このハガキを本で見てね」千早が云う。「これは私だって思ったの」
「何年か後。二十だか、二十二だか、二十三だかの時に、すごい能力を身につけて私はこの人に会いに行くのよ。だってこんなに好きなんだから。このみすぼらしい少女は私なのって」
「群集写真の中に自分を見つけたみたいに、あ、これ私だって思ったのよ」
うっとりと懺悔を続けている。「でもね」
「そんな能力、訪れない。タイムトラベル。テレポーテーション。プレコグニション」
「テレパシー」僕はつなげる。
「テレパシー。大いなる誤解。勘違い。ノボセ。つじつまあわせ。未だかつて未確認の能力。自己申告に頼るのみ。人と人の心の答合わせ、できる?」そうしてまた「でもね」と云う。寄り道させちゃったのだ。
「そんな標本にされちゃいそうな特別な能力じゃなくてね、普通の人が持っている力さえも身につかなかったの」
「どんな能力」
「誰かを喜ばせたり、怒らせたり、悲しませたりする能力」
ポロシャツは襟の形がかわいくて、色は赤と白と青のボーダーだった。「トリコロール」と千早は云った。得意気に。記憶に残すべきものの様に。幸せな時にしか使わない様な響きのこの言葉を彼女はその服で導きたかったのだろう。久し振りの快晴。新しいスニーカー。とっておきのポロシャツ。作家展は最終日。千早は「誰か」と「どっか」へ行くのをぎりぎりまで待った。小さな電話は鳴らず、クリーム色のリュックの奥地へと納められた。彼女は思わくを抱えてばあちゃんのところへ泊りにくる。誰かの為に。会う時のカモフラージュ。会いたい時のジンクス。そうして会えなかったときの僕なのかな。
「人の心を読むのとコントロールするのは全然別だよ」コントロールの方が難しいでしょ。自嘲することはないじゃないか。「フィリップ・k・ディックも云ってた」
「あ、短編集復刻したんだよ」
「集めてる最中に絶版になったヤツ?」
「うん。買っといたんだ。都会の本屋さんでね。今度持ってくる」
全四巻の短編集の二巻目だけを買いそびれて、千早は悔しがっていた。絶版になった大切な本を貸してくれて、その悔しさを僕も共有した。ディックはそんなこと云ってないよなんて千早は云わなかった。わかっていても。いつも会話は優しく流れる。都会の本屋さんという言葉がまるでどこかの惑星の様に届く。
ときどきすごく読みたくなるのだ。SFが。一人の、元気な、休日に。観光地より遠くに行く。それから、情緒的な介入をされたくない時に。僕はやはりそうして遠くへ行くのだ。広く、明るく、光が射し込む店で千早は白いチョコレートケーキを頼んだ。
風邪というのはどういう病気なんだろう。腹痛ってのは病名?病状?その晩僕は妙な悪寒にみまわれ、重ねてひどい腹痛に襲われた。歩み寄るなんていうやんわりとしたものではない襲撃。引出しの中の薬類をぐちゃぐちゃと引っかきまわした後、薬を求めたか、助けを求めたか、判断力を求めたか、追い詰められたものの本能みたいに管理人のばあちゃんの部屋のドアを叩いた。その後の記憶は定かではない。タクシーに乗ったのか、救急車に乗ったのかも覚えていない。そうして僕は生まれてはじめて体験する病室のベッドの上で目覚めた。僕ははしか以上の通過病を経験したことがなく、むこうみずなケガも不運なケガもしたことがなかったのだ。
ベッドの上で天井を眺め乍ら、前触れもなく入院した全ての人がする様にそっとそっと記憶をたぐった。それはいきなりとんでもなく遠くまで飛んでいってしまった。病院というものが触発する記憶。夏の白いシャツとショルダーバッグで学校の帰りに病院へ通う自分。玄関。廊下。エレベーター。階段。その圧迫感。人の念って存在するんだって思った。浮ついた空気や退廃的な空気が存在する様に。それからあの時のリセット感。計画も楽しいことも全て追いやられるあの気持。それまで確かに自分の世界にあったものが突如はなから無縁のものに見える感覚。上から諦めを重ねていく心境。でもそれはあの時の持ちものだった。思い出すもの。今、こうして一人ベッドの上にいると不思議にその様な心境から離れていくのに気づく。そうして思う。内側にいるのだ。僕は誰の夏も水に流すことはない。
その後病院の話をきく。検査があるのだが、二、三日で出ることになりそうだ。
それからは日の光のもとで二度寝、三度寝を繰り返していた。その時僕が行っていたのはいい夢を見る努力だった。最初は無意識だった。でも、そうして捕まえたそれを離そうとはしなかった。
もともと僕は今のアパートではなく、父の会社の社宅に住んでいた。父とともに。アパートは社宅の入口の門とフェンスに向きあう様にして、舗装されていない道路を挟んで存在していた。
アパートの裏手には錆びついた鉄製の階段があって階段の先には何もなかった。何年か前に大幅な改築があった時にそこだけ残されたのだという。階段の下は割と広い空き地になっており、いろいろな背丈のいろいろな草が生えていて無秩序だが美しかった。
その日僕は鉄製の階段の天辺に腰掛けて夕日が沈むのを見ていた。そこからの落日の眺めはとてもきれいだったし、背景が色濃くなる中の花たちも何か怪しいものを吸収していくみたく美しい様だった。そうしておそらく僕はステレオタイプのふてくされた様だったろう。叱られた子供の様に。叱られた記憶はない。ただ一人で勝手に。そしてこのささやかな不法侵入。
黄色いパフスリーブのTシャツにマドラスチェックのジャンパースカートの女の子が下から不思議そうに見上げているのに気がついたのは、あたりがオレンジ色がすっかり消えた青色になってからだった。ガチャガチャ音をたてて階段を降りてきた僕に彼女は云った。
「リイドかと思った」
「誰それ」
「猫」
「人間だよ」僕は両手を広げてみせた。証明する術は知らなかった。
「人間に変わる時間かと思ったわ」
彼女たちー千早とばあちゃんだーは、この裏手を時々ふらつく雌猫に勝手にリイドという名前をつけていた。僕がそいつに会ったのは結局一度きりだった。ある日僕が階段の上にいる時、彼女は現れ、最下段の周りをのろのろ旋回し、それからゆっくり三段目まで上ってきて、どっしりと腰を下ろした。そこから上には上ってこなかった。僕と彼女の距離はそれ以上縮まることはなかった。生涯通して。とても大きくてわけがわかんないくらいいろんな色が混じった猫で、リイドなんて外国の少年みたいな名前はそぐわないやと思った。それは外見のみの判断だった。しばらくして僕は気づく。彼女の場所を奪ってしまったことに。彼女は現れなくなった。それは彼女の機嫌をそこねたのではなく、彼女が僕に譲ってくれた様に思えた。少し自惚れている。彼女は階段を十段はさんだ下から僕を観察して、そうして僕にくれたのだ。
それから後に僕は、もう一人の彼女ー瀬川千早の場所も奪ってしまったことに気づく。
何かを探す様な具体的な目的も持たず、人をあんなところへ導くものは何か。そうして僕にかけた奇妙な言葉。彼女はふわふわとしたとりとめもない目的を抱えて現れた。ぼんやりと。その身を、その気持を沈める為に。肩までの髪をひっつめにした彼女はとても幼く見えた。高校生かと思った。青暗い中にぽわんと黄色く浮んで月見草みたいだった。
貴方があの階段残したんでしょう?小学生の時心に浮かべた問いかけを今もしまいこんでいる。いつか『貴方』って呼ぶんだって思惑が野心みたいに残っている。彼女を呼びつけにする日常は時に自分をとても幼く感じさせる。子供の特権の名残の様で。
その後しばらく僕はリイドの化身であるという彼女の疑惑を払拭することができず、社宅の入口まで表札を見せに行った。
『野口 了
束砂』
千早はそれをしばらく眺めてから「ホント…」と云った。母親のことは何もきかなかった。その後も僕が話さなければ何もきかず、僕がきかなければ何も云わなかった。
僕は彼女に遊んでもらう程子供ではなかったので、キャッチボールをする様な牧歌的な間柄にはならなかったが、中学生になってからは時々勉強を教えてもらう様になった。それは広い意味での遊び相手だったかもしれないし、後の遊び相手としての布石になったのかもしれない。千早は人にものを教えるのが上手かった。それは才能というより性格の様な気がした。相手の心情を先回りして話すし、相手のリアクションを見越して行動を起こそうとした。人がこわいのかしら、と思う時がある。彼女は、彼女を確実に傷つけない人間を好んで近づける。そうして彼女を確実に傷つける人間も。だが、人にものを教える能力はその副産物だった。相手にわかる様に説明をし、教える対象、与える知識をおもしろいものにしてみせた。でも、それは千早が十五までに学んだことを本気でおもしろいと思っていたからかもしれない。
「束砂って名前がキライなんだ」
ある日僕は千早に云った。それはずい分時間が経ってからの中途半端なタイミングでの自己紹介だった。
「え」彼女は頭の天辺から声を出してから云った。「どうして」
「砂を束ねるって書くんだよ。何かむなしいじゃない。束砂って熟語が存在したらさ、無駄な努力とか、叶わぬ願いとか、そんな意味だ、きっと」
「どうして」もう一度千早は云った。「いい名前じゃない」
「どこが」
千早は僕の目を覗き込む、というよりはすうっと僕に目を覗き込ませて云った。
「ホニツタフナミダノゴハズ イチアクノスナヲシメシシヒトヲワスレズ」
「何それ」
「石川啄木の一握の砂。最初にキミの名前見た時思い出した。そうして思った。この世で一番かっこいい名前を先につけられちゃったってね」
翌日僕は学校の帰りに駅前の小さな本屋で啄木歌集を買った。冬の夕方の本屋の夜店の屋台の様な黄色い灯りを覚えている。そうして内にいるにもかかわらず、人差指を掲げて本の背をたどり乍ら探す自分を真横から見る視線で覚えているのだ。
僕は大きく実行に移すことはなかったが、心の中で漠然と壊れていた。自分というものの存在の必要性を疑っていた。
「この世で一番かっこいい名前をつけてもらったこども」
自分の存在は突如正当化された気がした。その後再び居場所を失いそうなトルネードの中にいる時でも、正気で、自分を、保つことができたのはこのことのおかげだった。
そうしてそれはあれから数年の時を経た昼下がりの僕にまた穏やかな眠りを与えたのだった。