戦国その8 九州の廃仏王:大友義鎮(宗麟)の家臣団と軍団
豊後国 大友義鎮(宗麟)の家臣団 1550~1576年間。
足利幕府の変遷
<大友家 歴代当主>
△大友義鑑 (1502~1550)親安。豊後・豊前・筑後守護職の大友義長の息。大友家20代。1518年家督相続。大内義興の娘婿。1534年豊前宇佐の佐田朝景を「勢場ヶ原の合戦」に破る。1538年将軍・足利義晴の調停で佐田氏の背後にいる大内義隆と和睦。1544年朽網親満の乱を鎮圧。義晴の嫡男・菊幡丸(義輝)元服の資金を援助する。1550年義鎮を廃嫡するが「二階崩れの変」で死去。
大友義鎮 (1530~1587)入道宗麟。洗礼名フランシスコ。1554年竜造寺隆信の佐嘉城帰還を援助し肥前守護職を得る。1556年豊前・筑前制圧のため府内より出陣。1557年大内家の混乱に乗じ豊前門司城を奪取。1558年毛利氏に門司城を攻略される。1559年豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職となる。1559年豊前「門司城攻防戦」で毛利隆元に敗北する。1561年田原親宏に命じ門司城を攻囲。1562年丹生城を築城。1563年毛利方の松山城を攻撃し敗退。1564年毛利氏と講和する。1569年吉川元春が豊前に侵入。1569年毛利方と「多々良浜の合戦」。1570年竜造寺隆信の佐嘉城を攻囲、「今山の合戦」に大敗。1576年宇佐八幡宮を焼き討ちする。1576年隠居。臼杵丹生島城主。1578年日向遠征に出陣。「高城川・耳川の合戦」に敗退する。1582年天正少年遣欧使節団。
<義鎮(宗麟)の弟>
↓大内義長 (*~1557)大友・晴英。大友義鑑の息。母は大内義興の娘。大友義鎮の弟。1551年大内義隆の滅亡後、陶隆房達、大内家重臣から大内家の相続を要請される。1552年正月山口入り。 1552年陶晴賢により大内義隆の跡職に迎えられる。橋爪鑑実・高橋鑑種・吉弘右衛門大夫が補佐。足利義輝の一字を拝領し義長。竜造寺隆信の弟に「長」字を与え、竜造寺(多久)長信とする。陶隆房は晴英の「晴」字を与えられ晴賢となる。家老に杉重矩。「厳島の合戦」後、毛利家の侵攻により高峰で山口を防衛。勝山城に籠城。内藤隆世切腹の一命に替えての助命開城により長福寺に移動するが、再び攻囲され自害。<先祖の大友義長の統治を見習おうとしたのでしょうか。>
▽大友親貞 (*~1570)八郎。大友義鑑の息。大友義鎮の弟、または甥。1570年大友義鎮軍の「佐嘉城攻囲」に総大将、竜造寺軍・鍋島信生(直茂)の夜襲により敗北、討死。<敗戦の将と貶められてはいますが、総大将を任される程の器量が実はあったのかもしれません。>
(御由緒家)
奈多鑑元 (*~1569)奈田・鑑基。奈多八幡宮宮司。豊後安岐郷の豪族。大友家臣。寺社奉行。大友義鎮は娘婿。田原親賢の実親。大友義鎮の外戚として家中に重きを成す。1569年立花鑑載討伐に従軍し陣没。息に鎮元、政基、(田原)親賢。娘婿に大友義鎮。<京都の武家伝奏「源氏長者」・久我家と深い縁があるようです。>
<加判衆=同紋衆(一門衆)>
大友六奉行・六家老
(当初は同紋衆から3名、他姓衆から3名が選抜されていた。義鎮家督から一門登用に。)
入田親誠 (*~1550)大友義鑑の加判衆。立花道雪は娘婿。大友義鎮を廃嫡すべく「二階崩れの変」を起す。逃亡先の岳父・阿蘇惟豊により討たれる。
↓田原親賢 (*~1600)民部大輔・尾張守・近江守・紹忍。反キリシタン筆頭。奈多八幡社家・奈多鑑基の息、兄に奈多鎮元。田原親資の養子。田原の庶流、武蔵田原家。豊後武蔵城主。姉が大友義鎮の室。義兄弟の縁から重臣筆頭となる。大友義鑑・義鎮の加判衆。大友義統の代に国政を掌握する。1550年肥後出陣「竹迫・宇土・下陣・片志多攻略」。豊後・筑後・肥前方分。豊前妙見岳城主。豊前・周防の旗頭となる。島津和睦派。1578年「耳川の合戦」に田北鎮周の独走を赦し敗走。親賢家は大友義鎮の次男・親盛が相続する。
↓一萬田鑑実 (*~1588)次郎・兵部・式部・三河・宗慶。一萬田家庶流から本家を相続。一萬田惣領家。豊後大野郡一萬田小牟礼城主。1550年菊池義武討伐に出陣。1557年秋月文種を討つ。1560年から連年、筑前出陣。大友義統の加判衆。1578年「高城川・耳川の合戦」に出陣、肥後方面進軍の南郡衆。1579年「熊牟礼の乱」鎮圧に出陣。筑後方分(旗頭)。のち一族の罪を負って切腹。
↓臼杵鑑続 (*~1561)(戸次)・太郎・三郎右衛門・安房守。臼杵長景の息。鑑速の兄。大友義鑑、大友義鎮の加判衆。幕府、他家との外交責任者。大内義隆との和睦、一色義晴の婚礼、大友晴英の大内家相続等の交渉を成立させた。筑前志摩郡代官。筑前西部地域の旗頭。柑子ケ岳城主。<臼杵家は豊後大神氏の後裔。>
田北親員 (*~1540)大友義鑑の加判衆。豊後直入郡田北村領主。朽網郷松牟礼城主。子息に田北鑑盛・鑑重・鎮周。1519年叛乱した朽網親満を討つ。1534年玖珠郡衆の旗頭として大内軍を撃退。臼杵鑑続・山下長就とともに和平交渉にあたる。
↓▽田北鑑生 (*)豊後速見郡日指城主。筑後・筑前方分。田北親員の息。大友義鎮の加判衆。大内氏との和平に尽力している。1534年大内軍・杉重信、陶興房に備え木付親実と豊後国大村山立石峠に出陣1000騎。息に鎮生。
↓志賀親守 (*)道輝。北志賀家。志賀家嫡流。志賀親益の息。大友義鑑、大友義鎮の加判衆。豊後大野郡大野庄志賀村領主。直入郡岡城主。1544年大友義鑑より肥後に所領を与えられる。1550年義鎮の宗家相続の際、義親に起請文を送られる一門の有力者。1554年秋月・筑紫氏の毛利氏に通じての謀反鎮圧に筑前国に出動。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。島津の豊後侵攻の際は丹生島城に籠城する。夫婦ともにキリシタン。
↓朽網鑑康 (*~1586)市正・三河守・中務少輔・鑑安。豊後山野城主。入田親廉の息(次男)、朽網親満が叛乱により滅亡後、養子に迎えられる。1569年から加判衆。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。1586年山野城に籠城し島津軍に攻囲されるなかで病死。
<加判衆=他姓衆(外様衆)>
大友六奉行・六家老(当初は同紋衆から3名、他姓衆から3名が選抜されていた。義鎮家督から一門登用に。)
小原鑑元 (*~1556)神五郎・四郎左衛門・遠江守・宗惟。小原右並の息。大友義鑑遺言状の五将のひとり。義鎮の初期加判衆。1550年「菊池義武討伐」に肥後出陣。戦後、肥後方分(旗頭)、南関城主。肥後北部を支配するが1556年他の他姓衆と毛利・秋月氏に通じ挙兵。大関城に籠城するが討死する。<小原家は豊後大神氏の後裔。>
△佐伯惟治 (*~1527)豊後佐伯氏第10代。豊後大神氏流。1526年謀反。臼杵長景により討伐される。豊後国栂牟礼城主。跡職は惟常が継承する。
佐伯惟常 (*)大友家他紋衆。佐伯11代。1527年に佐伯氏惣領の跡職を継承する。<佐伯家は豊後大神氏の後裔。>
↓佐伯惟教 (*~1578)太郎・紀伊守・入道宗天。有力外様家臣。惟常の跡職を継承。佐伯12代。大友義鎮家督相続に協力。「二階崩れの変」に軍功。1566年小原鑑元・本庄・中村とともに義鎮に謀反。一時伊予国に出奔し西園寺実充・公広の客将、1569年に帰参。1572年大友義鎮の娘婿・一条兼定を救援し、西園寺公広を攻撃。1578年「耳川の合戦」に戦死。豊後国栂牟礼城主。<1566~69出奔。実力のある自由人です。四国への遠征を任されたりと、水軍大将でもあるようです。>
雄木治景 (*)若狭守。1536年大友義鎮の代に佐伯惟教が失脚し、代役として他姓衆ながら加判衆に加わる。1557年「秋月文種討伐」の際、志賀親守とともに豊後留守居。雄城台城主。
<豊後三家老> 大友義鑑世代。
吉弘鑑理 (*~1571)(田原)・左近大夫・伊予守・鑑直。大友一門衆・田原庶流家。吉弘第八代。大友三家老のひとり。大友義鑑の娘婿にして、大友義統は娘婿。豊後玖珠郡方分。1550年肥後出陣「竹迫・宇土・下陣・片志多攻略」。1555~1579年間「加判衆」。1560年筑前白山城・宗像氏貞を攻撃。1567年高橋鑑種・竜造寺隆信・筑紫広門が結び毛利氏に通じ叛乱、筑前国に出動し鎮圧する。肥前国方分。1570年竜造寺隆信の「佐嘉城攻囲」に北口大将、夜襲により敗北。尾山城主。息に吉弘鎮信、高橋紹運(鎮種)。<吉弘氏は豊後大神氏の後裔。>
吉岡長増 (*~1573)(野津)・左衛門・越前守・越前入道・宗歓。大友一門衆・野津庶流家。大分郡の領主。大友義鎮の最長老の家老。大友三家老のひとり。1569年竜造寺隆信の謀反に対して、対竜造寺戦に戸次鑑連とともに先陣を務める。大友義鎮の加判衆。1562年大友義鎮とともに剃髪・宗歓。1568年対毛利戦の一手として大内輝弘の山口奪還を進言。大分郡の鶴崎千歳城主。息に鑑興、鎮興。<義鎮に度々諫言する。名言に「雁は去んでもまた戻る」。>
臼杵鑑速 (1538~1574*76)(戸次)・悪六・四郎左衛門・越中守・安房守・鑑景。大友一門衆・戸次庶流家。臼杵第8代。臼杵長景の息。鑑続の弟。大友三家老のひとり。大友義鎮の加判衆。幕府、他家との外交責任者。1550年肥後出陣「竹迫・宇土・下陣・片志多攻略」。1559年上洛し将軍に拝謁する。1560年筑前白山城・宗像氏貞を攻撃。豊前・筑前・肥前に出陣。1567年高橋鑑種・竜造寺隆信・筑紫広門が結び毛利氏に通じ叛乱、筑前国に出動し鎮圧する。1570年竜造寺隆信の「佐嘉城攻囲」に北口大将、夜襲により敗北。息に統景。豊後国臼杵水ケ城城主。
(豊後譜代衆)
宗像鑑久 (*~1533)民部少輔。筑前国人領主。一万田親敦の息、一万田鑑相の弟。大友義鎮に謀反の疑いありと誅殺される。
一万田鑑相 (*~1553)弾正忠・親実。大友一門。一万田親敦の長男、高橋鑑種の兄。1550年義鑑遺言状に宿老五人のひとり。大友義鎮相続後失脚。謀反の疑いありと誅殺される。大野郡市万田を領する。小牟礼城主。鳥谷城主。
吉弘氏直 (*~1534)石見守。1534年杉重信、陶興房の豊後侵攻に「勢場ヶ原の合戦」寒田親将と豊後国大村山に出陣2800騎。大内軍に突撃し戦死。
寒田親将 (*~1534)三河守。1534年「勢場ヶ原の合戦」吉弘氏直と豊後国大村山に出陣2800騎。大内軍に突撃し戦死。
広瀬祐則 (*~1534)美濃守。1534年「勢場ヶ原の合戦」吉弘氏直に従い、大内軍に突撃し戦死。
志手泰久 (*)加賀守。1534年大内軍に備え野原昌久と豊後国大村山地蔵峠に出陣800騎。
野原昌久 (*)対馬守。1534年大内軍に備え志手泰久と豊後国大村山地蔵峠に出陣800騎。
吉岡鑑興 (*~1578)吉岡長増の嫡男。弟に鎮興。室は豊後の女傑・妙林尼。1578年「耳川の合戦」に戦死。
田北鑑忠 (*)大友家庶流。1569年大友義鎮より竜造寺隆信打倒の軍勢催促状を受ける。1568年対毛利戦の一手として大内輝弘の山口奪還を実行。
↓志賀親教 (*)北志賀家。大友一門。親度・親孝・道易・道駅。志賀親守の息。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。
木付親慶 (*)1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍。
柴田礼能 (*~1586)右馬助。キリシタン武将。臼杵丹生島城の籠城戦で戦死。宣教師曰く「豊後のヘラクレス」。
浦上宗鉄 (*)左京・長門・道冊。水軍の将・若林鎮興は娘婿。大友義鎮、大友義統の祐筆、申次。軍事、外交、行政にも関わり、1588年大友義統とともに大阪に向かい秀吉に謁した。1592年には豊後留守居。
田原親宏 (*)大友三家のひとつ。沓掛田原家。1550年肥後出陣「竹迫・宇土・下陣・片志多攻略」。1557年対毛利に豊前出陣「山田・馬岳城攻略戦」に軍功、しかし軍功なき田原親賢に所領が与えられ、以降不満を溜める。1578年田原親賢が「耳川の合戦」以降蟄居している間に所領の多くを奪う。養子に長野親貫。
田北鑑重 (*~1579*1580)鑑富・大和入道・紹鉄。大友家庶流。田北親員の息、兄・鑑生の養子。田原親貫と結んで大友義鎮・義統に謀反。養子に鎮周。朽綱郷熊牟礼城主。<挙兵は田原親賢により謀反の罪を着せられた為とも。>
↓朽網鎮則 (*~1586)宗策。鑑康の息。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。<朽網家は豊後大神氏の後裔。>
九州の諸豪。赤・ピンク色が大友家の勢力範囲。
豊後国 大友義鎮(宗麟)の家臣団 1550~1576年間。
<義鎮の子、義統の兄弟>
大友義統 (1558~1610)1576年家督相続。1580年田原親貫を攻撃する。1581年彦山を焼き討ちする。1583年「佐野城攻略」。1586年島津氏の侵攻に耐えかね、秀吉の九州出兵を促す。豊後一国を所領安堵される。秀吉の養子となり吉統と改名する。1593年朝鮮出兵に失態、改易される。1600年「関ヶ原」に連動する「石垣原の合戦」にて松井康之に敗北。
大友親家 (1561~1641)林・田原・門司・利根川・新九郎・常陸介・勘解由・道孝。大友義鎮の次男。義鎮の意向で仏門、反抗し武士を貫いた。兄・義統との対立により島津家に内通。島津の侵攻にあって降服する。のち細川忠興に出仕。<同世代の田原親虎・臼杵統景をライバル視していた模様。>
大友親盛 (1567~1643)田北・松野・弥十郎・与兵衛・半斎。洗礼名パンタリアン。大友義鎮の3男。栄彦山黒川座主。還俗して田北家養子。のち夫婦でキリシタンとなる。
<第2世代・一門衆>
大友義鎮世代。1530年以降
田北鎮周 (*~1578)弥十郎・刑部小輔・相模守。大友一門。田北親員の息、兄・田北鑑重(紹鉄)の養子。毛利家との抗争に軍功。1576年から加判衆。島津主戦派。1578年土持親成を破るが、「高城川・耳川の合戦」に角隈石宗らと戦死。<兄・紹鉄は軍略に優れた武将だったらしい。>
斉藤鎮実 (*~1578)兵部少輔・左馬助。斉藤長実の息。高橋鎮種は妹婿。筑後衆の旗頭。1567年高橋鑑種・竜造寺隆信・筑紫惟門・広門、原田了栄・秋月種実・宗像氏貞が結び毛利氏に通じ叛乱、肥前の竜造寺氏鎮圧に出動し服従させる。筑紫惟門を破る軍功。1578年「耳川の合戦」に戦死。
吉弘鎮信 (*~1578)(田原)・加兵衛・太郎・左近・宗鳳。吉弘鑑理の嫡男。吉弘第9代。大友家家老職。1561年毛利家から豊前門司城を奪回するため大友義鎮の命で15000兵の大将。ポルトガル船に大筒での砲撃を依頼。毛利方・村上武吉らの援軍で奪還ならず。1578年「耳川の合戦」に戦死。尾山城主。弟に高橋紹運(鎮種)。
臼杵鎮氏 (*~1572)進士兵衛。1572年原田隆種(了栄)との「池田下河原の合戦」に戦死。
臼杵鎮次 (*~1578)新介・紹冊。臼杵鑑速の跡職を継承。筑前志摩郡代。好子岳城主。1572年原田隆種(了栄)親子と争う。1578年「高城川・耳川の合戦」に、惣領家・統景の後見として従軍。1578年「耳川の合戦」に戦死。
↓高橋鎮種 (1548~1586)吉弘・鎮種・(田原)・孫七郎・鎮理・鎮教・入道紹運。吉弘鑑理の次男。斉藤長実の娘婿。1569年筑前国三笠郡の国人・高橋鑑種の跡職を継承。1570年宝満・岩屋城主。筑後出陣の留守に筑紫広門に宝満城を攻略される。辞世「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ、雲居の空に名をとどむべき」。筑前岩屋城主。息に立花宗茂、高橋直次。
戸次鎮連 (*)1560年頃肥後経略に活躍し、立花道雪の養子として戸次家を継承する。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。
戸次鎮秀 (*)宗傑。大友一門。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍、肥後方面進軍の南郡衆。<戸次家は豊後大神氏の後裔。>
木付鎮秀 (*)木付氏第15代。1557年対毛利の豊前侵攻に従軍、田原親賢と「妙見岳城攻略」に無血攻略の軍功。「田原親貫の乱」鎮圧に出陣するが奈多鎮元の裏切りにより、弟・鎮之とともに討死。
田北鎮生 (*)刑部大輔。鎮述の息。鎮周の戦死後、蛟ノ尾城城主。
田原親貫 (*~1580*1579)長野・右馬頭。豊前国の長野氏の息。田原親宏の婿養子。田原氏嫡流第12代当主。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍。1579年毛利輝元、竜造寺隆信、秋月種実、田北鑑重(紹鉄)と結び謀反。大友義統に討伐される。家臣の津崎氏が離反。息に親家。鞍掛城主。<1565年豊前長野氏は大友氏と抗争状態にあった。三岳城主・長野弘勝、もしくは松山城主・長野助盛の一族か。><挙兵は田原親賢により謀反の罪を着せられた為とも。>
一万田鎮実 (*~1586)民部少輔・宗拶。鑑実の息。弟に鎮之。大友義鎮の娘婿。1568年「高橋鑑種討伐」に出陣。1569年から筑前にて対毛利戦の将として、吉川元春・小早川隆景と戦い負傷。1570年竜造寺隆信の「佐嘉城攻囲」に従軍。島津軍の侵攻に対し鳥谷城で籠城するが降服。のち罪を問われて自害。息に統政。
<第3世代・一門衆>
大友義統世代。1550年以降
田原親虎 (*1560~*)柳原・勝之四郎。1568年京都柳原家から田原親賢養子。キリシタンとなり義父・田原親賢に監禁、廃嫡される。
臼杵統景 (1560~1578)勝之太郎・少輔太郎。臼杵鑑速の息。文武に通じ大友義鎮に期待され、田原親虎と若手の両輪。叔父・臼杵鎮続の後見。1578年「高城川・耳川の合戦」に従軍。田北鎮周を救援し戦死。18歳。
吉弘統幸 (*~1600)吉弘鎮信の嫡男。1578年「耳川の合戦」での父の戦死により家督相続。「石垣原合戦」に従軍。旧主・大友義統の挙兵に従い黒田孝高軍と戦い戦死。
田北統員 (*)吉弘鎮信の息。田北鎮周の婿養子。
木付鎮直 (*)木付第16代。島津軍の侵攻に木付城に籠城し徹底抗戦する。主家に忠節を尽くす。木付城主。
立花統虎 (1567~1642)千熊丸・宗茂。立花道雪の娘婿。高橋紹運の息。道雪に請われて養子となり立花家を相続。島津家の侵攻に対して立花城を死守。弟・直次の息・忠茂を養子とする。
高橋統増 (*)宝満城を攻略され筑紫広門の捕虜となる。のち和睦がなり、筑紫広門の娘婿。
臼杵鎮順 (*)大友義鎮とともに豊後臼杵、丹生島城に籠城し島津軍の猛攻に耐える。
吉岡統増 (*)母は妙林尼。丹生島城の防衛に支城の鶴崎を守備。島津軍と戦う。豊後鶴崎城主。
<第3世代・家老衆 羽柴秀吉スカウト組>
「両人、無比類致働。」と直参に勧誘される。ようは九州の直江兼続のような・・。
大友義統世代。1550年以降
志賀親次 (1566~1603)志賀・太郎・親善。キリシタン武将。志賀親度の息。母は大友義鎮の娘。志賀氏第18代当主。父・親度が大友義統と対立し隠居したため19歳で家督相続。1586年島津軍の豊後侵入に岡城を死守する。島津義弘から「天正(期)ノ楠木(正成)」と賞賛される。豊後国直入郡岡城主。
佐伯惟定 (1569~1618)太郎。1578年祖父・惟教と父・惟真の死により家督相続。1586年山田匡徳とともに島津家久軍を撃破。1587年島津攻めに先鋒。秀長の案内役。1593年大友氏改易により失領。1593年豊後国佐伯郡栂牟礼城主。息に惟重。<佐伯氏は豊後大神氏の後裔。>
大友家の北九州支配体制 1570年「龍造寺攻め」の敗北から家が傾く
<大友水軍衆>
若林鎮興 (1547~1593)中務少輔・道閑。大友水軍(浦部)衆。1568年対毛利戦の一手として大内輝弘の山口奪還を実行。
佐伯惟教 (*~1578)太郎・紀伊守・宗天。大友家他紋衆。惟常の跡職を継承する。佐伯12代。大友義鎮家督相続に協力。「二階崩れの変」に軍功。1556年小原鑑元・本庄・中村長直とともに義鎮に謀反。一時伊予国に出奔し西園寺公広の客将、1569年に帰参。1572年大友義鎮の娘婿・一条兼定を救援し、西園寺公広を攻撃。1578年「耳川の合戦」に戦死。豊後国栂牟礼城主。
▽佐伯惟真 (*~1578)大友家他紋衆。惟教の息。1578年「耳川の合戦」に戦死。豊後国栂牟礼城主。息に(緒方)惟照、惟定、惟寛。
▼緒方惟照 (*)藤蔵人。大友家他紋衆。惟真の息。1556年西園寺家に出奔。伊予に土着する。伊予国白木城主。
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