14世紀~15世紀 東国の鎌倉公方から古河公方・関東管領 その2 鎌倉府の守護大名・有力国人「京都扶持衆」
(陸奥、出羽)、常陸、下野、上総、下総、安房、武蔵、上野、越後、相模、伊豆、甲斐、信濃。
1467年「応仁の乱」と東西両軍大名の動向
[下野守護大名]
のち古河公方の支配圏内
⇔小山秀朝 〈1335〉大夫判官・小山高朝。小山貞朝の息。鎌倉北条家家臣。北条高時より「高」字の偏諱。1333年新田義貞に協力し鎌倉攻略。後醍醐天皇により下野守護職任官。1335年高時の息:北条時行の起こした「中先代の乱」に武蔵で戦死。
▽小山朝氏 〈1336-1337〉(*~1346)常犬丸・小四郎・四郎判官・朝郷。結城一門。秀朝の息。弟に氏政。1335年父の戦死により家督継承。1336~1337年下野守護職。1337年奥州軍を率いて上洛する北畠顕家の捕虜となるが、同族である白河結城宗広の嘆願により赦免された。前関白:近衛経忠の興良親王を擁立する関東独立運動に勧誘され、小山氏、小田氏、結城氏と藤一揆(藤原同盟)を結ぶ構想があった。1343年親王が小山入城。尊氏に出仕従軍していた弟の氏政と対立。息(養子?)に氏政。小山城主。<小山今犬丸が1335年足利直義に従い「竹ノ下の合戦」。>
▽小山氏政 (1329~1335)左衛門佐・下野入道。秀朝の息。1340年小山家の内紛により家中分裂。1346年兄の死後家督継承。1351~53年宇都宮氏綱らと共に足利尊氏に従い足利直義討伐軍。「薩垂峠の合戦」、「笛吹峠の合戦」に軍功。息に息に義政。
⇔高ノ師直 〈1351-*〉(*1305~1351)「足利家執事」・武蔵守・内談頭人。下野国の豪族・高階氏。高師重の息。南頼基の甥。師泰・師久の兄。1335年新田義貞との箱根「竹ノ下の合戦」に従軍。関東の南朝勢力を一掃する。北畠顕家を阿部野に破る。1338年幕府設立に大功あり。1345年天竜寺供養に従軍、五番隊6人衆のひとり。1348年楠木正行を「四条畷の合戦」で破る。直義の部下、上杉重能(*~1349)・畠山直宗と対立し、1349年に執事を解任される。1351年「観応の擾乱」に直義に敗北し上杉能憲に討たれる。尊氏派。<息に師友、師詮、師冬、久直、師夏が存在する系図あり。実子なく師冬を養子とするという話もみたことあるんですが・・。>
⇔仁木頼章 〈1352-*〉<幕府執事1351~1358>(1299~1358)日記・二郎三郎・兵部大輔・周防守・伊賀守・左京大夫。下野・三河党。足利家執事<1351~1358>。1349年貞和5年8月師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派。仁木義勝の息。上地義連の弟。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。1336年の「西国落ち」に従い、丹波に戻り丹波・但馬で朝廷軍を阻止する。越前国「金崎城の合戦」、河内国「四条畷の合戦」に軍功。関東厩番。丹後・丹波・下野・武蔵守護を歴任。尊氏・義詮に忠実に仕え、直義を追い落とし将軍の実権奪還を成功させた。61歳。息に頼夏。
小山義政 〈1376-1380〉(*~1382)下野守。結城一門。小山氏第11世。尊氏の側近:小山氏政の息。新田義宗討伐に軍功。1372年下野守護職。下野守護職に就任し、小山家の全盛期を築くが、宇都宮家との抗争の中で宇都宮基綱(1350~80)を滅ぼし、関東公方:足利氏満の不興をかう。1382年「小山義政の乱」を起こし滅ぼされる。家名は結城家が継承する。息に小山隆政。
↓上杉憲方 〈1380-1386〉(1335~1394)安房守・入道道合。関東管領職兼任。山内上杉家。上杉憲春の弟。兄の死により家督継承。氏満を補佐する。下野国守護・小山義政の叛乱を鎮圧。上野・下野・伊豆・安房守護を兼任する。1392年病気のため隠居。60歳。
木戸法季 <1386>下野守護。1386年公方:氏満から小山若犬丸の軍事蜂起の鎮圧の命を受けるが敗戦。
⇔長沼秀直 〈1396-*〉(*)淡路守。秀行の息。陸奥国会津南山長江庄に所領。長沼惣領家。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。息に高秀(義秀?)、養子に盛秀。従兄弟に高宗、顕宗。<1396年代に在命なのかどうか。子や孫との混同でしょうか。>
⇔▽長沼朝実 (*)安芸五郎。南山長沼。奥州長沼家。惣領の長沼秀行の弟。甥に秀直。1335年足利尊氏討伐軍に参陣。新田義貞の先鋒大将。のち足利尊氏に従う。「観応の擾乱」に尊氏党。 息に顕宗。
↓結城基光 〈1400-*〉(*)弾正少弼。下総結城家。息に満広、(小山)泰朝。満広早世により小山泰朝の息・氏朝が家督相続。鎌倉公方の信任厚い。1416年「上杉禅秀の乱」勃発、足利持氏を守護し避難。一門の(白河)結城満朝は上杉に属し鎌倉占拠。1417年「世谷原の合戦」に上杉禅秀方敗北。
⇔↓結城氏朝 《1430-1441》(1402~1441)(小山)・七郎・中務大輔。小山泰朝の息。結城満広の養子。満広の跡職を相続。初期戦国大名。1439年上杉憲実「永享の乱」に古河公方・足利持氏が自害。1440~1441年公方・足利持氏の遺児2人、春王・安王を擁し幕府に叛乱。将軍・義教が駿河の今川範忠に命じ持氏を討伐。関東管領・上杉憲忠と抗争。1441年「結城合戦」に上杉清方軍10万兵に攻囲される。氏朝は息・持朝とともに自害。息に持朝、朝兼、長朝、成朝。兄弟に小山満泰、氏朝、広朝、山川氏義。
↓▽結城持朝 <1441>(*~1441)七郎・光久。氏朝の息。好田有輔の娘婿。1441年「結城合戦」に幕府軍に敗北し自害。
↓小山持政 (*)下野守。満泰の息。戦国大名。1439年上杉憲実「永享の乱」に幕府方。1441年「結城合戦」に幕府方。結城氏に代わり下野守護。小山家を復興。1450年江ノ島合戦に足利成氏を救援。1455年上杉方の宇都宮等綱と抗争。1457年堀越公方・足利政知が就任。1471年幕府に帰順。妹婿に宇都宮等綱。息に氏郷、養子に小山成長。
↓宇都宮正綱 (1447~1477)芳賀・武茂。芳賀成高の息(宇都宮等綱の息とも)。上杉房顕の娘婿。宇都宮明綱の跡職。1463年家督。古河公方・足利成氏を擁立。堀越公方・足利政知と抗争「享徳の乱」に古河公方軍の主力として転戦。1477年上野川曲にて陣没。31歳。息に宇都宮成綱、興綱、武茂兼綱、塩谷孝綱。
[下野守護:守護代家・下総結城氏]
⇔結城朝祐 〈1309-1336〉(*~1336)犬鶴丸・七郎・左衛門尉・中務大輔・朝高。貞広の息。北条高時より「高」字偏諱。常陸守護:佐介北条時綱の奉行。足利尊氏に従い「笠置山攻め」従軍。後醍醐天皇には分家の白河結城宗広・親光に対して冷遇される。1336年九州「多々良浜の合戦」に戦死。息に直朝。
⇔結城直朝 〈1336-1343〉(*~1343)七郎・左衛門尉。朝祐の息(長男)。下総結城七代目。息(養子)に直光。
⇔▽結城直光 〈1343-1395〉(*~1395)小塙八郎・太郎・八郎・左衛門尉・中務大輔。朝祐の息(次男)。1343年直朝の死により家督。下総結城八代目。安房守護兼任<1369-1385>。「観応の擾乱」に尊氏派。1352年上野国新田義興・義宗の挙兵に鎮圧。1368年上杉憲顕に従い新田義宗討伐。足利三代の信頼暑く常陸に勢力を伸ばす。息に基光。
↑結城基光 〈1395-1430〉(*)七郎・左衛門尉・弾正少弼。直光の息。小山氏政の娘婿。1416年「上杉禅秀の乱」勃発。
▽結城満広 (*)七郎左衛門尉・中務大輔。基光の息。弟に小山泰朝。
▽*↓小山泰朝 (*)結城泰朝。基光の息。断絶した小山家を継承する。息に結城氏朝、小山満泰。孫に持政。
↑結城氏朝 《1430-1441》(1402~1441)(小山)・七郎・中務大輔。小山(結城)泰朝の息。満広の跡職を相続。初期戦国大名。1439年管領・上杉憲実の「永享の乱」に古河公方・足利持氏が自害。1440~1441年古河公方・足利持氏の遺児2人、春王・安王を擁し幕府に叛乱。関東管領・上杉憲忠と抗争。1441年「結城合戦」に上杉清方に攻囲される。氏朝は息・持朝とともに自害。息に持朝、長朝、成朝。
↑結城持朝 <1441>(*~1441)七郎・光久。氏朝の息。好田有輔の娘婿。幕府軍を率いる上杉清方の10万の軍勢に敗北。
「結城合戦」下総:結城氏朝の家臣団と軍団
関東公方:足利持氏の遺児を擁立、足利春王丸と安王丸。
小山泰朝 (*)結城家一門衆。結城氏朝の実父。息に小山満泰。孫に持政。持政は結城家から離反し幕府軍。
宇都宮家綱 (*〜1440)宇都宮家庶流。1423年公方:足利持氏による上総守護:持綱の粛清により家督継承。1440年「結城合戦」に戦死。跡職は、嫡流の等綱が継承する。
那須資之 (*)息に氏資、資重。上那須家(氏資)と下那須家(資重)に分裂。
佐竹義人 (1399〜1467)上杉義人・鎌倉府評定衆頭人。佐竹義盛の養子。関東管領:上杉憲定の息(2男)。1407年家督継承。分家の山入氏と対立。
▽佐竹義郷 (*)常陸守護・京都扶持衆。山入与義の息。1418年公方:足利持氏が鎌倉にて与義を討つ。本家の佐竹(上杉)義人と対立。山入一揆を率いて抵抗する。
大井持光 (*)信濃佐久国人領主。鎌倉府評定衆頭人。鎌倉公方:足利持氏の側近。息に政光。
<下総結城家の再興>
⇔結城成朝 〈1450-1462〉(*)四郎・七郎・中務大輔。氏朝の息(4男)。1450年結城家を再興。一門の山川氏から所領を返還される。兄・長朝と家督を巡り対立。家老の多賀谷和泉守により暗殺される。24歳。
多賀谷氏家 (*)当主の結城氏朝から成朝を託され常陸国佐竹氏の下に落ちる。成朝を後見し結城家再興に奔走。
⇔結城氏広 〈1462-1481〉(*)五郎七郎・左衛門督。氏朝の3男・長朝の息。成朝の夭折により家督相続も早世する。小田持家の娘婿。31歳。<先代とおなじく多賀谷和泉守に暗殺されるか?それとも反対派による暗殺?>1477年上野国「塩売原の合戦」扇谷上杉家宰・太田道灌が、長尾景春を後援する古川公方足利成氏を討つ為に出陣。古河公方側に長尾景春:越後・長尾為景:結城氏:那須氏が集結。睨み合いのまま終戦。
⇔結城政朝 〈1481-1527〉(*)七郎・左衛門督。氏広の息。宇都宮成綱の娘婿。山川景貞が家政に介入し息・基景を結城家に送り込むが、結城家家臣団が反発。政朝が相続する。1499年山川氏に通じる家老・多賀谷和泉守を、多賀谷家稙の後援で誅殺する。息に政勝、(小山)高朝。
⇔結城政勝 〈1527-1559〉(*)三郎・左衛門督。政朝の息。水谷勝吉の娘婿。山川朝貞、政貞と同盟。1514年義父・宇都宮成綱を後詰し佐竹義舜、岩城氏を撃退。古河公方・足利義氏を擁する後北条氏の氏康と同盟し、小田氏治と抗争。那須政資、高資親子の抗争に皆川成勝、小山(結城)高朝と結び高資を後援、政資を後援する宇都宮家と抗争。
⇔結城晴朝 〈1559-1590〉(*)七郎・左衛門督。政朝の息・小山(結城)高朝の息(次男)。水谷正村の娘婿。北条家と結ぶが、のち上杉謙信の南下により山川氏重は結城氏との同盟を破棄し上杉家に離反。のち結城晴朝も謙信に属し、1575年後北条氏による結城征伐。山川晴重、宇都宮・佐竹・那須氏の後援で北条軍を撃退する。
⇔結城秀康 〈1590-1607〉(*)羽柴秀康・松平秀康・徳川秀康。
[小守護代・山川家(分家・結城庶流)]
下総・結城郡山川荘
山川重義 (*)山河・(結城)・下総守。山川(結城)重光の息(養子)。結城一門。息に光義、養子に貞重。
山川貞義 (*)山河・(結城)・三郎左衛門尉。結城一門。
山川光義 (*)山河・(結城)・五郎。重義の息。結城一門。
山川景重 (*)山河・(結城)・三郎判官。光義の息。結城一門。従兄弟に親重。
山川朝景 (*)山河・(結城)・下総守。景重の息。結城一門。
山川政景 (*)山河・(結城)・下総三郎。朝景の息。結城一門。
山川基貞 (*)山河・(結城)・下総三郎。政景の息。結城一門。娘婿に基義。
山川基義 (*)山河・(結城)・下総三郎・氏義。下総結城家の基光の息。結城氏朝の弟。基貞の婿養子。1441年「結城合戦」の後、結城氏朝・持朝親子の遺領を相続。氏朝の四男:結城成朝の結城家再興に領地返還。息に景貞、景胤、朝治、基政。景貞は小山氏養子。
山川景貞 (*~1499)山河・(結城)・讃岐守。基義の息。結城一門。弟に景胤、朝治、基政。息に基景。結城氏は成朝の夭折により、兄・結城長朝の息・氏広が家督。結城氏家老・多賀谷和泉守と結ぶ。氏広の早世により景貞は実子・基景を結城氏の惣領に据えるが失敗し、結城政朝が継承する。
山川基景 (*)山河・(結城)・兵部少輔。景貞の息。結城一門。一時、結城家家督に送り込まれる。従兄弟の成長は小山氏の養子。19歳。
山川朝貞 (*~1522)山河・(結城)・兵部少輔・朝政。基景の息。結城一門。結城政朝、政勝と同盟。
山川政貞 (*~1554)山河・(結城)・讃岐守。朝貞の息。結城一門。結城政朝、政勝と同盟。
山川直貞 (*~1560)山河・(結城)・讃岐守。政貞の息。結城一門。娘婿に結城晴朝。結城政勝に従い小田氏治と抗争。小田城攻略に軍功。
山川氏重 (*~1567)山河・(結城)・中務大輔。結城一門。義兄弟に結城晴朝。晴朝とともに北条家と結ぶが、のち上杉謙信の南下により結城氏との同盟を破棄し上杉家に離反。のち結城晴朝も謙信に属し、1575年後北条氏による結城征伐。結城晴朝、宇都宮・佐竹・那須氏の後援で北条軍を撃退する。
山川晴重 (*~1593)山河・(結城)・讃岐守。氏重の息。結城一門。息に晴重、堅重、朝次。
下野守護家・小山氏
「下野押領使」藤原秀郷子孫。
鎌倉幕府創業の名門。
小山朝氏 〈1336-1337〉(*)四郎判官。結城一門。秀朝の息。父の死により家督継承。1335年足利尊氏に従い反後醍醐。1336~1337年下野守護職。1339年鎌倉府で高ノ師冬と対立。従兄弟に朝郷、氏朝。息(養子)に氏政。<小山今犬丸が1335年足利直義に従い「竹ノ下の合戦」。>
小山氏政 (1329〜1355)朝氏の養子(実弟)。秀朝の息。結城一門。1350年「観応の擾乱」に尊氏派。宇都宮氏綱と共に従軍。駿河薩埵峠に直義軍を破る。1352年笛吹峠の合戦に軍功。1353年尊氏の上洛に佐竹義篤・小田孝朝・結城直光と共に従う。息に義政。
小山義政 〈1376-1380〉(*~1382)下野守。結城一門。小山氏第11世。小山氏政の息。新田義宗討伐に軍功。1372年下野守護職。下野守護職に就任し、小山家の全盛期を築くが、宇都宮家との抗争の中で宇都宮基綱(1350~80)を滅ぼし、関東公方:足利氏満の不興をかう。氏満の圧迫により1382年「小山義政の乱」を起こし滅ぼされる。家名は結城家が継承する。息に若犬丸。小山隆政。鷲城主。
▽小山隆政 (*)若犬丸と同一人物とも。義政の息。結城一門。弟(義弟)に泰朝。1380年足利氏満に降伏。義政の隠居により家督相続。降伏後、祇園城にて再度挙兵。敗戦する。祇園城主。
小山* (*)若犬丸。小山義政の遺児。小山隆政と同一人物とも。
*↓結城基光 〈1400-*〉(*)弾正少弼。結城一門。満広の早世により小山(結城)泰朝の息・氏朝が家督相続。1416年「上杉禅秀の乱」勃発。一門の結城満朝は上杉禅秀方に属し鎌倉占拠。1417年「世谷原の合戦」上杉禅秀方が敗北。息に満広、(小山)泰朝。
↑小山泰朝 (*)結城泰朝。結城一門衆。基光の息。隆政の弟(養子)。小山家を再興する。下総結城家の与力大名となる。
小山満泰 (*)(結城)・左馬助。泰朝の息。結城一門。弟に結城氏朝、広朝、(山川)氏義。
⇔↓結城氏朝 《1430-1441》(1402~1441)(小山)・七郎・中務大輔。小山泰朝の息。結城満広の養子。満広の跡職を相続。初期戦国大名。1439年上杉憲実「永享の乱」に持氏が自害。1440~1441年古河公方・足利持氏の遺児2人、春王・安王を擁し幕府に叛乱。関東管領・上杉憲忠と抗争。1441年「結城合戦」に上杉清方軍10万兵に攻囲される。氏朝は息・持朝とともに自害。息に持朝、朝兼、長朝、成朝。兄弟に小山満泰、氏朝、広朝、山川氏義。
↑小山持政 (*)下野守。下野守護・戦国大名。結城一門。1439年上杉憲実「永享の乱」に幕府方。1441年「結城合戦」に幕府方。結城氏に代わり下野守護。小山家を復興。1450年江ノ島合戦に足利成氏を救援。1455年上杉方の宇都宮等綱と抗争。1457年堀越公方・足利政知が就任。1471年幕府に帰順。妹婿に宇都宮等綱。息に氏郷。養子に(山川)成長。
▽小山氏郷 (*)持政の息。結城一門。「享徳の乱」に死去。
小山成長 (*)(山川)・下野守。山川景胤の息。持政の養子。結城一門。1471年持政の後見で氏郷の跡職を相続。足利政氏に出仕。両上杉家の抗争には政氏と共に最初扇谷定正、定正没後は山内上杉を支持する。1506年政氏と高基親子との抗争では、1514年宇都宮成綱・結城政朝に敗北。1516年足利高基に降伏し隠居。息に政長。
小山政長 (*)(山川)・左京大夫。結城一門。1516年家督相続。足利高基に従う。養子に下総結城高朝(政朝の3男)。
小山高朝 (*)結城高朝・下野守。結城一門。下総結城政朝の息(3男)、小山政長の跡職を相続。
小山秀綱 (*)(結城)・弾正少弼。高朝の息。結城一門。息に政種、高綱、秀広。
▽小山晴朝 (*)結城・左衛門尉。高朝の息。結城一門。結城家を相続。
[下野国人・宇都宮氏]
下野検交使。足利持氏「京都扶持衆」。
山入佐竹氏・常陸大掾氏・小栗氏・真壁氏・宇都宮氏。
⇔宇都宮氏綱 (1326~1370)伊予守・下野守。宇都宮惣領家。宇都宮第10世。公綱の息。弟に義綱。叔父に芳賀高貞。母は千葉宗胤の娘。斯波高経の娘婿。父と決別し北朝方。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。直義方の上杉憲顕の上野・越後守護を与えられる。1351年足利尊氏の勧誘により足利直義討伐に協力。1352年新田義宗の挙兵に足利尊氏に従い出陣。1352年鎌倉公方・足利基氏の重臣として、上杉家に代わり上野・越後守護職。1352~1362年越後守護。1362年復帰した上杉憲顕と対立。1362年公方・足利基氏に領地返還を命じられるが拒否し討伐される。45歳。1368年「武蔵平一揆」に挙兵するが公方・足利氏満に敗北し隠居。45歳。息に基綱、氏広。
⇔▽芳賀高名 (*~1372)宇津宮高名・清兵衛・入道禅可。宇都宮家の家宰。上野守護代。氏綱を擁して鎌倉府と抗争。足利高氏(尊氏)の義兄。1338年美濃「青野原の合戦」での北畠顕家との対戦に先陣を勤める。越後国守護代。82歳。
宇都宮基綱 (1350~1380)下野守。氏綱の息。細川頼元の娘婿。従兄弟に氏家。下野国の有力者・小山義政と抗争。公方・足利氏満の許可で小山氏を攻撃するが敗北し戦死。息に満綱。
宇都宮満綱 (1376~1407)(細川)。基綱の息。母は細川頼元の娘。1380年父の死により家督。「小山義政の乱」後は結城氏が国主となる。1399年公方・足利満兼により「関東八屋形」の一家に認定される。娘婿に武茂(宇都宮)持綱。跡職を持綱が継承。
⇔宇都宮持綱 (1396~1423)(武茂持綱)・常陸介。上総守護。武茂綱家の息。「京都扶持衆」。1416年「上杉禅秀の乱」に参戦。公方:足利持氏へ反乱し鎌倉占領。1417年「世谷原の合戦」に敗北。降伏するが、1422年「小栗満重の乱」に加担し足利持氏に反乱。1423年持氏の命で一門の塩谷駿河守に討たれる。娘婿に芳賀成高。息に等綱、(芳賀)成高。娘婿に芦名盛詮。
宇都宮家綱 (*~1441)宇都宮庶流家。関東公方・足利持氏が擁立し宇都宮惣領。1440年「結城合戦」に上杉清方軍10万兵に攻囲される。1441年幕府方に敗北し戦死。
宇都宮等綱 (1420~1460)(武茂)・下野守。小山満泰の娘婿。那須氏資の娘婿。篠川公方・足利満直に養育される。「永享の乱」に公方:持氏死後復帰。1450年「江ノ島合戦」に古河公方:足利成氏を救援。1454年幕府軍として足利成氏を攻撃「享徳の乱」。小山持政と抗争。1456年那須資持に敗北し成氏に臣従。古河公方・成氏により宇都宮城から奥州に追放される。41歳。義兄弟に芳賀成高。
宇都宮明綱 (1443~1463)(小山・武茂)・下野守。等綱の息。父とともに古河公方・足利成氏に反抗。のち成氏に降伏臣従。跡職を(芳賀・武茂)正綱が継承する。21歳。
↑宇都宮正綱 (1447~1477)(芳賀正綱)・武茂・六郎・下野守。芳賀成高(高成)の息。母は宇都宮持綱の娘。上杉房顕の娘婿。1463年宇都宮家継承。「享徳の乱」に公方・足利成氏方、1477年上野国で陣没。弟に高益。宇都宮明綱の跡職を相続。息に成綱、(芳賀)興綱、(武茂)兼綱、(塩谷)孝綱。息に忠綱。<武茂氏は平ノ将門と関わりの深い将、武蔵武茂と何か関係あるのでしょうか。>
⇔宇都宮成綱 (1468~1516)弥三郎・下野守。正綱の息。母は佐竹義親の娘。弟に(芳賀)興綱、(武茂)兼綱、(塩谷)孝綱。父の死により家督。武茂六郎と家督争い。叔父・芳賀高益の後援で反乱鎮圧。「永正の乱」に足利高基を擁し、古河公方・政氏と抗争。重臣・芳賀景高と対立。1512年その息・芳賀高勝を誅殺「宇都宮錯乱」。1514年佐竹義舜・岩城・那須連合軍と抗争。結城政朝の後援で撃退。息に忠綱、(落合)業親。娘婿に足利高基、結城政朝。宇都宮城主。49歳。
▽壬生綱重 (*)宇都宮家老。宇都宮成綱の家老。1512年芳賀景高・高勝親子を一掃し、1514年残党を鎮圧。主家を安定に導く。
▽芳賀高孝 (*)宇都宮家家老。芳賀高勝の跡職を継承。
宇都宮忠綱 (1497~1527)成綱の息。1523年鹿沼に進出し皆川氏と抗争し、皆川宗成を討つ。小山・結城氏の連合軍の宇都宮侵攻に撤退。1526年結城氏と結んだ叔父・芳賀興綱により、宇都宮城を奪取される。鹿沼城主の壬生綱房を頼る。31歳。
▽壬生綱房 (*)宇都宮家老。1523年皆川攻めに反対。
▽芳賀高経 (1497~1541)景高の息。高勝の弟。兄の死により、家督を宇都宮興綱に奪われる。皆川氏と結び宇都宮家を離反。1541年宇都宮俊綱(尚綱)により討たれる。息に高照、高継。
宇都宮興綱 (1475~1536)芳賀興綱。正綱の息。母は上杉房顕の娘。1526年宇都宮忠綱から宇都宮城と宇都宮家督を簒奪する。芳賀高経の支持を得られず隠居。息に宇都宮俊綱(尚綱)。真岡城主。
宇都宮俊綱 (*)1537年芳賀高経と抗争。那須政資、高資親子の抗争に政資を後援。高資を後援する結城政勝、皆川成勝、小山高朝と抗争。息に広綱。孫に国綱、(結城)朝勝、芳賀高武(時綱)。
長沼氏・皆川氏
下野・陸奥・美濃・美作・武蔵・淡路守護家(結城氏一門)
長沼秀行 (*)越前権守。宗秀の息。弟に宗親。息に秀直、宗綱、宗干。
↑長沼秀直 (*)淡路守。息に義秀。秀行の息。陸奥国会津南山長江庄に所領。長沼惣領家。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。息に高秀(義秀?)、養子に盛秀。従兄弟に高宗、顕宗。
長沼義秀 (*)淡路守。足利持氏家臣。1416~1417年「上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」鎮圧に軍功。
長沼満秀 (*)淡路守。
長沼憲秀 (*)淡路守。
長沼秀光 (*)紀伊守。
長沼秀宗 (*)淡路守。足利持氏から離反、「永享の乱」に篠川御所足利満直に従軍する。「結城合戦」に幕府軍。
長沼氏秀 (*)会津南部を芦名氏の圧迫で放棄。下野皆川を根拠地とする。
[下野、別流の皆川宗経系の跡職を相続するか。]
長沼宗成 (*)皆川宗成・宮内少輔。1523年宇都宮忠綱と抗争。
▽皆川成明 (*)宗成の弟。1523年宇都宮忠綱と抗争。
皆川成勝 (*)山城守。宗成の息。那須政資、高資親子の抗争に結城政勝、小山高朝と結び高資を後援、政資を後援する宇都宮家と抗争。
皆川俊宗 (*)山城守。
皆川広照 (*)山城守。
[上野守護大名・関東管領職(兼武蔵守護)と連動] 文明の頃(1469~1487)
山内上杉家の支配地。(山内上杉憲顕(鎌倉山内発祥):山内家は上野・越後・伊豆守護)
⇔上杉憲房 〈1336-*〉(*~1336)兵庫頭・蔵人・上野守護。足利尊氏・直義兄弟の叔父。娘婿に高師泰。
⇔上杉憲顕 〈1337-1368〉(1306~1368)民部大輔・入道道昌。関東執事兼任。山内家始祖。足利尊氏の次男・基氏が古河公方となり、その執事として関東管領職。以降山内家は上野・武蔵・伊豆に勢力を張る。
上杉憲春 〈1371-1378〉(*~1379)関東管領職兼任。上杉憲顕の息。上杉能憲の弟。1368年兄・能憲に従い新田義宗:脇屋義治の挙兵を鎮圧。1377年兄の跡を受け関東管領職に就任。関東管領・足利氏満を補佐する。のち氏満が将軍義満に謀反を懐いた際、切腹しこれを諫死する。足利氏満に諫死。
上杉能憲 〈*-1378〉(1333~1378)兵部少輔・入道道*。関東管領職兼任。武蔵・伊豆守護兼任。上杉憲顕の息。上杉重能の養子。1350年「観応の擾乱」に足利直義方、当時17歳。常陸で挙兵し高ノ師冬を討つ。関東軍を糾合し上洛、高ノ師直を討つ。高ノ師直・師冬親子を滅ぼす。将軍・足利尊氏に駿河蒲原の合戦で敗れ流罪。のち許され関東管領職(任1368~1377)。足利氏満を補佐する。
↑上杉憲方 〈1378-1394〉(1335~1394)安房守・入道道合。関東管領職兼任。伊豆守護兼任。山内上杉家。上杉能憲・憲春の弟。兄の死により家督継承。氏満を補佐する。下野国守護・小山義政の叛乱を鎮圧。上野・下野・伊豆・安房守護を兼任する。1392年病気のため隠居。60歳。
上杉憲定 〈1395-1412〉(*)右京亮・安房守・入道長基。関東管領職。伊豆守護兼任。山内上杉家。上杉憲方の息。犬懸朝宗から1405年関東管領職を継承。足利満兼の息・持氏を補佐する。京都との関係改善に努力するが、半ばにして病に倒れ1408年辞職。1412年没。<関東管領職を犬懸・上杉禅秀が継承し、憲基と激しく対立。>
山内上杉憲基 〈1416-1418〉(*)安房守。関東管領職。伊豆守護兼任。山内憲定の息。1412年に山内家家督継承。足利持氏に重用され、関東管領・上総・武蔵守護・犬懸上杉禅秀(氏憲)と対立。1416年「上杉禅秀の乱」勃発。
山内上杉憲実 〈1428-1466〉(*)山内・ 四郎・安房守・入道長棟。将軍・足利義教の代。1419年関東管領職就任。庶流の上杉定頼、上杉憲直に、足利一門の一色直廉を重用する関東(鎌倉)公方・上杉持氏と対立。1437年持氏の憲実暗殺計画発覚。1439年上杉憲実「永享の乱」大軍を率い、鎌倉に古河公方・足利持氏を討つ。乱後出家し弟・上杉(上条)清方が管領代行。上野平井城主。
⇔▽上杉清方 (1412~1446)山内上杉・十郎・兵庫頭・(上条清方)。房方の息。憲実の弟。鎌倉公方・足利持氏に重用される。1439年「永享の乱」に持氏から離反し幕府方。上杉憲実の家老職。関東管領代行。「結城合戦」鎮圧に軍功。越後上条城主。
⇔▽長尾忠政 (*)入道芳傳。山内上杉家家宰。上杉憲実の家老職。1439年「永享の乱」に足利持氏を相模海老名で捕縛。持氏の降伏を受け入れる。幕府との仲裁を依頼される。
↓▽長尾景仲 (1388~1463)左衛門尉。白井長尾。鎌倉長尾・満景の息(房景の息(次男)とも)。景守の跡職継承(婿養子)。上杉憲忠の後見人兼、執事。山内上杉家家宰。上杉憲実の家老職。上野守護代。越後守護代・長尾邦景とともに鎌倉の公方:成氏を襲撃。1454年関東管領・山内上杉(一色)憲忠が古河公方・足利成氏に殺害され、上杉房顕を擁立し古河公方方と合戦。1455年「分倍河原の合戦」に敗北。古河公方・足利成氏と抗争。息に景信、(惣社)忠景、(鎌倉)景明。武蔵守護代兼任。<白井城を築城した人物とも。改築増強か?。>
⇔山内上杉憲忠 (1433~1454)山内・(一色)。関東管領職。上杉憲実の長男。母は一色氏。1447年還俗して家督継承。憲実の次男・房顕が越後家を継承。執事・長尾景仲に後見される。1454年足利成氏に毒殺される。弟に房顕、周晟。<出家の身から還俗したため、父・憲実に不忠と義絶される。>
山内上杉房顕 (1434~1466)山内上杉憲実の息。憲忠の弟。1444年越後守護を相続。上洛し足利義政に近侍する。1454年兄の死により、上杉持朝:長尾景春に支持され関東管領職。1463年家宰・長尾景仲が死去し以降勢力を失う。1466年五十子にて陣没。越後上杉房定の息・顕定が跡職。上野平井城主。
関東の大名・豪族の軍団 [関東管領執事・長尾]
「観応の擾乱」に、長尾左衛門尉が直義方の桃井直常軍の先陣を務めるが、宇都宮氏綱の与力・氏家周綱に敗北。直義方総崩れの原因となる。
長尾景忠 (*)新五郎・左衛門尉。相模上杉家執事・景為の息。景能の孫。関東管領・上杉憲顕の家臣。越後守護代。1343年「観応の擾乱」に直義方。1352年上杉憲顕に従い南朝に属す。のち憲顕とともに北朝に転ずる。息に(白井)清景、(惣社)忠房、(鎌倉)景直、為村、景泰。
長尾清景 (*)孫四郎・左衛門尉。白井長尾。景忠の息(景行の息とも)。兄弟に(惣社)忠房、(鎌倉)景直、為村、景泰。1347年新田方の禰智清政、仁科景治の軍団に「沼川の合戦で敗北」。孫に長尾景仲。娘婿に鎌倉長尾房景。上野国群馬郡、白井城主。
長尾景守 (*)彦四郎。白井長尾。上野守護代。清景の息。鎌倉長尾景仲を婿養子に迎える。
⇔長尾氏春 (*~1416)景雄。千秋(上総)長尾氏。長尾藤明の息(甥とも)。犬懸上杉家臣、武蔵守護代。1416年「上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」足利持氏に反乱し鎌倉占領。1417年「世谷原の合戦」に敗北。息に景広。
↑長尾景仲 (1388~1463)左衛門尉。白井長尾。鎌倉長尾・満景の息(房景の息(次男)とも)。景守の跡職継承(婿養子)。上杉憲忠の後見人兼、執事。山内上杉家家宰。上杉憲実の家老職。上野守護代。越後守護代・長尾邦景とともに鎌倉の成氏を襲撃。1454年関東管領・山内上杉憲忠が古河公方・足利成氏に殺害され、上杉房顕を擁立し古河公方方と合戦。1455年「分倍河原の合戦」に敗北。古河公方・足利成氏と抗争。息に景信、(惣社)忠景、(鎌倉)景明。武蔵守護代兼任。<白井城を築城した人物とも。改築増強か?。>
長尾景信 (*~1473)孫四郎・左衛門尉。景仲の息。山内上杉家の家宰。太田道灌と協力し、古河公方:足利成氏との戦いを優勢に進める。息に景春。<戦国時代、上杉謙信一族に同名の景信あり。>
↑▽長尾景春 (1443~1514)孫四郎・四郎左衛門・左衛門尉。白井長尾。景信の息。叔父に忠景、景明。1476年叔父・忠景が山内上杉家家宰を継承したため嫡流から外れる。主・山内上杉顕定と対立し、1473年「長尾景春の乱」を起す。1477年上野国「塩売原の合戦」扇谷上杉家宰・太田道灌が、長尾景春を後援する古川公方足利成氏を討つ為に出陣。古河公方側に長尾景春:越後・長尾為景:結城氏:那須氏が集結。睨み合いのまま終戦。1488年古河公方・足利成氏と結び反乱。扇谷上杉家家宰・太田道灌と抗争。道灌死後は伊勢長時と同盟し山内上杉家と闘争。
長尾景英 (*~1527)孫四郎・四郎左衛門尉・左衛門尉。白井長尾。景春の息。越後の長尾為景と同盟し、関東の上杉軍と抗争。息に景誠。
長尾景誠 (*~1528)孫四郎。白井長尾。景英の息。息に憲景。孫に輝景。
(上野守護代家・足利長尾)
のち由良家に吸収される。
長尾景直 (*)新五郎。足利長尾氏。上杉家執事・長尾景忠の息。
長尾景英 (*)新五郎。鎌倉長尾氏。景直の息。1408年家督。上野守護代。
長尾房景 (*~1425*)新五郎。鎌倉長尾氏。景英の息。
長尾実景 (*~1454)新五郎・但馬守。鎌倉長尾氏。房景の跡職。景直の息・長尾満景の息。息に景人。
長尾景人 (*~1472)新五郎・但馬守。鎌倉長尾氏。上野守護代。1454年家督。
長尾定景 (*~1486*)新五郎・但馬守。鎌倉長尾氏。景人の息。
長尾景長 (*~1528)新五郎・但馬守。鎌倉長尾氏。景人の息。息に憲長。孫に景長(当長)。
(惣社長尾)
長尾忠房 (*~1368)孫三郎・尾張守。惣社長尾氏。
長尾忠綱 (*~1395)孫六。忠房の息。惣社長尾氏。
長尾忠政 (*~1450)孫太郎・尾張守・修理亮。忠綱の息。惣社長尾氏。
長尾景棟 (*~1478)尾張守・修理亮。忠政の息。惣社長尾氏。
長尾忠景 (*~1501)尾張守・修理亮。惣社長尾氏。
長尾顕忠 (*~1509)孫五郎・尾張守・修理亮。惣社長尾氏。
長尾顕方 (*~1525*)孫五郎・尾張守。忠景の息・景致の息。惣社長尾氏。
長尾顕景 (*)左衛門大夫。高津長尾定明の息。惣社長尾氏。息に景孝。孫に景総。
長尾景恒 (*)景廉・景春。景忠の弟。越後守護代。「観応の擾乱」に直義方。1352年上杉憲顕に従い南朝に属す。のち憲顕とともに北朝に転ずる。息・新左衛門尉は小国氏との抗争で戦死。息に新左衛門、(栖吉)景春、(三条)高景。
長尾高景 (*~1389)筑前守。越後守護代。蒲原代官。「観応の擾乱」に直義方。1352年上杉憲顕に従い南朝に属す。のち憲顕とともに北朝に転ずる。関東管領・上杉憲方の息・上杉房方(越後守護)の家臣。1389年佐渡にて戦死。越後三条城主。
長尾邦景 (*)越後守護代。守護・上杉房朝の家臣。1389年父・高景の戦死により家督。1423年「応永の乱」に足利持氏方、のち転じて将軍・足利義教方。1441年「結城合戦」に幕府軍として出陣。義教の横死により失脚。越後守護・上杉房定と対立。長尾景仲とともに鎌倉の公方:成氏を襲撃。敗戦により自害。
▽長尾景房 (*)邦景の弟。息に頼景。
⇔長尾実景 (*)越後守護代。関東管領・上杉憲実に従う。「永享の乱」に越後軍を率いて関東公方・足利持氏を討伐。足利持氏の遺児を捕縛する軍功。足利義教の側近となり京都代官職。義教の横死により失脚。越後守護・上杉房定と対立。長尾景仲とともに鎌倉の成氏を襲撃。敗戦により信濃に落ちる。1453年「越後乱入」。主・上杉房定の越中・越後軍に敗北。1466年将軍・足利義政の命で実景残党狩りが行われる。
▽色部重長 (*)揚北衆。1441年「結城合戦」に長尾実景に従い出陣。
長尾頼景 (*)信濃守。越後守護代。越後守護・上杉房定の側近。景房の息。主に反抗した実景の跡職を相続。「享徳の乱」に上杉房定に従い山内上杉軍の中核。公方・足利成氏と抗争する。息に重景。
長尾重景 (*~1482)越後守護代。越後守護・上杉房定の側近。頼景の息。「享徳の乱」に上杉房定に従い山内上杉軍の中核。公方・足利成氏と抗争する。1466年関東管領・上杉房顕が死去。1467年房定の息・顕定が関東管領となり、関東公方・足利成氏と堀越公方・足利政知の抗争を仲裁。
長尾能景 (*~1506)越後守護代。1494年越後守護・上杉房定の死去により、その息・上杉房能に出仕。1506年一揆討伐の越中遠征に神保慶宗に破れ戦死。
⇔長尾為景 (*)越後守護代。戦国大名。父の死により家督。五十嵐・大須賀氏を討伐。1477年上野国「塩売原の合戦」扇谷上杉家宰・太田道灌が、長尾景春を後援する古川公方足利成氏を討つ為に出陣。古河公方側に長尾景春:越後・長尾為景:結城氏:那須氏が集結。睨み合いのまま終戦。「永正の乱」で房能の養子・(上条)定実を擁立して房能を討つ。中条氏と結び、本庄・色部氏と抗争。房能の兄・山内上杉顕定を撃退。上杉謙信の家臣団と軍団
▽上田長尾房長 (*)坂戸城主。一時山内顕定に従い、のち為景方に転じ、顕定の退路を断つ。関東管領・上杉顕定は自害。
足利「関東(鎌倉)公方」歴代
足利尊氏将軍就任からの武将(1338~1358)
<在職期間>
<鎌倉公方>
足利基氏 <鎌倉公方1349~1367>(1340~1367)亀若丸・左馬頭・左兵衛督・入道道折・鎌倉公方・入間川殿。尊氏の息。母は北条(赤橋)久時の娘。1349年兄・足利義詮の上洛により、関東公方として鎌倉に下向。高ノ師冬・上杉憲顕を執事とする。1350年「観応の擾乱」に上杉憲顕が新田義興・義宗と結び反乱。「武蔵野の合戦」に撃破。畠山国清を執事とする。1358年新田義興を謀殺し鎮圧。1363年専横する畠山国清を罷免。上杉憲顕を再び執事とし関東管領にする。「宇都宮氏綱・芳賀高名の乱」を鎮圧。鎌倉府10カ国を平定する。病没。28歳。息に足利氏満。
<関東(鎌倉)公方>→相模国を参照下さい。
↓ 東上野、下総、下野を支配し山内上杉氏と対立。
足利氏満 <1367~1398>(1359~1398)左兵衛督・入道道全。足利基氏の息。足利基氏の息。1378年将軍・足利義満打倒の野心を持つ。執事・上杉憲春の諫死により自粛。「明徳の乱」の後、奥羽に勢力を伸ばす。
足利満兼 <1398~1409>(1378~1409)左馬頭・左兵衛督・入道道安。足利氏満の息。1399年「大内義弘の乱」に呼応し上洛を志す。関東管領・上杉憲定により阻止される。弟・足利満貞を陸奥笹川に送り、満直を奥羽稲川に派遣。奥羽支配に務めるが、伊達政宗が足利義満に通じて反抗。上杉氏憲を討伐に派遣。
<鎌倉公方>
将軍家と対立する
鎌倉を拠点に東国経営。
足利持氏 <1409~1439>(1398~1439)左兵衛督・入道道純。鎌倉公方。満兼の息。1416年「上杉禅秀の乱」勃発。「上杉禅秀の乱」鎮圧後に関東に勢力を張る。幕府に対抗姿勢。1438年関東管領・山内上杉憲実を排斥するが、駿河守護・今川範忠を中核とする室町幕府軍により「永享の乱」敗北。武蔵金沢称名寺に蟄居するが、将軍・足利義教の命で自害。息に足利義久(賢王丸)、足利成氏。
▽一色直廉 (*~1439)直兼。足利持氏の側近。関東管領・山内上杉憲実に匹敵する軍事的旗頭。1438年関東管領・上杉憲実を排斥する。
▽上杉定頼 (*~1439)足利持氏の側近。1438年関東管領・山内上杉憲実を排斥する。
▽上杉憲直 (*~1439)足利持氏の側近。1438年関東管領・山内上杉憲実を排斥する。
<古河公方>
下総国古河を本拠。子孫は後北条氏傘下。
のちに喜連川氏。
⇔足利成氏 <1439~1455><古河公方><1455~1497>(1438~1497)左馬頭・左兵衛督。足利持氏の息(4男)。初代古河公方。1441年父・足利持氏の代に将軍・足利義教に反抗し「結城合戦」で捕縛され京都に送られる。1447年将軍・足利義教の死により開放され、1448年鎌倉に戻る。成氏は許されて家督。1454年関東管領・足利憲忠を謀殺。1455年下総古河城に入城。上杉房顕との武蔵国「分倍河原の合戦」で勝利。幕府軍・今川範忠に敗北し鎌倉を失う。堀越公方・足利政知と抗争「享徳の大乱」。1477年幕府と和睦。1477年上野国「塩売原の合戦」扇谷上杉家宰・太田道灌が、長尾景春を後援する古川公方・足利成氏を討つ為に出陣。古河公方側に長尾景春、越後・長尾為景、結城、那須氏が集結。睨み合いのまま終戦。
関東公方家の再興。
新生:古河公方の家臣団と軍団
▽結城成朝 (*)下野国守護家。兄:長朝に勝利し家督。13代当主。多賀谷氏家の弟:多賀谷朝経に討たれる。
▼結城氏広 (1451~1481)長朝の息。小田持家の娘婿。古河公方:足利成氏に出仕。多賀谷朝経に擁立され14代当主。1455年「享徳の乱」に那須資実、千葉孝胤とともに公方方として管領軍と抗争。息に政朝。
那須資実 (*~1494)下那須家の那須資持の息。兄弟に興野持隆。上那須家の那須明資の娘婿。白河結城直朝の仲介で上那須家と和睦。1455年「享徳の乱」に結城氏広、千葉孝胤とともに公方方として管領軍と抗争。息に資房。
▽里見義実 (*)安房国。
▽印東* (*)式部。下総国。
▽武田信長 (*)上総国真里谷武田氏。甲斐武田氏の分流。上総武田氏の初代。<持氏とは敵対するが、成氏には忠節を尽くしている。>
▽千葉輔胤 (1421~1492)岩橋輔胤。1456年馬加康胤の跡職を相続。本佐倉城を築城する。1455年「享徳の乱」に那須資実、結城氏広とともに公方方として管領軍と抗争。息に孝胤。
▼千葉孝胤 (*~1521)輔胤の息。1495年家臣:粟飯原氏に所領安堵。1471年頃に跡職を相続。息に勝胤。
<古河公方 二代目>
⇔足利政氏 <1497~1512*1516>(1466~1531)左馬頭・入道道長。古河公方二代。足利成氏の息。1477年父が幕府と和睦。扇谷上杉定正に擁立され、山内顕定と争う。1496年山内顕定と結んで扇谷朝良と争う。1497年父の死により家督。1505年山内・扇谷の両上杉家と友好関係を築く。伊勢長氏と抗争。1512年息の高基と対立し、政氏方に小山、佐竹、岩城、佐野家。小山政長を頼り下野小山に追放される。下野祇園城から武蔵岩槻城に入る。
▽山内(足利)上杉顕実 《1510-1512》(*~1515)古河足利・四郎。戦国大名。関東管領職。古河公方・足利成氏の息。山内上杉顕定の養子。足利政氏の兄弟。1510年義父の死により家督を継承するが、1512年同じ養子の上杉憲房と対立。憲房方の横瀬景繁・長尾景長に敗北する。古河に逃亡し死去。武蔵鉢形城主。
<古河公方 三代目>
⇔足利高基 <1512*1516~1535>(*~1535)左兵衛佐・高氏。古河公方三代。足利政氏の息。宇都宮成綱の娘婿。父と対立。1506年宇都宮に逃走。1509年父と和睦。伊勢長氏の計略で再び父と対立。高基方に宇都宮、結城、小田家。1512年に父を下野小山に追放する。越後にて下克上を起こした長尾為景を承認。1521年北条家と同盟。嫡男・晴氏の室に北条氏綱娘を迎える。古河城主。
▽山内上杉憲寛 (*)高基の息。山内上杉憲房の養子。関東管領。越後にて下克上を起こした。長尾為景を承認。
<古河公方 四代目>
⇔▽足利晴氏 <1535~1552>(1508~1560)古河公方・亀王丸・左兵衛督。足利高基の息。北条氏綱の娘婿。上総国、古河城主。小弓御所・足利義明との対立から北条家と同盟。1538年「第一次国府台の合戦」に参戦。里見・太田軍を破り足利義明を滅ぼす。後、上杉憲政と結び「河越城攻囲」に参加。敗れ家督を義氏に譲渡する。下総国関宿城に幽閉され没する。53歳。息に藤氏、義氏。
▽足利義氏 (*)右兵衛佐・左馬頭。晴氏の息(次男)。北条氏康の娘婿。
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