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室町幕府前期 守護大名 その1 北陸・東海(北陸道・東海道)・東近畿地方

能登、越中、加賀、越前、飛騨、美濃、若狭、尾張、三河、遠江、駿河の守護

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[能登守護大名] 〈在任期間〉


吉見頼顕 〈1336-1337〉源・弥三郎・右馬助。源ノ範頼の子孫。能登本家。石見西部に分国領地を持つ。<分家の頼行が石見国に下り、二代・頼直が1333年隠岐を脱出し船上山で挙兵した後醍護天皇の綸旨を受け、小山城主・高津長幸とともに長門探題を襲撃し北条時直を敗走させる。四代・弘信は足利直冬、大内義弘に従い、石見吉見家は本家の能登吉見から独立する。>

↓吉見頼隆 〈1337-1346〉源・七郎・三河守・大蔵大輔。源ノ範頼の子孫。能登吉見本家。吉見頼宗の息。氏頼の父。1336年から越中守護を兼任。

▽飯川* (*)吉見氏家老。能登守護代家。

⇔桃井義盛 〈1349-1351〉(*)兵部大夫・兵部大輔・布川・近作。桃井惣領家。新田党。桃井直常の従兄弟。桃井尚義の息。1336年高氏西国落ちに、安芸を守備。1337~1338年但馬守護。新田義貞に従い越前に下向。名越時兼を討伐し越中守護。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派。<桃井直信と、事績が混同されているか・・。1338年父・尚義、兄・義通とともに「藤島の合戦」に戦死か。もしくは、父・兄と袂を分かち家名存続のため北朝に降るか?。>
 
吉見氏頼 〈1352-1379〉源・三郎・三河守・右馬頭・掃部助・大蔵大輔・式部大夫・入道道源。源ノ範頼の子孫。能登吉見本家。吉見頼隆の息。北陸の北朝方。南朝方の桃井直常・直信と抗争。「観応の擾乱」に尊氏派。1348年頃父の跡職で能登守護。1352~1379年頃に再び能登守護。1369年加賀表にて南朝方の桃井直和が富樫城を攻囲した際、得田章房を派遣。桃井軍を破る。1370年今川貞世にかわり幕府引付頭人。

▽得田章房 (*)吉見氏頼家臣。1369年加賀表にて南朝方の桃井直和が富樫城を攻囲した際、富樫昌家救援に出動。桃井軍を破る。

⇔畠山基国 〈1391-1406〉(1352~1406)右兵衛督・右衛門佐・入道徳元。尾張・越中守護兼任。幕府管領職。畠山義深の息。山城・河内・能登・越中守護。1391年山名氏討伐の「明徳の乱」に武功。1398年管領職就任。1399年「応永の乱」に軍功。55歳。<畠山家から初の管領職。>

畠山満則 〈1406-1432〉(*~1432)修理大夫・能登守・満慶・入道道祐。能登・河内・越中守護兼任。畠山基国の息。兄に満家。三代将軍・義満に勘気により満家が蟄居。家督を継承する。義満の死後、満家に家督返上。1408年兄から能登一国を与えられる。四代将軍・義持と対立し足利義嗣を支援。義持により蟄居。息に義忠。

<空位:1432~1478>

畠山義忠 〈1432-1478〉(*~1432)左馬助・阿波守・修理大夫・入道賢良。畠山満則の息。息に義有。1437*1440年義有が戦死。孫の義統を後見。惣領家の家督争いに河内・畠山義就を後援。1467年「応仁の乱」に西軍。東軍の加賀・富樫家と抗争。加賀に侵攻する。

↓畠山義統 〈1478-1497〉(1437~1497)左衛門佐。畠山義有の息。1440年父の死により家督。義忠により後見される。能登守護職。将軍御相番衆。1467年「応仁の乱」に西軍。惣領・畠山義就を後援。細川勝元、畠山政長と抗争。1479年越後守護・上杉房定と縁組し同盟。1487年加賀一向一揆に富樫政親を後援。1490年能登一揆と抗争。越後守護代・長尾能景と同盟し越中一揆と抗争。一揆を後援する細川政元と対立。弟に政国。息に義元、慶致。

▽隠岐統朝 (*)藤四郎・藤兵衛・新左衛門尉・豊前守。畠山義統の側近。1500年守護代・遊佐統秀の謀反により主・義元とともに越後落ち。
畠山義元 〈1497-1515〉(*~1515)二郎。畠山義統の息。1497年父の死により家督。越後守護代・長尾為景と同盟。弟に畠山義致。1500年家臣・遊佐統秀の謀反により越後落ち。慶致が擁立される。1508年足利義稙の将軍復帰により義稙派の義元が復帰し上洛。弟の息・義総を養子とする。1513年能登国での家臣の反乱を、義総とともに鎮圧。

▽遊佐統秀 (*)美作守。遊佐忠光の息。能登守護代家。能登畠山家臣。主君・義元を追放。

畠山慶致 <1500-1508>(*~1526)弥次郎・左衛門佐。畠山義統の息。1500年兄・義元が家臣の遊佐統秀により追放され、家督相続。1508年足利義稙の将軍復帰により義稙派の義元が復帰。息の義総を兄の養子とする。

▽畠山義総 〈1515-1537〉(1491~1545)左衛門佐。能登守護。畠山義致(徳宗)の息。将軍・足利義稙の臣。1511年に叔父・義元とともに上京。一向一揆と国人衆を鎮圧に下向。1515年義元の死により家督。1519年越中守護・畠山尚順の要請で越中出征。神保慶宗に敗北。越後守護代・長尾晴景と同盟。1532年加賀一向一揆の内紛に、越前の朝倉宗滴の出陣に呼応し加賀出征。近江守護・六角定頼の息・六角義賢は娘婿。弟に畠山駿河守。息に義続。

▽温井孝宗 (*~1531)兵庫助。加賀の一向一揆の内紛に介入し、畠山家俊を大将に加賀出征。大一揆軍に敗北し戦死。

畠山義続 〈1543-1556〉(*~1590)左衛門佐・入道悳祐。能登守護。
畠山義総の息。1545年家督継承。叔父・畠山駿河守を討ち家中統一。1550年内紛により七尾城に籠城。遊佐続光、遊佐宗円、平総知、三宅総広、伊丹続堅、温井紹春(総貞)、長続連の七人の合議制。遊佐続光の反乱を「大槻・一宮の合戦」に破る。1557年息・義綱を後見。1566年孫・義慶を擁立した重臣により近江に追放される。息に義綱、義春(上条政繁)。

▽温井総貞 (*~1555)兵庫助・備中守・入道紹春。温井孝宗の息。畠山義総に重用される。遊佐続光を追い重臣筆頭。義綱により暗殺されるとも。

▽遊佐続光 (*~1582)美作守。遊佐総光の息。1550年温井総貞と抗争。

畠山義綱 〈1557-1573〉(*~1593)修理大夫・義胤。畠山義続の息。六角義賢の娘婿。能登守護。専横の振舞の重臣・温井紹春(総貞)を討つ。温井勢の攻勢で1555~58年にかけて七尾籠城。家老・遊佐続光、飯川光誠、長続連の協力で鎮圧。1566年国内の政情不安により足利義昭の後援要請に応ぜられず。1566年息・義慶を擁立した重臣により近江に追放される。1568年能登に挙兵するが七尾城を回復できず。近江にて隠居。息に義慶、義隆。

▽飯川光誠 (*)新次郎・主計助・大炊助・若狭守・入道宗玄。畠山義綱の側近。遊佐続光、長続連により主・義綱とともに近江に追放される。

▽八代俊盛 (*~1569)安芸守。越中氷見城主。温井氏に追われ、1557年椎名氏の支援を得て能登入国。温井氏の帰参により、1569年に反乱し戦死。

⇔▽畠山義春 (1563~1643)上杉・上条。畠山義続の息。長尾政景の娘婿。<上杉謙信の家臣団のページを参照してください。>

畠山義慶 <1566-*>(*~1574)次郎・修理大夫。畠山義綱の息。1566年遊佐続光、長続連、八代俊盛に擁立され家督継承。温井景隆、三宅長盛兄弟を赦免する。1574年遊佐・温井に毒殺される。弟・義隆が家督を継承。

⇔長 続連 (*~1577)<柴田勝家の家臣団と軍団のページを参照してください。>

畠山義隆 (1556~1576)伊賀守・義高。畠山義綱の息。義慶の弟。1574年兄の急死により家督相続。遊佐続光、温井景隆により後見される。
畠山* (1572~1577)春王丸。畠山義隆の息。父の死により家督。長続連により後見される。1577年越後上杉軍に七尾城攻囲され城中にて病死。

[越中守護大名] 〈在任期間〉

↑吉見頼隆 〈1336-1337〉源・七郎・三河守・大蔵大輔。源ノ範頼の子孫。能登吉見本家。吉見頼宗の息。氏頼の父。能登守護。1336年から越中守護を兼任。

井上俊清 〈1337-1344〉(*~1359)普門利清・左京大夫・蔵人。越中守護。「名越時有討伐」に軍功。建武政権により越中を与えられる。足利尊氏に従い越中国司・中院定清を討つ。1344年東大寺の領地を侵害し守護罷免。南朝方に属し、能登守護・吉見頼隆と抗争。1346年足利方に降伏し「観応の擾乱」に桃井直常討伐軍。再び南朝方に属し、1359年吉見氏に敗北する。

桃井直常 〈1344-1351〉(*~*1368*1370)駿河守・播磨守・刑部大輔・右馬権守・右馬頭。上野国群馬郡桃井の領主・貞頼の息。1333年新田義貞軍に従軍し鎌倉乱入。1337年北畠顕家の軍勢を追って上洛、北畠討伐に勲功。1338年若狭・越中・伊賀の守護を歴任。1341年塩治高貞の討伐に軍功。幕府引付頭人。直義派。息に直和。庄ノ城城主。

▽桃井直和 (*~1370)桃井直常の息(長男)。南朝方。1368年加賀に侵攻し、富樫昌家の富樫城を攻囲。斯波、富樫、吉見連合軍に敗北する。1370年越中に帰国し新守護・斯波義将に敗れ戦死。松根城主。

丹羽* (*)吉左衛門。桃井家重臣。加賀国境に越中一乗寺城築城。吉見頼顕軍により落城。千代ケ様城に退去。一乗寺城主。

細川頼和 〈1360-1361〉(*)左馬助。細川和氏の息。管領・清氏の弟。井上俊清の失脚により越中守護兼任。1362年兄・細川清氏の幕府離反により、若狭国に撤退。

斯波高経 (*)1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。

▽細川* (*)完草・出羽守。細川家分家。斯波家家老職。細川兵庫助と並び斯波家両大将職。1362年頃、越中守護代。<同時期に若狭守護代の細川義春は石橋斯波の家老でしょうか。>

▽二宮* (*)次郎左衛門・入道円阿。斯波家家老。信濃口から越中乱入。庄城、野尻城、鴨城、頭高城を抜く。1363年軍功を賞される感状。
<空位:1361~1367>

桃井直信 〈1367-1368〉(*~*1368)修理大夫。桃井直常の弟。足利基氏の保護を受ける。足利義詮に降伏し、1367年越中国守護。斯波義将と死闘を繰り返す。直義派。1371年飛騨口から越中乱入。幕府軍に敗北する。1368年桃井直和が富樫城を攻囲。斯波義将、富樫昌家、吉見氏頼の連合軍に敗北。

斯波義将 〈1368-1379〉(1350~1410)治部大輔・左衛門佐。高経の4男。室町幕府三管領の筆頭。吉良満貞の娘婿。

▽二宮* (*)信濃・入道是鎮。斯波家家老職。1370~1376年頃に越中新川・砺波郡司。

▽細川* (*)完草・安芸太郎。細川家分家。斯波家家老職。1379年11月越中守護代。<細川出羽の子孫でしょうか。>

⇔↑畠山基国 〈1380-1406〉右衛門佐・入道徳元。尾張・能登守護兼任。
⇔↑畠山満則 〈1406-*〉修理大夫・満慶。能登守護兼任。

⇔畠山満家 〈1408-1433〉(*)左衛門督・尾張守・入道道端。幕府管領職。畠山基国の息。山城・紀伊・河内・越中守護。1399年12月「応永の乱」に大内義弘を討つ。将軍後継者問題に足利義教を将軍職に据えた。六代将軍・義教に誅殺されそうになった一色義貫を執り成し助命する。62歳。

畠山持国 〈1433-1455〉(1398~1455)尾張守・左衛門督・徳本。入道徳元。幕府管領。畠山満家の息。弟に持永、持富。六代将軍・義教により家督を弟・持永に譲り隠居。「嘉吉の乱」直後に挙兵し持永を討伐。管領・細川持之と山城国一揆を巡り対立。息(庶子)に義就。養子の弟・持富を廃嫡するが家臣の反対により、持富の息・弥三郎を後継とする。

▽遊佐国助 (*)越中守護代。山城守護代。義就派。畠山持国の後継者争いに神保国宗と抗争。

畠山政久 (*~1459)弥三郎・義富。叔父・持国の養子。1448年従兄弟の義就が家督とされる。1454年家臣に擁立され当主となるが、八代将軍・義政の命で義就が家督相続し追放される。のち細川勝元の支援で足利義政に赦免される。

▽神保国宗 (*)備中守。畠山家家老職。越中守護代。弥三郎派。畠山持国の後継者争いに遊佐国助と抗争。放生津城落城後消息不明。

畠山義就 〈1455-1462〉(1437~1490)伊予守・右衛門佐・義夏。畠山持国の息(長男)。山城・河内・越中・紀伊守護兼任。1448年元服。1450年家督継承。1454年細川勝元に擁立された従兄弟・弥三郎(政久)が惣領職とされる。足利義政の支持で再び家督。 1460年義政の命で惣領職を弥三郎の弟・政長に奪われる。山名持豊(宗全)の執成しで足利義政の赦免を得る。1467年紀伊・越中・河内の守護を承認される。1467~1477年「応仁の乱」の西軍。(足利義尚)、山名宗全、斯波義廉、土岐成頼、一色義直と結ぶ。大内政弘の上洛で西軍が勢力挽回し、朝倉孝景とともに東軍拠点を焼き討ち。1468年山城守護職。1477年河内に帰国。細川政元、畠山政長と抗争。伊勢貞隆と三条公治の仲介で9代将軍・足利義尚に帰参。管領・細川政元の反対で入京は許されなかった。河内高屋城にて死去。息に修羅法師、義豊。養子に畠山政国。

▽遊佐就家 (*)畠山義就の家老職。国助の跡職を相続。一門の長直と抗争。就盛が継承。

畠山政長 〈1463-1465〉(*~1493)弥次郎・尾張守・弾正少弼。畠山持富の息(次男)。兄・弥三郎政久(*~1459)に代わり家督。1460年従兄弟・義就に代わり畠山惣領。山城・河内・紀伊・越中守護兼任。1466年義就の復帰で失脚。1467~1477年「応仁の乱」の東軍。足利義視(のち西軍)、斯波義敏、細川勝元と結ぶ。細川勝元とともに東軍主力。1473年足利義尚の元服とともに管領職。1488年将軍・義尚の「六角征伐」には河内・畠山義就攻めを指示される。細川家を抑え足利義稙を将軍に擁立。10代・足利義稙とともに河内の畠山義豊を討伐。1493年細川政元の「明応の政変」により新将軍に足利義澄が就任。義稙は捕縛され、政長は自害。息に尚順(尚慶)。

▽神保長誠 (*~1501)越前守・宗右衛門・孫三郎。神保国宗の跡職(息?)。畠山政長の家老。息に慶宗。1467年「応仁の乱」に細川勝元とその家臣・安富元綱と同盟。

▽遊佐長直 (*~1493)河内守。河内守護代。畠山政長の家臣。神保長誠とともに政長を擁立。1493年河内国にて畠山義就に敗北。畠山政長とともに自害。河内国若江城主。順盛、長教が継承。

<空位:1465~1474>

↑畠山義統 〈1474-1479〉左衛門佐。
↑畠山政長 〈1487-*〉左衛門督。

松原信次 (*)越中代官。1487年足利義尚の命で、越前の朝倉氏とともに、加賀高尾城主・富樫政親の救援に出動。加賀一向一揆に阻止される。

<空位:*1500~1582>

畠山尚順 (1474~1522)次郎・尾張守・尚慶。畠山政長の息。河内・紀伊・越中守護。9代将軍・足利義尚の臣。近江「六角征伐」に出陣。10代・義稙の「六角征伐」に従軍。1493年義稙に従い河内出陣。細川政元の「明応の政変」により、父・政長は自害。紀伊国に撤退し、和泉を回復。1497年畠山義豊(基家)を追い河内高屋城主。1499年「河内十七箇所の合戦」に義豊を討つ。1499年越前の将軍・義稙に呼応し「山城侵攻」。細川政元、畠山義英に敗北。紀伊に撤退。1500年離反した細川元有を岸和田城に討つ。1504年細川政元の仲介で義英と和睦。のち管領・細川政元が両畠山の勢力結集を危惧し赤沢宗益を畠山討伐に派遣。政元の横死後に義英と再び対立。細川澄元と同盟し義英の拠る嶽山城を落とす。大内義興に後援された足利義稙の上洛に、細川高国とともに参陣。河内・紀伊。越中の守護職を安堵される。河内に出陣し細川澄元の将・赤沢長経を征伐。1519年越中に養子・畠山勝王を派遣。神保慶宗に敗北。義英に敗北し勢力を失う。紀伊にて家老衆が造反し堺に落ちる。息に稙長、長経、政国。

▽神保慶宗 (*~1521)道五郎・宗右衛門尉・越前守・入道宗茂。神保長誠の息。1506年加賀一向一揆の越中乱入により長尾能景を頼る。「般若野の合戦」に長尾能景が戦死。一向一揆と和解するが、能景の息・長尾為景と抗争。主・畠山尚順とも抗争する。1519年畠山勝王・義総軍に勝利。1520年の二度目の討伐軍に敗北。息に神保長職。

▽椎名慶胤 (*)(千葉)。越中新川郡守護代家。神保慶宗と同盟し、畠山惣領家から独立。1520年長尾為景に降伏。息に椎名康胤。1557年椎名宮千代(康胤)が八代俊盛を支援し能登乱入。

▽椎名長常 (*)椎名慶胤の弟。1520年の越後長尾軍の侵攻により越後分国化。長尾為景に従い、又守護代。1543年長尾為景の死後、挙兵した神保長職と抗争する。


↓ 畠山稙長 (1504~1545)次郎・尾張守。尚順の息(嫡男)。河内・紀伊守護職兼任。1520年河内に侵攻。畠山義英、大和軍を追放。河内高屋城主。足利義稙に出仕。1522年父の死により家督。1526年上洛し12代将軍・足利義晴に出仕。義晴の命で丹波波多野氏と抗争。大和軍を率いる柳本賢治に高屋城を奪取される。1534年家老・遊佐長教により弟・長経が擁立され、家督を追われる。紀伊に落ちる。1542年河内守護に復帰。1545年急逝。弟に長経、政国。

⇔▽神保長職 <柴田勝家の家臣団と軍団のページを参照してください。>
⇔▽椎名康胤 <武田信玄の家臣団と軍団のページを参照してください。>

[加賀守護大名] 〈在任期間〉
 藤原利仁の末裔。美濃斎藤家と同族。

富樫高家 〈1336-*〉(*~1345)藤原・冨樫・富樫介。富樫泰明の息。伊勢・遠江・常陸・伊豆・近江・加賀に所領を持つ。1333年反鎌倉幕府。足利尊氏に早くから従い、1335年「中先代の乱」鎮圧軍に従軍。加賀の国人、松任、倉光、相河、狩野氏は将軍奉公衆として自治分立。<狩野氏は斯波(甲斐)に臣従して遠江に土着するか。>

▽田村教俊 (*)富樫家家臣。冨樫高家の臣。
▽山川* (*)又五郎。富樫家家臣。冨樫高家の臣。
▽山城泰信 (*)富樫家家臣。冨樫高家の臣。

富樫氏春 〈*-1357〉(*~1372)藤原・冨樫・富樫介。富樫高家の息(嫡男)。「観応の擾乱」に尊氏方。1354年越中野尻庄地頭職。富樫一門の久安、押野、額 氏を加賀に分封する。

▽額 用家 〈*-1366〉(*)藤原・冨樫・富樫。富樫家庶流。富樫氏春の家臣。富樫家家老職。加賀守護代。幼少の当主・昌家を後見。

富樫昌家 〈1372*1379-1387〉(*~1387)藤原・冨樫・竹童丸・富樫介。富樫氏春の息(嫡男)。弟に満家。細川清氏の後援で家督。富樫用家の後見で惣領職。1366年元服。在京し足利義満に近侍。のち管領・畠山氏と対立。直義派南朝方・越中桃井家と敵対。家督は弟・満家が継承。

▽英田* 〈1366-*〉(*)四郎次郎・次郎四郎。富樫家家老職。加賀守護代。富樫昌家の家臣。昌家を補佐。昌家在京中は加賀の留守居を勤める。

▽押野家嗣 (*)富樫昌家の家臣。
▽富樫量家 (*)富樫昌家の家臣。
▽額 * (*)三河守。富樫昌家の家臣。
 
⇔↓斯波義種 〈1387-1408〉民部小輔・伊予守・修理大夫・左衛門佐・入道道守。斯波高経の息。斯波義将の弟。加賀守護。1414年将軍・義持の勘気により失脚。息に斯波満種。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

⇔↓▽二宮種氏 (*)源・与一。斯波家家老職。義種家臣。1388~1414年頃加賀守護代。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

<加賀 半国守護>
⇔富樫満成 〈1418-*〉(*~1419)藤原・(久安富樫)・冨樫・富樫介。富樫家庶流。将軍・足利義持の側近。1414年加賀北半国守護。1416年「上杉禅秀の乱」に足利義嗣を捕虜とする軍功。土岐・山名氏を失脚させるが、足利義持の勘気に触れ失脚(細川満元はじめとする有力大名の逆襲により抹殺されたとも)。畠山満家により討たれる。跡職は満春が継承。<将軍側近の同僚に赤松(春日部)持貞。>

▽富樫* (*)伯耆入道。

富樫満春 <1418-*>〈1427-*〉(*~1427)藤原・冨樫・富樫介。富樫家嫡流。三代・昌家の弟・満家の息。斯波義種の失脚後、北半国守護の満成と並立し、南半国守護。1419年満成の失脚により加賀一国守護。四代将軍・足利義持、五代・義量に重用される。<富樫全盛期。畠山持国と対立。>

富樫持春 〈1427*1430-1433〉(1413~1433)藤原・冨樫・富樫介。富樫満春の息(嫡男)。1427年父の死により家督。六代将軍・足利義教の相番衆。21歳で早世。

▽山川家之 (*~1443)八郎・筑後守。富樫家家老職。加賀北半国守護代。富樫満春・持春の家臣。1441年富樫泰高を支持し、教家方と抗争。1443年管領・畠山持国襲撃計画が漏れ自害。

▽二宮* (*)信濃入道。斯波家臣。加賀南半国守護代。<斯波家家臣が土着したものか。>

富樫教家 〈1433-1444〉(*~*1459)藤原・冨樫・富樫介。富樫満春の息(次男)。1433年兄・持春の死により家督。幕府に出仕。六代将軍・義教を怖れ出奔。1441年「嘉吉の乱」により復帰。畠山持国の支持により、息・成春が惣領職。弟・泰高と対立。1442年泰高派の山川家之と抗争。

▽本折* (*)但馬・入道。富樫教家の守護復帰を後援。加賀国の豪族。1442年泰高派の山川家之と抗争。

▽額 * (*)丹後守。

富樫泰高 〈1445-1461〉藤原・慶千代・冨樫・富樫介。教家の弟。醍醐寺三宝院の僧。兄・教家の出奔により還俗して家督。細川持之の後援を得る。1441年「嘉吉の乱」により守護代・本折氏が蜂起。1442年畠山持国の管領就任によりその意向に従う。兄の息・成春を養子とする。1445年細川勝元の管領就任により教家・成春親子を越中に追う。1447年和睦し成春に北半国守護、泰高は南半国守護として分割統治。1464年成春の息・政親に家督を譲る。

▽山川* (*)仙源。富樫泰高の家老職。 加賀守護代。
▽山川* (*~1445)近江守。泰高家臣。摂津満親とともに加賀乱入。本折氏に敗れ戦死。

▽富樫泰成 (*)中務大輔・入道慈顕。泰高の弟(息とも)。1464年泰成病弱の為、政親が家督。

[加賀守護大名] その2


赤松政則 〈1458-1466〉(1455~1496)次郎・侍所所司。赤松義雅の息・時勝(性存)の息。1458年石見雅助という「嘉吉の乱」で滅亡した赤松家遺臣が南朝吉野から玉璽を奪取した功で赤松家が再興される。管領・細川政元の後見で赤松宗家の家督を四歳で継承。1467~1477年「応仁の乱」。応仁の乱では東軍に属し細川方。旧領の播磨・備前・美作を回復する。侍所所司。42歳。<細川政元の政変に、戦友・斯波義寛の降伏の仲介を果たした。>

<加賀 半国守護>
 1471~1479年朝倉敏景独立、越前にて甲斐氏と抗争。

富樫成春 〈1462-〉(*~1462)藤原・冨樫・亀童丸・富樫介。富樫教家の息。畠山持国の後援で守護。細川勝元の後援を得た泰高の復帰により、加賀を南北に分割し支配。北半国守護。管領・細川勝元により1458年北半国守護に赤松政則が任命され、守護職を解任される。のち泰高の隠居により南半国守護に復帰。息に政親。

▽本折* (*)道祖若。富樫成春の家老職。加賀守護代。
▽本折常範 (*)越前守。富樫成春の家老職。加賀守護代。
▽岩室* (*)帯刀亮。富樫成春の家臣。
▽狩野* (*)富樫成春の家臣。

富樫政親 〈1470-1488〉(1455~1488)藤原・冨樫・次郎・富樫介。富樫成春の息。1464年大叔父・泰高により家督を譲られる。1467年「応仁の乱」に東軍に所属。西軍方の弟・幸千代と家督争いを起す。1486年上洛し足利義尚に閲し、「六角高頼征伐」に従軍。当初同盟関係にあった一向一揆と次第に対立し、義尚の命で派遣された朝倉貞景は国境で敗退。1488年「高尾城の合戦」に破れ、戦死。「百姓の持ちたる国」が生まれた。

▽槻橋* (*~1488)近江守・(重能?)。加賀北半国守護代。富樫政親の近習。1488年「高尾城の合戦」に破れ、戦死。<「思いきる道ばかりなり、もののふの命よりなお名こそ推しけれ。」>

▽山川高藤 (*)加賀南半国守護代。

富樫* (*)藤原・冨樫・幸千代。富樫成春の息。富樫政親の弟。1467年「応仁の乱」に西軍。1473年甲斐敏光と結び越前乱入。

▽阿曾盛豊 (*)盛俊。富樫幸千代の家老職。額景治、狩野伊賀、小杉基久とともに幸千代を擁立。

↑富樫泰高 (*)慶千代・富樫介。
沢井* (*)彌八郎

<空位:*1505~1582>

富樫稙泰 〈1489-1505〉(*~1535)藤原・冨樫・次郎・恒泰・富樫介。泰高流。富樫慈顕の息。1531年加賀一向一揆の内紛に、小一揆方に与力。大一揆方に敗北。息に泰俊、晴貞。<孫・後藤家俊は佐久間盛政に出仕。>

富樫晴貞 (*~1570)泰縄・晴泰・晴定。稙泰の息。泰俊の弟。足利義晴の「晴」一字を与えられる。織田信長に与力し野々市城奪取。一向一揆により自害。息に晴友、輝光、豊弘、晴光。

▽本折* (*)治部少輔。晴貞家臣。
▽駒井* (*)与三郎。晴貞家臣。

<加賀 二宮氏> 甲斐氏とともに没落。
二宮* (*)内藤入道・入道道智。斯波家家老職。斯波氏頼の臣。1339年若狭国守護代。<斯波家の二宮氏が若狭内藤家と縁を結んで相続するか。>

二宮* (*)次郎左衛門・入道円阿。斯波家家老。斯波義将の臣。信濃口から越中乱入。庄城、野尻城、鴨城、頭高城を抜く。1363年軍功を賞される感状。

二宮貞家 (*)信濃守・前信濃守・定家。斯波家家老職。1362年頃の越前守護代。1366年信濃守護。1367年斯波家の京都脱出に奮戦。

二宮* (*)信濃守・信濃入道・入道是鎮。斯波家家老職。1370~1376年頃に越中新川・砺波郡司。

▽二宮氏泰 (*)式部丞・信濃守。斯波家家老職。斯波義将の臣。信濃国人の反抗により義種に代わり信濃守護代。1384~1389年頃信濃国守護代。

二宮種氏 (*)源・与一。氏泰の息。義将の弟・斯波義種家臣。1392年相国寺随兵。将軍・足利義満の「相国寺供養記」に記載される重臣。信濃守護代、与力に市河興仙(中野頼房)。1387年村上頼国、小笠原長基、高梨朝高、島津太郎が反抗。横山城を奪取される。1388~1414年頃に加賀守護代。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

▽二宮種泰 (*)源・与二。斯波満種家臣。1392年相国寺随兵。将軍・足利義満の「相国寺供養記」に記載される重臣。<源姓で上記の二宮さんと同族でしょうか。><「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

▽二宮種隆 (*)藤原・七郎。斯波満種家臣。1392年相国寺随兵。将軍・足利義満の「相国寺供養記」に記載される重臣。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

二宮* (*)越中・入道是随。斯波家家老職。1393年頃信濃国守護代。1387年村上氏と抗争。与力にに市河興仙(中野頼房)。<氏泰の息、種氏と同一人物か。>

二宮* (*)信濃守・信濃入道。元・斯波家臣。富樫家家老職。加賀南半国守護代。富樫満春と加賀を両分。<斯波家家臣が土着したものか。>

[越前守護大名] 〈在任期間〉

斯波高経 〈1336-1341〉(1304~1367)右馬頭・修理大夫・入道道朝。尾張足利家嫡流。北陸方面探題。1337年、新田義貞に勝利する。63歳で没。

▽朝倉高景 (1314~1372)彦四郎・遠江守。朝倉広景の息(次男)。斯波高経の家臣。軍功により足利尊氏から「高」の一字を賜る。1357年幕府より越前足和庄代官職。1366年足利義詮の斯波討伐に従い、息・氏景とともに主・高経を攻撃。軍功により越前の七ケ荘の地頭職。兄弟に中野小太郎、松尾宗景。息に氏景、茂景、久景、弼景。

<空位:1341~1346>

細川頼春 〈1346-1350〉(1299・*1304~1352)源九郎・蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。細川公頼の次男。1338年阿波国守護。尊氏派。越前国を巡り斯波氏と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。

↑斯波高経 〈②1352-1364〉(1304~1367)尾張足利家嫡流。北陸方面探題。1337年、新田義貞に勝利する。63歳で没。<尾張侍の越前入植。>

▽二宮貞家 (*)前信濃守。斯波家家老職。1362年頃の越前守護代。1367年斯波家の京都脱出に奮戦。

↑斯波義種 〈1365-*〉民部小輔・伊予守・修理大夫・左衛門佐・入道道守。斯波高経の息。斯波義将の弟。加賀守護<1387-1408>。1414年将軍・義持の勘気により失脚。息に斯波満種。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

畠山義深 〈1366-1379〉(1331~1379)三郎・尾張守。畠山家国の息。畠山国清の弟。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。兄・国清の関東執事就任に従い関東にて奮戦。1362年兄と袂を分かち、京都に戻る。1366年足利義詮に属し越前国守護に就任。元守護・斯波高経と抗争、高経に勝利する。のち(尾張)・能登・越中・河内・和泉・紀伊・伊豆守護を兼任。49歳。

⇔↑畠山基国 〈1379-*〉右衛門佐。

斯波義将 <1368‐1379>〈1381-1396〉(1350~1410)左衛門佐・右衛門督・入道道光。高経の4男。室町幕府三管領の筆頭。吉良満貞の娘婿。幕府管領に三度就任。細川頼之とともに三代将軍・足利義満を補佐。越前、若狭、能登、越中、遠江、信濃の守護。

▽甲斐教光 (*~1395)美濃守。斯波家執事。斯波家家老職。1383年頃、越前守護代職。娘婿に斯波義重。<下野国佐野庄の藤原氏が被官化したらしい。>

⇔斯波義教 〈1398-1418〉(1371~1418)斯波義重・左衛門佐・右(左)兵衛督・治部大輔・入道道孝。斯波義将の息。母は吉良満貞の娘。甲斐教光の娘婿。1392年足利義満に従い「相国寺供養」。1400~1418年尾張守護兼任。<尾張・越前の侍の配置転換>。遠江・加賀・信濃守護兼任。妹婿に渋川満頼。息に義淳、義郷、特有(持輔)。

⇔斯波義淳 〈1418-1433〉(1397~1434)左兵衛佐・入道道忠。斯波義教(義重)の息。弟に斯波特有。義淳の死後に家督争い勃発。尾張守護<1424-1433>。息に義郷、義豊。

▽甲斐将教 (*~1420)藤原・八郎・美濃守・入道祐徳。斯波家執事。甲斐教光の息。斯波義重の義兄弟。斯波義淳の家老。1395年越前守護代。越前・尾張・遠江守護代兼任。斯波家家老職。息(孫?)に敏光。

▽斯波持輔 (1413~1440)次郎・持有。斯波義重の息。義淳の弟。義郷と家督争いを起す。のち義郷に従い、1437年越前軍を率いて大和出陣。越智・箸尾氏と抗争。28歳。

▽大野持種 (1413~1475)斯波・孫三郎・民部少輔・修理大夫。加賀守護・斯波満種の息。母は京極氏。息に斯波義敏、義孝。父・満種が将軍・義持の勘気により高野山に出家し加賀を失う。専横の執事・甲斐常治と対立。1446年富樫泰高を後援し「加賀出征」に反対の甲斐常治と対立。反甲斐の旗頭として二宮・島田氏の支援を得る。

斯波義郷 〈1433-1436〉(1410~1436)治部大輔・左衛門佐・入道道慶。相国寺の僧。斯波義淳の息(養子とも)。吉良義尚の娘婿。還俗して斯波持輔と家督争い。将軍・義教の後援で家督。1436年事故死。息に義豊、義健。

斯波義健 〈1436-1452〉(1435~1452)千代徳丸・治部大輔・入道道寿。斯波義郷の息。1436年父・義郷の死により二歳で家督。1441年今川義忠と所領を巡り抗争。1452年落馬事故により死去。18歳。養子に持種の息・斯波義敏。

↓斯波義敏 〈1452-1460〉(1435~1508)左兵衛佐・左兵衛督。庶流、斯波持種の息。「応仁の乱」の東軍。足利義視(のち西軍)、畠山政長、細川勝元と結ぶ。斯波家執事・甲斐常治の専横に怒り、古河公方討伐の途中に、越前敦賀城を強襲するも敗北。将軍・義政は斯波義敏を追放。大内教弘の下に落ちる。幕府執事・伊勢貞親の後援を得て、斯波家を相続した斯波(渋川)義廉と抗争。弟に義孝。息に義良、寛元、義雄。

▽甲斐将久 (*~1459)藤原・美濃守・甲斐常治。甲斐将教の息。越前・遠江守護代。斯波義敏を侮り専横。斯波義敏が古河公方討伐の途中に、越前敦賀を強襲するも撃退。1458年幕府により仲裁するも応じず「越前・長禄の乱」、義敏派・堀江利真が越前に侵攻し甲斐軍を破る。息に敏光。弟に近江守*。跡職は甲斐信久が継承。

▽甲斐教衡 (*)郷衡。敦賀郡代。甲斐将久の一門(将久は兄とも)。跡職は甲斐久衡が継承。

▽堀江利真 (*~1459)石見守。朝倉家景の娘婿。朝倉敏景の義兄弟。斯波義敏に従い、1458年越前侵攻。朝倉将景とともに越前大半を占領し独立の動きを見せる。足利義政の命により甲斐敏光、朝倉敏景の連合軍派遣。斯波義敏は失脚し周防落ち。跡職は庶流の堀江景用が継承。1459年義敏方として朝倉将景とともに「足羽和田の合戦」に戦死。

⇔▽↓朝倉敏景

↓渋川義廉 〈1466-*〉斯波・ 渋川・治部大輔。山名持豊(宗全)の娘婿。 尾張守護<1461-1466>。斯波義廉に従い織田広成が尾張の軍勢を率い上洛。尾張守護<1466-1467>。1467~1477年「応仁の乱」の西軍。足利義尚(のち東軍)、畠山義就、山名宗全と結ぶ。のち足利義視を擁立。山名宗全、土岐成頼、一色義直と結ぶ。大内政弘の上洛で西軍が勢力挽回。追放した斯波義敏、斯波松王丸(義良)の親子と抗争。息に義佐、義寛。弟に義堯。

↑斯波義敏 〈②1466-1471〉(1435~1508)左兵衛佐・左兵衛督。幕府政所執事・伊勢貞親により義政の赦免を得て越前守護復帰。1467~1477年「応仁の乱」の東軍。(足利義視のち西軍)、畠山政長、細川勝元と結ぶ。斯波家を相続した斯波(渋川)義廉と抗争。尾張清洲城に入り美濃守護代・斎藤妙椿の加勢を得て、義廉・敏広と抗争。弟に義孝。息に義良、寛元、義雄。

▽斯波義良 〈1460-1461〉松王丸・治部少輔・治部大輔・左兵衛佐。義敏の息。(渋川義廉の養子?)。斯波家重臣により追放される。父・義敏とともに幕府執事・伊勢貞親の後援を得て、斯波家を相続した斯波(渋川)義廉と抗争。1467~1477年「応仁の乱」の東軍の将。尾張守護<1468-*>。跡職は斯波義達が継承。<斯波義寛と同一人物とも。>

▽甲斐敏光 (*~1481?)甲斐将久(入道常治)の息。渋川義廉を擁し、斯波義敏と抗争。1459年朝倉孝景とともに、斯波義敏の将・堀江利真と抗争。1460年朝倉孝景とともに関東出陣。1467~1477年「応仁の乱」の西軍。のち東軍に帰順。斯波義良とともに幕府に出仕。1475年遠江守護代として東海道に派遣される。1476年遠江にて今川義忠戦死。越前二宮氏とともに朝倉敏景(1481:没)を圧迫。息に信久。

▽甲斐久衡 (*)敦賀郡代。甲斐教衡の跡職を継承。
 
↑渋川義廉 〈1466-1471〉渋川・斯波・治部大輔。堀越公方・足利政知の家老・渋川義鏡の息。山名持豊(宗全)の娘婿。朝倉孝景の娘婿。追放した斯波義敏、斯波松王丸(義良)の親子と抗争。1467~1477年「応仁の乱」の西軍の将。のち足利義視を擁立。息(養子?)に義寛、義俊。弟に義堯。<のち朝倉家が渋川義廉の子(朝倉娘の子か)を擁立。鞍谷公方・斯波義俊>

▽甲斐信久 (*~1472)千喜久丸。敏光の息。越前守護代。1459年祖父・甲斐常治の跡職を継承。父が越前表で抗争中、遠江を守備。「応仁の乱」に渋川義廉に従い西軍。今川義忠と抗争。1472年越前表にて戦死か。<朝倉家の台頭により越前を失う。>

⇔↓斯波義寛 (1457~1514)(渋川・山名)。渋川義廉の息。母は山名持豊の娘。一色義直(1431~1493*)の娘婿。尾張・越前・遠江・佐渡守護。尾張守護<*-1494>。1493年「明応の政変」に細川政元と講和。娘婿に足利義澄、村上顕国。<斯波義良と同一人物とも。東軍方の武将の子孫ということか。><堀越公方と執事の渋川、今川家・北条家との関係も絡んできそうな間柄です。>

⇔↓斯波義達 (*~1521)尾張・(一色?)・武衛・右(左)兵衛佐・治部大輔・義逵・義敦・義淳・入道安心。武衛家・第13代当主。斯波義寛の息、母は一色義直の娘とも。尾張<1511-1517>・遠江守護。将軍・足利義稙の復帰により遠江守護剥奪。細川高国派・今川氏親と抗争。今川氏豊は娘婿。息に斯波義統。<足利義稙の復権により遠江喪失、義達の軍事力は尾張北四郡の守護代・織田伊勢守家を主としている。>

⇔▽斯波義俊 (*)渋川・足利。足利義満の次男・義嗣の系統「鞍谷(越前)公方」を継承。斯波義廉の息。西軍の主力。朝倉孝景と甲斐敏光が東軍に離反。のち朝倉氏により越前に迎えられる。

[戦国越前 守護大名] 
1471~1479年朝倉敏景独立、越前にて甲斐氏と抗争。

⇔↑朝倉敏景 《1471-1481》(1428~1481)朝倉孝景・日下部・小太郎・孫右衛門・弾正左衛門・栄林。家景の息。斯波氏三家老のひとり。庶流の朝倉将景と対立。越前守護・斯波義廉から独立。細川勝元から1471年越前守護職拝領。1471年内紛に乗じて守護代・甲斐将久(常治)を破り、越前を掌握。斯波氏に代わって越前守護職、一乗谷を拠点に定める。本願寺蓮如に越前吉崎の寺を寄進し同盟を結ぶ。最初の戦国大名、「朝倉孝景17箇条」を制定。黒丸城主。54歳。守護代から、守護職に上り詰めた戦国大名。

越前 堀江(斎藤)家
⇔堀江利真 (*~1459)(藤原・斎藤)・石見守。朝倉家景の娘婿。藤原利仁流。河合斎藤氏の系統。越前番田領主。朝倉敏景の義兄弟。守護・斯波義敏に従い、守護代・甲斐常治や朝倉孝景と抗争。1458年越前侵攻。朝倉将景とともに越前大半を占領し独立の動きを見せる。足利義政の命により甲斐敏光、朝倉敏景の連合軍派遣。斯波義敏は失脚し周防落ち。足羽郡和田荘の合戦で同盟者の朝倉(鳥羽)将景・景正親子とともに戦死。跡職は庶流の堀江景用が継承。

▽堀江景用 (*)七郎・石見守。堀江家庶流。景経の息。利真戦死後に家督継承。朝倉孝景と同盟し、甲斐敏光と抗争。兄弟に景利、景道、景好。息に景忠。

越前 甲斐家

▽甲斐将教 (*)斯波義淳の家老。斯波家家宰。息に将久、敏(孫?)。

⇔甲斐将久 (*~1459)藤原・美濃守・甲斐常治。甲斐将教の息。越前・遠江守護代。1441年斯波義健に代わり斯波軍を率い「関東征伐」。斯波義敏を侮り専横。斯波義敏が古河公方討伐の途中に、越前敦賀を強襲するも撃退。1458年幕府により仲裁するも応じず「越前・長禄の乱」、義敏派・堀江利真が越前に侵攻し甲斐軍を破る。息に敏光。弟に近江守*。跡職は甲斐信久が継承。

▽甲斐教衡 (*)郷衡。敦賀郡代。甲斐将久の一門(将久は兄とも)。跡職は甲斐久衡が継承。

甲斐敏光 (*)常治の息。1459年朝倉孝景とともに、斯波義敏の将・堀江利真と抗争。1460年朝倉孝景とともに関東出陣。1467~1477年「応仁の乱」の西軍。のち東軍に帰順。斯波義良とともに幕府に出仕。1475年遠江守護代として東海道に派遣される。1476年遠江にて今川義忠戦死。越前二宮氏とともに朝倉敏景(1481:没)を圧迫。息に信久。

▽甲斐久衡 (*)敦賀郡代。甲斐教衡の跡職を継承。
▽甲斐信久 (*)敏光の息。越前守護代。1459年祖父・甲斐常治の跡職を継承。<朝倉家の台頭により越前を失う。>

[飛騨守護大名] 〈在任期間〉

⇔京極高氏 〈1359-1365〉(1306~1373)佐々木高氏・佐渡大夫判官入道・判官・道誉。近江源氏。鎌倉時代から足利尊氏の信頼厚い武士。上総、近江、出雲、若狭、飛騨の守護職。足利尊氏の良き同盟者。婆沙羅大名。

⇔京極高秀 〈1372-1389〉(1338~1391)佐々木・佐渡・五郎左衛門・左衛門尉・治部少輔・大膳大夫・大蔵大夫・伊勢因幡入道。佐々木高氏の息。兄二人の戦死により京極家家督。出雲・飛騨守護、幕府侍所頭人。1345年天竜寺奉納に従軍、二番隊16人衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1361年楠木正儀ら南朝軍の京都占領に、足利義詮を近江武佐寺に迎え、反撃軍を編成し京都奪還。1379年管領・細川頼之と対立。土岐頼康と結び足利義詮に叛乱するが、赦免される。息に京極高詮、尼子高久。

⇔京極高詮 〈*-1401〉(1352~1401)佐々木・六角・四郎・兵衛尉・治部少輔・侍所所司・入道清高(浄高)。六角氏頼の養子。近江・飛騨・出雲・石見・隠岐守護。幕府侍所頭人。1377年満高の相続により六角家独立。「明徳の乱」に山名満幸を細川頼之とともに破る。

⇔京極高光 〈1401-1413〉(1375~1413)民部少輔・大膳大夫・治部少輔・入道道通。京極高詮の息。兄弟に高数。将軍・義満から義持に出仕。幕府侍所頭人。1401年父の死により家督。石見守護を失う。近江・飛騨・出雲・隠岐守護兼任。1405年出雲大社修築を松田掃部入道に命じる。「飛騨国司・姉小路尹綱の反乱」に弟・高数を派遣。息に持高、持清。

京極* 〈1413-*〉吉童子。

京極持光 〈1438-1439〉治部少輔。<持清の息・持光とは時代差あり。別人?>

京極高数 〈1439-*〉加賀守・入道道統。

⇔京極持清 〈1441-1470〉(1409~1472)中務少輔・大膳大夫・入道生勧。高光の息。「永享の乱」に足利持氏討伐の遠征軍。赤松満祐の「嘉吉の変」に京都警護、播磨遠征に従軍し軍功。叔父・高数の戦死により家督継承。侍所頭人。1467~1477年の「応仁の乱」に細川勝元方として東軍、家老・多賀高忠が東軍の総大将として軍功。西軍の六角高頼と抗争。隠岐守護兼任。兄に持重。息に勝秀、持光(政光)、政高(政経)。

1467~1477年「応仁の乱」

京極* 〈1470-1471〉孫童子丸
京極政高 〈1471-1508〉六郎・大膳大夫・政経。


飛騨国司 姉小路家


姉小路高基 (*)頼基の息。飛騨国司初代。
姉小路家綱 (*)参議・飛騨国司。頼基の息。
姉小路師言 (*)飛騨国司。家綱の息。
姉小路持言 (*)左中将・飛騨国司。師言の息。
姉小路頼時 (*)飛騨国司。飛騨姉小路家庶流。持言の跡職。息に尹綱。

姉小路尹綱 (*~1411)飛騨姉小路家庶流。頼時の息。将軍・足利義持の命で飛騨に乱入した京極高員に敗北し滅亡。息に昌家。子孫は三木良綱に家門を簒奪される。


美濃郡上 山田荘 地頭職
篠脇千葉氏 東(とう)家 

「二条流『古今伝授』の家元」
東 氏村 (*)胤行の息。時常の跡職を相続。弟に貞常。元・鎌倉幕府御家人。南朝方武将。新田義貞に従う。息に常顕。

東 常顕 (*)下野守。氏村の息。北朝武家方。美濃守護・土岐頼春に従う。1345年「天龍寺奉納」に粟飯原下総守とともに足利尊氏の先陣を勤める。

東 師氏 (*)常顕の息。息に泰村、益之。
東 益之 (*)式部少輔・下野守。師氏の息。兄に泰村。息に氏数、氏世、宗祐、(野田)常縁。

東 氏数 (*)下野守。益之の息。弟に氏世、常縁。常縁関東出兵時の篠脇城主。1467年土岐成頼の命で、斎藤妙椿が篠脇城攻略。防戦するも落城。

⇔▽野田常縁 (*~1484)左近将監・下野守。益之の息。兄・氏数の跡職を相続。足利義政に出仕。1455年下総国の千葉介胤直(のちに国府台城の実胤、自胤兄弟)と分流の馬加康胤の内紛鎮定に派遣される。下総の一族、相馬、国分、大須賀氏に参陣を求める。馬加康胤、原胤房を後援する関東公方・足利成氏と対立(馬加康胤を討ち取り帰還とも)。1467年「応仁の乱」勃発。斎藤妙椿に篠脇城を奪取される。弟子に飯尾宗祇、後土御門上皇、近衛政家、三条公敦、足利義尚。息に(頼和)、元胤、常和、盛胤。

東 元胤 (*)左近太夫・下野守。常縁の息。弟に常和、盛胤。息に常慶、尚胤。

東常慶 (*)左近太夫・下野守。元胤の息。弟に尚胤。養子に遠藤盛数。

▽東 尚胤 (*)下総守。息に(素山)胤氏。

東 常尭 (*)常慶の息。悪行により廃嫡されるという。1559年遠藤胤縁を暗殺。その弟・遠藤盛数により討たれる。

▽遠藤* (*)加賀守。東家の元家老。東遠藤家兄弟に武田家への内通を勧める。

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