室町幕府前期 守護大名 その3 四国地方(南陽道)
土佐・伊予・讃岐・阿波・淡路・紀伊・河内・和泉
[土佐守護]
〈在任期間〉 のち土佐一条家の影響力下。
⇔↓細川顕氏 〈1337-*〉(*~1352)小四郎・兵部少輔・兵部大輔・陸奥守・引付所頭人。細川頼貞の息。細川和氏の従兄弟。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。河内・和泉・讃岐守護。侍所頭人。1337年高ノ師直軍とともに上洛した北畠顕家に対抗し勝利する。のち土佐守護。1337~1352年讃岐守護。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年「観応の擾乱」に直義派。のち幕府に復帰。1352年「男山の合戦」の大将として南朝軍に勝利。その後病死。息に細川繁氏。
<不設置> 細川頼之の養子、細川基之が一時任官か?
⇔細川頼元 〈1395-1397〉(1376~1426)右馬助・右京大夫・頼基・「管領」。頼之の弟。のち養子。三代将軍・足利義満の管領。斯波義将の跡をうけ管領職。勢力を伸張して強大となった山名氏清を兄・頼之の後見の元圧迫する。山名氏清は1391年「明徳の乱」を起すが、足利義満自らの討伐軍に敗北する。1392年頼之死去により惣領。南北両朝の合体に貢献。
⇔細川満元 〈1397-1426〉〉(1378~1426)五郎・右馬助・右京大夫・入道道歓・「管領」。1412年管領職。足利義持の管領。畠山満家の跡をうけ管領職。1414年伊勢国司・北畠満雅の挙兵。足利義嗣の挙兵。1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎌倉落城。1417古河公方・足利持氏の鎌倉帰還。1418足利義持、弟・義嗣を成敗。1421年管領職辞任。息に持元、持之、持賢。義兄弟に宇都宮基綱。49歳。
<不設置>
⇔細川持之 〈1437-1442〉(1400~1442)右京大夫。満元の息。弟に持賢。兄・持元の早世により家督。1432~1442年管領。将軍・足利義教の代に管領。関東の古河公方・足利持氏を上杉憲実の手により滅ぼす。1441年「嘉吉の乱」で足利義教が暗殺され、足利義勝を後見する。1442年管領職を畠山持国に譲り、ほどなく没す。
「応仁の乱」1467~1477年。
細川勝元 〈1442-1473〉右京大夫。八代将軍・足利義政の管領。幕府第一の実力者。将軍・足利義視、斯波義敏、畠山政長と結ぶ。「応仁の乱」の東軍、16万の軍勢を率いる。息に政元。義兄弟に豊久、勝之。
<不設置>
⇔↓細川政元 (1466~1507)聡明丸・九郎・右京大夫・「半将軍」。幕府管領・丹波・摂津・土佐守護職。細川勝元の息。母は山名熙貴の娘。1473年父の死により家督。8歳で家督相続。幼少の為、典厩家・細川政国に擁立後見される。1474年山名政豊と和睦し「応仁の乱」の収束を図る。1478年足利義政の加冠で元服し管領。1479年一宮氏により丹波に拉致される。翌年帰還。1482年畠山義就討伐で摂津侵攻。1486年幕府管領職就任。丹波・摂津・山城・河内・大和・讃岐・土佐に影響力を持つ。1487年9代・足利義尚の「六角征伐」に従軍。1489年足利義尚が「六角高頼討伐」の最中に病死。日野富子・畠山政長が義視の息・義材(義稙)を擁立。1491年10代・足利義稙により近江守護。第二次「六角征伐」に安富元家を派遣。1494年伊勢貞宗と結ぶ。義稙と畠山政長の河内出陣に政変を起こし、11代将軍・足利義澄(義高)を擁立。内衆・上原(物部)元秀を派遣し畠山政長を討つ。強硬派・上原元秀の死去により将軍家は存続。1493年足利義稙は幽閉先から脱出。義稙と同盟した紀伊の畠山尚順と抗争。赤沢宗益を河内・大和平定に派遣。1499年越中に落ちていた足利義稙が山城を目指し南下。赤沢朝経、波々伯部宗量の両将を派遣し撃退する。1502年将軍・義澄とも対立。1504年摂津守護代・薬師寺元一の反乱を鎮圧。1506年河内の畠山義英、尚順を討伐。若狭の武田元信を後援して一色義有を追討。1506年将軍・義澄と伴に丹波攻略に出陣。養子の九条澄之、阿波・細川澄元の家督争い勃発。1504年「薬師寺元一の反乱」鎮圧に香西元長を派遣。1505年山科本願寺と結び河内畠山氏と抗争。1507年「丹後攻略」の陣中にて澄之派の竹田・香西元長・薬師寺長忠により暗殺される。養子に澄之、澄元、高国。42歳。
<不設置> 細川氏庶流「天竺」氏あり。
1507~政元暗殺事件「永正の錯乱」
細川管領家の家督争いを制した細川高国も、細川澄元の息・晴元の勢力に交通路を分断されて、四国の奥地には影響力が伝わらなかったか。
それとも伊予のように大内義興の勢力圏下に置かれていたのでしょうか。
土佐分郡守護
(土佐一条家)
<前関白・一条教房の都落ち、土佐幡多荘(1250年から一条私領)、中村御所。戦国大名公家三国司の一家。>
一条教房 (*)関白・左大臣。土佐一条初代。「当代一の学才」の異名をとる一条兼良の息。弟に冬良(京都一条家)。1468年「応仁の乱」に京都から避難。土佐中村に小京都を造営。
一条房家 (1475~1539)権大納言・土佐国司。土佐一条2代。関白・一条教房の息(次男)。兄に政房。土佐家を相続。京都の太政大臣・一条冬良の養子に長男・房通。息に房通、房冬、房忠、大内晴持(義房とも)。長曾我部国親を養育。
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
一条房冬 (1498~1541)左近衛大将。土佐一条3代。一条房家の息(三男)。大内義興の娘婿。1540年家老・敷地藤安を誅殺。43歳。弟に房忠。息に房基、大内義隆の養子・大内晴持(義房)。<大内晴持は弟を養子にして、更に大内家に養子に送り出すか。>
▽一条房忠 (*)一条房家の息(四男)。一条房冬の弟。息に兼頼。
一条房基 (1522~1549)右近衛大将・阿波権守。土佐一条4代。一条房冬の息。1542年津野基高を討伐。高岡郡の大平氏を攻撃。1549年自害。28歳。息に兼定。娘婿に安芸国虎、伊東義益。弟に康政、大内晴持。
▽一条康政 (*~*1575)小松谷寺。房基の弟。6歳で家督を相続した甥・一条兼定を、関白・一条房通とともに後見。<醍醐源氏の一条家諸大夫、一条家の家宰の家柄の出身ではないかとも。>
一条兼定 (1543~1585)左近衛中将・権中納言・ト゛ンハ゜ウロ。土佐一条第5代。室は伊予・宇都宮豊綱の娘。6歳で家督相続。叔父・康政が後見。1560年西園寺氏に勝利。長宗我部元親の台頭により九州豊後に追放される。大友義鎮(宗麟)の影響で切支丹に改宗。1575年四国に戻り、栗本城に入城。「四万十川の合戦」に敗北。伊予宇和島の戸島に落ちる。その後、長宗我部元親の追手により暗殺されるとも。息に一条内政。
[伊予守護]
⇔↓河野通盛 〈1350-1352〉(*~1364)対馬守・通治・入道善恵。「元寇」に活躍した河野通有の息。鎌倉幕府御家人。建武政権に与力した得能通綱が河野宗家とされる。1335年足利尊氏に従う。「湊川合戦」に奮戦し嫡流を認められる。1333~1338年、1350年に伊予守護。息に通遠、通朝、通時。湯築城を築城し城主。
⇔岩松頼有 〈1340-1341〉(*)禅師。岩松経家の弟。1336年高氏西国落ちに従軍。1340~41年伊予国守護、1351~1352年備後国守護。<新田(田島遠江守)又五郎・経政と同一人物とも。>
<細川⇔河野>
⇔細川頼春 〈1342-1343〉(1299・*1304~1352)源九郎・源蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。三河党。細川公頼の次男。足利高氏の側近旗元衆。1337年足利直義に従い北畠顕家を迎撃。1338年阿波国守護。(備後守護とも)。1342~1349年伊予国守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利直冬に属した河野通盛を討つ。足利義詮の補佐役。越前国を巡り、直義派の斯波高経と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。息に細川頼有、頼之、頼元、詮春、満之。
↑河野通盛 〈1350-1352・1354〉対馬守・通治・入道善恵。建武政権に与力した得能通綱が河野宗家とされる。1335年足利尊氏に従う。「湊川合戦」に奮戦し嫡流を認められる。1333~1338年に伊予守護。温泉郡味酒山城、浮穴郡湯並城、奈古居城を攻略し伊予を制圧。息に通遠、通朝、通時。
細川頼之 〈1354-1362〉(*~1392)(*)右馬助・武蔵守・入道常久・管領。若くして足利尊氏から管領職の逸材と期待される。三代将軍・足利義満の管領。足利幕府の全盛時代を作り出す。将軍権力の強化と有力守護を抑圧する政策を推進したため守護大名から倦厭される。やがて管領職から失脚し、新管領には穏健主義の斯波義将が迎えられる。1392年没。
↑河野通盛 〈1362-*〉(*~1364)対馬守・通治・入道善恵。息に通遠、通朝、通時。
▽河野通朝 (*~1364)遠江守。河野通盛の息。兄に壱岐守・通遠、弟に通時。1363年に家督相続。1364年細川頼之が「伊予侵攻」。桑村郡世田山城の攻防に戦死。
河野通直 〈1375-1379〉(*~1379)徳王丸・刑部少輔・讃岐守・通堯。河野通朝の息。1379年細川頼之が管領職兼任・伊予守護となり通朝嫡子・徳王丸を駆逐し伊予制圧。家老・重見通宗の後見で家督。南朝方の西園寺家、九州征西府に服従し河野家再興。幕府軍・仁木義尹を破り伊予府中を占拠。1370年新居郡・宇摩郡を制圧。南朝の伊予守護となる。1379年細川頼之の管領職追放により、幕府の伊予守護となるが、細川頼之に世田山城を攻略され自害。弟に通任。
↓河野通能 〈1380-*〉(1370~1394)亀王丸・刑部大輔・伊予守・通義・通運。河野通直の息。1379年細川頼之の奇襲による父の戦死により幕府に家督を認められる。10歳で家督。将軍・足利義満が細川家との和睦を斡旋。1394年病の為、弟・通之に家督。
<細川支配>
細川師氏 〈-1348〉(1305~1348)彦四郎・掃部助・掃部介・淡路守。三河党。細川公頼の三男。1335年足利直義に従い関東の抑えとして鎌倉に残り、北条時行と戦う。1336年四国に派遣される。幕府成立後、淡路国守護。淡路の国衆・宇原氏と抗争。伊予分郡守護。息に細川氏春。44歳。
⇔細川清氏 <->(1358~1361)<足利家執事:1358~1361>左近将監・伊予守・相模守。細川和氏の息。2代将軍義詮に執事に任命される。政敵が多く、1361年義詮により追討される立場となる。讃岐に逃れるが一族・細川頼之に討たれる。息に正氏。
⇔↓細川氏春 〈1348-〉(*~1387)法師丸・彦四郎・兵部少輔・左衛門佐。細川師氏の息。1348年淡路守護職継承。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1361年細川清氏の南朝降伏に従い、清氏とともに讃岐に上陸。清氏の死後は幕府に復帰し淡路守護。1373年河内南朝軍攻撃の大将。
細川満之 〈1389-〉(*~1406)兵部少輔。頼春の息。伊予分郡守護。細川頼之の弟。河野通義との和睦により伊予を分郡支配することとなる。宇摩・新居郡を分郡支配。1392年備中守護代。1393年備中守護。息に頼重、満久。
▽石川* (*)入道。伊予分郡守護代。細川家家臣。宇摩・新居郡を分郡支配。<三河の石川家との関連が気になるところです。細川家も三河守護の時代がありますし、もしや被官となった一族が居て、三河に流れてきたのでは・・。一色家老の石川か、細川家老の石川か、それとも元々三河に居て、両家に分裂して出仕していたのか・・。>
↑河野通能 〈*-1394〉(1370~1394)亀王丸・刑部大輔・伊予守・通義・通運。河野通直の息。細川頼之との和睦により伊予を分郡支配することとなる。1391年「明徳の乱」に遠征。1394年病死。弟に通之。
▽河野通之 〈1394-1411〉(1372~1467)六郎・対馬守。河野通直の息。通義の弟。兄の死により家督。1406年「応永の乱」に幕府軍として大内氏と抗争し軍功。1406年家督を通久に譲る。新居郡高峠城入城。宇摩・新居郡を分郡支配。1467年「応仁の乱」に戦死。子孫は予州家と呼ばれる分家に。息に通元。<伊予宇摩・新居郡の領土を実力で拡張するか。>
<空位1411-1414>
家門分裂
(嫡流・刑部大輔家)
河野通久 〈1414-1435〉(*~1435)刑部大輔・持通。通能(通義)の息。1406年叔父・河野通之の引退により家督。1435年将軍・足利義教の命に従い九州豊後の大友氏と抗争。義教の「少弐・大友追討軍」として大内氏とともに遠征、大友氏との肥後海部郡姫嶽城の戦いに戦死。河野宗家が衰退。息に教通、通生、通秋、通之。
<空位1435-1439>
河野教通 〈1439-1450〉(*~1500)九郎・刑部大輔・①通直。通久の息。1435年父の戦死により家督相続。予州家・通能(通義)の弟の子孫・通春が反乱。幕府の援軍、小早川・吉川氏の協力を得て追討。1441年将軍・義教が赤松満祐に殺害され、幕命により満祐追討軍、播磨に渡り赤松氏を掃討。1467年「応仁の乱」将軍・足利義尚、山名宗全、斯波義廉に従い西軍に与力。畠山持国と結んで東軍の大友氏と抗争。伊予湯築城主。弟に通生、刑部大輔・通秋、対馬守・通之。息に通生、通宣、通氏、通貞。
▽河野通生 (*)兵部少弼。河野教通の弟。教通の留守居。伊予守護代。1462年河野通春と結んで細川氏の伊予侵攻に対抗。大内教弘が細川勝元との対立から河野氏を後援。1465年大内政弘の重臣・内藤弘矩が湯築城を奪還。
▽河野通生 (*)河野教通の息。嫡流・刑部大輔・通宣の兄。叔父に兵部少弼・通生あり。
<河野予州家>
河野通元 (*)民部大輔。予州家。通之の息。息に通春。
▽河野通春 (*~1482)伊予守。民部大輔・通元の息。予州家当主。細川勝元と結んで惣領家の河野教通に反乱。1467年「応仁の乱」に東軍に与力。宇摩・新居郡を分郡支配。1462年四国制覇を目指す細川氏と対立し、阿波の細川成之と抗争。大内教弘が細川勝元との対立から河野氏を後援。1465年大内政弘の重臣・内藤弘矩が湯築城を奪還。1482年戦死。新居郡高峠城主。湊山城主。息に通篤。
⇔細川勝元 〈1455-*〉(1430~1473)右京大夫・管領。八代将軍・足利義政の管領。幕府第一の実力者。足利義視、斯波義敏、畠山政長と結ぶ。「応仁の乱」の東軍、16万の軍勢を率いる。1465年伊予に新開遠江守を派遣し湯築城奪取。伊予の国人・大野氏、森山氏、重見氏を従える。息に政元。
「応仁の乱」1467~1477年。
(河野嫡流・刑部大輔家)
河野通宣 〈1466-*〉刑部大輔・通宣①。教通の息。通生の弟。息に通直。<末子相続の流れがあるとすると、対馬守・通之に相当するか。>
河野通直 〈1481-*〉刑部大輔・②通直。河野通宣の息。息に通宣。<刑部大輔という官位から通秋も怪しいです。家督を相続しているのでしょうか。>
<河野予州家>
↑河野通春 〈*-1482〉(*~1482)伊予守。予州家。宗家の河野教通に反乱。1467年「応仁の乱」に東軍に与力。宇摩・新居郡を分郡支配。1482年戦死。新居郡高峠城主。
▽河野通篤 〈1482-1485〉伊予守。予州家。通春の息。息に通存。
<空位1485-1499>
河野通存 (*)六郎・伊予守。予州家。通篤の息。息に通政(晴通)、(石川)通昌、伊予守・通宣、(野島)直信。
(河野嫡流・刑部大輔家)
河野通直 〈1499-1500〉刑部大輔・③通直。河野通直の息。兄に(石川)教通、通宣、甥に通高。<河野通直が二代続く。><教通の弟・通秋が一旦家督を継いで、その後に通宣に戻すか?。>
▽河野通高 (*)兵部少弼・通生の息。弟に勝生、明生。甥に通吉(通告)。
河野通宣 〈1500-1519〉(*~1519)左京大夫・刑部大輔・通宣②。1500年父・通直の死により家督。予州河野家と抗争。通篤に湯築城を奪取されるが奪回する攻防。息に通氏、通貞。<末子相続の流れがあるとすると、通宣の跡職を相続したのは、通貞=通直に相当するか。>
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
通宣⇔通直を 繰り返し名乗ることが「正統な嫡流の証」なのかもしれません。
河野通直 〈1519-1560〉(*~1572)太郎・弾正少弼・伊予守・④通直。河野教通の息(通宣の息とも)。通直・通宣の跡職を継承。1519年父・通宣の死により家督。弟に(松末)通氏。譜代家臣・正岡氏、重見氏が離反。重臣「正岡氏の反乱」を鎮圧。細川・大内氏の勢力と抗争。実子なく、娘婿・村上通康を養子とするが家臣団の反対により失敗。一門(予州家)の河野通政(晴通)に家督を譲る。
▽河野通定 (*)河野通直の嫡男。早世。
▽村上通康 (1519~1567)来島村上・(河野)・右衛門大夫・出雲守。河野通直の娘婿。通直は村上通康を婿養子とする。来島村上水軍を率いる。1544年大内氏に敗北。1551年毛利元就に応じ「厳島の合戦」に参陣し陶氏と戦う。一条氏との「鳥坂の合戦」に戦死。村上武吉は娘婿。野間郡来島城主。
<河野予州家>
▽河野通政 (*~1544)弾正少弼・「河野晴通」。予州家。弾正少弼・通直の養子(実子とも)。予州家、通存の息。将軍・義晴より「晴」字を与えられる。通直の重臣が通直を追放し、通政を擁立。村上通康と家督を巡り抗争。のち通直と和解。1544年に病死(もしくは暗殺される)。新居郡高外木城主。<将軍・義晴に認められたので嫡流公認なのでは。>
▽▽越智安舎 (*~*1544)大三島大山祝神社神職。大祝氏。越智郡三島を支配。三島水軍を率いる。1522年大内家の安芸警固衆、仁保島の臼井水軍が襲来「大三島合戦に勝利」。1541年に小笠原中務丞を撃退「大三島合戦に勝利」。1544年降伏し大内義隆が大三島参拝。
河野通宣 (*1522~*1581)左京大夫・伊予守・通宣③。通直の息(通存の息とも)。宍戸隆家の娘婿。通政の義弟。1544年家督相続。毛利家の圧力で家督相続。毛利・小早川氏に従属する。1568年に隠居。牛福丸(伊予守・通直)が家督を相続。湯築城主。
▽河野通直 (1564~1585*1587)牛福丸・伊予守・⑤通直。通宣の息(養子で通告(又は通吉)の息とも)。母は宍戸隆家の娘。1568年に家督。毛利家に従属。長宗我部氏の伊予侵攻に抗戦。毛利家を頼り安芸竹原に落ちる。
1575年河野通直のもと『河野分限帳』が作成される。
▽大祝安勝 (*)越智・日向守。河野家家老職5人のひとり。河野通直御寄合衆8将のひとり。河野一門32将のひとり。越智郡三島を支配。三島水軍を率いる。
1576年以降長宗我部氏の伊予侵攻。
毛利元就の毛利水軍と瀬戸内村上水軍
伊予分郡守護 (宇和郡)西園寺家
<中央の大納言・内大臣家に連なる家系。>
西園寺公良 (*)西園寺家庶流。南北朝期に四国下向。兄弟に権大納言・公宗、内大臣・公重。
西園寺公俊 (*)権大納言。公良の息。
西園寺実房 (*)公俊の息。
西園寺公利 (*)実房の息。
西園寺公季 (*)公利の息。
西園寺公家 (*)公季の息。息に実允、公宣。
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
西園寺実允 (1510~1565)左近衛少将・実清・実光。公家の息。1556年宇都宮豊綱と抗争。息に公高。娘婿に西園寺公広、勘修寺兵庫頭、土居清良。弟に公宣。黒瀬築城。
西園寺公高 (*~1556)実允の息。伊予宇都宮家・豊綱と抗争。1556年飛鳥城攻略に戦死。妹婿に西園寺公広、勘修寺兵庫頭、土居清良。黒瀬城主。
西園寺公宣 (*)実允の弟。一条房家の娘婿。甥・公高の戦死により西園寺家を継承。義兄弟に一条房基、津野基高。1560年一条兼定に降伏。息に公次、公広、宣久、公義。
西園寺公広 (1537~1588)西園寺実允の娘婿。1565年還俗して惣領家を継承。1568年毛利、河野氏と同盟。1572年土佐幡多郡に侵攻するも、一条氏の後援・大友氏の出兵により退却。1584年長曾我部元親に降伏。弟に宣久、(黒瀬)公義。
[讃岐守護]
村上水軍以前に安富家が細川氏の下で瀬戸内海を制覇していたのかもしれません。
↑細川顕氏〈1337-1352〉(*~1352)小四郎・兵部少輔・兵部大輔・陸奥守・引付所頭人。引付所。細川頼貞の息。細川和氏の従兄弟。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。河内・和泉・讃岐守護。侍所頭人。1337年高ノ師直軍とともに上洛した北畠顕家に対抗し勝利する。のち土佐守護。1337~1352年讃岐守護。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年「観応の擾乱」に直義派。のち幕府に復帰。1352年「男山の合戦」の大将として南朝軍に勝利。その後病死。息に細川繁氏。
⇔細川繁氏 〈1352-1359〉(*~1359)式部少丞・伊予守・兵部大輔・鎮西大将。細川顕氏の息。1336年高氏西国落ちに従軍。1352年南朝軍を和泉にて撃破。父・顕氏の死により家督相続。讃岐・土佐、摂津守護。1356年四国土佐にて南朝軍と抗争。1359年讃岐国にて死去。弟に業氏(養子)、政氏。
⇔細川頼之 〈1362-〉(1329~1392)右馬頭・右馬助・入道常久・幕府管領。三管領家のひとつ。若くして足利尊氏から管領職の逸材と期待される。三代将軍・足利義満の管領。足利幕府の全盛時代を作り出す。将軍権力の強化と有力守護を抑圧する政策を推進したため守護大名から倦厭される。やがて1379年「康暦の政変」で管領職から失脚し、新管領には穏健主義の斯波義将が迎えられる。讃岐・阿波・土佐を分国化する。息に基之。
⇔細川頼元 〈1367-1397〉(1376~1426)右馬助・「右京大夫(唐名=京兆)」・管領・頼基。三代将軍・足利義満の管領。斯波義将の跡をうけ、勢力を伸張して強大となった山名氏清を兄・頼之の後見の元圧迫する。頼之の養子となる。山名氏清は1391年「明徳の乱」を起すが、足利義満自らの討伐軍に敗北する。南北両朝の合体に貢献。土佐守護兼任。息に満元。
↓細川満元 〈1397-1400〉(1378~1426)五郎・右馬助・右京大夫・管領。1397年家督継承。将軍・足利義持の臣。1412年管領職。土佐守護兼任。畠山満家の跡をうけ管領職。1414年伊勢国司・北畠満雅の挙兵。足利義嗣の挙兵。1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎌倉落城。1417古河公方・足利持氏の鎌倉帰還。1418足利義持、弟・義嗣を成敗。1421年管領辞職。息に持元、持之、持賢。義兄弟に宇都宮基綱。49歳。
⇔▽細川頼長 〈1400-〉(1375~1411)刑部大輔。頼有(備後・阿波守護)の息。弟に頼顕。「京兆家」頼之の甥。和泉(上)守護家の祖となる。息に持有。
↑細川満元 〈1400-1426〉(1378~1426)五郎・右馬助・右京大夫・管領。1397年家督継承。将軍・足利義持の臣。1412年管領職。畠山満家の跡をうけ管領職。1414年伊勢国司・北畠満雅の挙兵。足利義嗣の挙兵。1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎌倉落城。1417古河公方・足利持氏の鎌倉帰還。1418足利義持、弟・義嗣を成敗。1421年管領辞職。息に持元、持之、持賢。義兄弟に宇都宮基綱。49歳。
細川持元 〈1426-1429〉(1399~1429)五郎・右馬助・右京大夫。満元の息。弟に持之、持賢。1425年将軍・足利義量が死没し、再び足利義持が将軍職。1426年家督相続。1427年赤松満祐の叛乱の鎮圧に出動する。31歳。
↑細川持之 〈1429-1442〉(1400~1442)右京大夫。満元の息。弟に持賢。兄・持元の早世により家督。1432~1442年管領。将軍・足利義教の代に管領職。関東の古河公方・足利持氏を上杉憲実の手により滅ぼす。1441年「嘉吉の乱」で足利義教が暗殺され、足利義勝を後見する。1442年管領職を畠山持国に譲り、ほどなく没す。息に勝元。
「応仁の乱」1467~1477年。
⇔細川勝元 〈1442-1473〉(1430~1473)右京大夫。幕府管領。八代将軍・足利義政の管領。幕府第一の実力者。山名宗全と結び畠山氏を排斥。将軍家督問題で宗全と対立。初期は足利義視を擁立。足利義視、斯波義敏、畠山政長と結ぶ。「応仁の乱」の東軍、16万の軍勢を率いる。息に細川政元。義兄弟に豊久、勝之。
「明応の政変」1493年将軍・義材(義稙)の失脚、義澄の将軍就任。
↓細川成之 〈1475-1478〉(1434~1511)六郎・兵部少輔・讃岐守・久之・入道常喜。阿波・三河・讃岐守護職。教祐の息。養父に持常。持常の養子となり跡職を継承。1454年足利義政により山名持豊(宗全)追討の総大将。1462年河内に遠征し畠山義就を討伐。三河にて前守護・一色氏と抗争。息に政之、義春。孫に細川澄元、之持。阿波の治世を義春・之持の代に後見。
▽東条国氏 (*~1476)三河守護代。成之の家臣。一色義直の攻撃により自害。<細川家の東海道方面、最前線の武将です。>
↓細川政之 〈1479-1488〉(1455~1488)九郎・兵部少輔。成之の息。阿波・讃岐守護。1485年阿波の反乱を鎮圧。1488年父に先立ち死去。弟・義春が跡職を継承。34歳。
<空位1488-1491>
⇔↑細川成之 〈1491-1511〉(1434~1511)六郎・兵部少輔・讃岐守・久之・入道常喜・道空。阿波・三河・讃岐守護職。教祐の息。養父に持常。1454年足利義政により山名宗全追討の総大将。1462年河内に遠征し畠山義就を討伐。三河にて前守護・一色氏と抗争。息に政之、義春。孫に細川澄元、之持。阿波の治世を義春・之持の代に後見。
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
↓細川義春 (1461~1497)彦九郎・讃岐守・之勝。成之の息。備中守護・細川勝久の養子。足利義材の側近。1488年政之の死により家督。父・成之の後見。1479年伊予に侵攻し河野氏討伐に敗退。息に之持、澄元。娘婿に細川政賢。37歳。
⇔細川之持 (1483~1512)九郎・讃岐守。阿波細川家。義春の息。兄弟に澄元。1497年父・義春の早世により、祖父・成之の後見で家督。足利義澄の息・義維を擁立。息に持隆。<管領・澄元とは距離を持つ。>
⇔細川持隆 (1497~1553)讃岐守・持重。阿波守護。細川之持の息。大内義興の娘婿。細川高国と抗争。従兄弟の細川晴元を後援。1531年和泉に渡海し、高国を追討。1539年赤松晴政を後援し出雲の尼子晴久と抗争。1549年惣領・細川晴元が三好長慶に追われ、1553年足利義栄を擁立するが、三好義賢により討伐される。57歳。息に真之。
讃岐守護代 (国司・藤原家成と綾大領貞宣の息・章隆子孫。香西家一族に羽床、新居、福家あり)
<1335年細川定禅に従い詫間氏とともに挙兵。彦三郎・彦九郎が細川頼春、頼之に出仕。>
香西資邦 (*)藤原。資定の息。
香西家資 (*)資時。
香西資清 (*~1422)清資・豊前守・入道常建。丹波守護・細川満元の家臣。1414年丹波守護代。息に豊前守・元資。
▽香西元資 (*~1441)豊前守・入道常慶。資清の息。丹波守護・細川満元の家臣。1425年丹波守護代。1431年将軍・足利義教の代に丹波守護代を罷免される。<後代に同名の別人。>
▼香西* (*)美濃守。元資の跡職を相続。跡職は平五・元資が継承。
<香西豊前入道常建が丹波守護代(1414~1422年間)丹波香西家成立か。1431年将軍・足利義教の代に丹波守護代を罷免される。>
(上香西・備後守<平五>、丹波守護代家) 細川澄之派
香西元資 (*)平五・備後守。細川勝元の家臣。美濃守の跡職を継承。細川持賢の家臣。「応仁の乱(1467~1477)」に参戦。香川元明、安富盛長、奈良元安とともに「細川四天王」のひとり。息に(上香西)元直、(下香西)元綱。<元の字は細川勝元から与えられたものか。><政元の側近・孫五郎、又五郎のどちらかに相当するか。>
▽香西元直 (*~*1492)上香西・(五郎左衛門尉?)・備中守。「半将軍」細川政元家臣。讃岐国人衆。元資の息。<*五郎左衛門尉は讃岐衆を率いて庄元資とともに備中国に遠征し、備中守護・細川勝久と合戦し戦死。>息に元継。<「半将軍」細川政元の側近・五郎左衛門尉か。>
⇔▽香西元長 (*~1507)上香西・又六。「半将軍」細川政元家臣。讃岐国人衆。香西元直の息。1492年牟礼兄弟とともに政元に随伴し奈良参詣。1492年「堺」町の郡代。1493年細川政元の犬追物に参加。1497年赤沢朝経とともに山城守護職。1504年「薬師寺元一の反乱」鎮圧に軍功。1507年薬師寺長忠と同盟し細川澄之を擁立。主・細川政元を暗殺、政元暗殺事件「永正の錯乱」。澄元派の三好元長を討つ。細川高国に敗北し細川澄之邸にて戦死。山城嵐山城主。弟に孫六・元能、彦六。養子の香西(波多野)四郎左衛門・元盛が跡職を継承。<兄弟に元直、元綱。元長の存在は何かの理由で香西家から排除されるか。波多野氏に吸収されたためか。>
▽香西元盛 (*~1526)波多野元盛・四郎左衛門尉。波多野秀長の息。兄に稙通。細川高国の寵臣。1507年山城守護・香西元長の跡職を相続。1524年細川晴元派を討伐。1526年細川尹賢に讒言され高国に誅殺された。
(上香西・備中守<又六>、備中守護代家)
<1492年香西五郎左衛門尉、備中にて戦死。>
⇔▽香西元継 (*)又六・備中守。備中守・元直の息。「半将軍」細川政元の側近。1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」。1507年香川民部少輔に讃岐・西庄城を奪取される。兄弟に元長、元綱。<「又六」元長と同一人物とも。元長の弟などが、細川高国の寵臣・波多野元盛の存在があるため別家を建てたのでは?><丹波で細川澄之を養育したのは元長の事なのでは?。><1492年「千寿丸」が年貢を上納。元継の跡職の人物か。>
香西元安 (*)元継の息。<事績不明ですが、備中に進出していったのでしょうか。>
香西元治 (*)元継の息。
▽香西元隣 (*)元治の息。<事績不明ですが、備中に進出していったのでしょうか。>
(摂津守<五郎>、丹波・摂津・和泉守護代家)
細川澄元・晴元派 (三好家と同一派閥)
<1443年香西五郎右衛門・之長、摂津守護代職。1451年香西藤井、和泉守護代職。1476年香西元忠、摂津守護代職。>
香西之長 (*)五郎右衛門尉。細川持之の家臣。1441年豊前守・元資の跡職を継承。1443年摂津国守護代。
香西藤井 (*)細川持久の家臣。1451年和泉半国守護代。
香西元忠 (*)「半将軍」守護・細川政元の家臣。1476年摂津守護代。
1476年和泉「堺」代官。小守護代に本荘上野介。<香西主計允は一族か。1484年政元の犬追物に香西孫五郎・又五郎が随伴。>
・・・・(別流)元資→元直→元長→(波多野)元盛
香西元顕 (*)香西之資の息。息に元近。<摂津守護代家の子孫か。>
<1526年香西(波多野)元盛、誅殺事件>
香西元近 (*)香西元顕の息。弟に元資(親戚数代前に同姓同名)。息に摂津守・元成。<元長と同一人物とも。><息子・元成の出仕先から推測すると細川澄元の側近だったのでは?。>
⇔▽香西元成 (*~1560)(越後守)・摂津守。管領・細川晴元家臣。1553年丹波に出陣して波多野晴通を後援し松永久秀を撃破。1560年畠山高政・安見直政に呼応し山城宇治に進軍。三好軍の逆襲に戦死。<澄元の流れで、宿敵は細川高国だったのでしょう。>
香西元久 (*)摂津守・元成の息。
(下香西・左近将監家)讃岐守護代・香西<豊前・左近>家。 細川高国派
香西元綱 (*)下香西・左近将監・(元顕?)。兄・元長に代わり讃岐支配。寒川氏と同盟し東讃岐の豪族・十河、植田氏と抗争。1508年将軍・足利義稙を擁した大内義興の上洛に香川氏とともに従う。息に元定、顕光、顕親、(植松)資茂。孫に元成。
<1526年香西(波多野)元盛、誅殺事件>
香西元定 (*)下香西・豊前守・元貞。元綱の跡職。大内義興に出仕。管領・細川高国に従い、細川澄元・三好之長と抗争。1531年細川高国が敗北し、勢力を失墜する。息に香西元成。勝賀城主。
⇔▽香西元成 (*)下香西・越後守。1558年十河氏の動員で天霧城・香川氏を攻撃。香川家との和睦を仲介。息に元載、元清、長信。孫に佳清。<1560年に畿内で戦死した元成は、上香西家の元成との混同という説があります。><香西家を分断しようとして三好家が擁立した越後守なのでは?
[阿波守護]
↑細川顕氏 〈1337-〉(*~1352)小四郎・陸奥守。引付所。細川頼貞の息。細川和氏の従兄弟。直義派。
⇔細川頼春 〈1341-1352〉(1299・*1304~1352)源九郎・源蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。三河党。細川公頼の次男。足利高氏の側近旗元衆。1337年足利直義に従い北畠顕家を迎撃。1338年阿波国守護。(備後守護とも)。1342~1349年伊予国守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利直冬に属した河野通盛を討つ。足利義詮の補佐役。越前国を巡り、直義派の斯波高経と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。息に細川頼有、頼之、頼元、詮春、満之。
▽細川詮春 (1330~1367)阿波屋形・下屋形・岡屋形・九郎・讃岐守・左近将監。細川頼春の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。兄の管領職就任により、阿波守護家の祖。息に義之。讃岐細川の祖。勝幡城を本拠地とする。<三好長慶と、阿波守護代・三好義賢のような関係か。>
⇔細川頼之 〈1352-1356〉(1329~1392)弥九郎・右馬助・武蔵守・相模守・入道常久・管領。細川頼春の息。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。若くして足利尊氏から管領職の逸材と期待される。三代将軍・足利義満の管領。足利幕府の全盛時代を作り出す。将軍権力の強化と有力守護を抑圧する政策を推進したため守護大名から倦厭される。やがて1379年「康暦の政変」に管領職から失脚し、新管領には穏健主義の斯波義将が迎えられる。養子に頼元、基之。兄弟に詮春、頼有、頼元、満之。
<不設置>
細川頼有 〈1373-*〉(1332~1391)讃岐十郎・掃部助・宮内少輔・右馬頭。細川頼春の息。頼之の弟。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年頃から畿内で南朝軍と抗争。父・頼春戦死後も讃岐軍を率いる。兄・頼之とともに「男山の合戦」。備後守護。兄の中国管領・細川頼之を補佐する。兄の管領在任中は四国を代理統括。南朝軍の河野氏と抗争する。1390年山名時煕追討に軍功。60歳。和泉細川の祖。息に頼長。
▽細川頼元 <幕府管領職1391~1393>(1343~1397)聡明丸・三郎・右馬助・右京大夫・頼基・幕府管領。細川頼春の息。頼有の弟。兄・頼之の養子。義季流・六代目。「京兆家」。摂津・丹波・讃岐・土佐四カ国守護。1369年河内に出陣し幕府に通じた楠木正儀を救援。1378年紀伊守護・細川業秀を救援。1379年兄・頼之とともに四国に撤収。のち幕府に復帰。1391年幕府管領職。「明徳の乱」鎮圧に軍功。息に細川満元。55歳。
<不設置>
⇔▽細川満之 〈1395-*〉(*1350~1405)兵部大輔。細川頼春の息。兄・頼之の管領在任中は四国統治の補佐。1392年備中守護。のち備中守護家の祖。兄弟に頼之、詮春、頼有、頼元。息に頼重、基之(和泉半国守護家)、満久(阿波・義之の養子)。
細川義之 〈1397-1402〉讃岐守・入道常長。讃州家。詮春の息。勝端城主。跡職に満久。
細川満元 〈1408-1426〉(1376~1425)<管領:1412~1421>右馬助・右京大夫。足利義持の管領。畠山満家の跡をうけ管領職。1414年伊勢国司・北畠満雅の挙兵。足利義嗣の挙兵。1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎌倉落城。1417古河公方・足利持氏の鎌倉帰還。1418足利義持、弟・義嗣を成敗。1421年管領職辞任。
細川満久 〈1430-*〉讃岐守。讃州家。満之の息。讃岐守・義之の息(養子)。跡職に持常。
細川持元 〈1437-*〉(1399~1429)右馬助。満元の息。弟に持之。1425年将軍・足利義量が死没し、再び足利義持が将軍職。1427年赤松満祐の叛乱の鎮圧に出動する。
細川基之 〈1447-1448〉兵部大輔。頼之の息。
細川持常 〈1448-1449〉讃岐守。讃州家。満久の息。養子に成之。
<不設置>
「応仁の乱」1467~1477年。
↑細川成之 〈1459-1485〉讃岐守。息に義春。孫に阿波守護・細川之持。
「明応の政変」1493年将軍・義材(義稙)の失脚、義澄の将軍就任。
↑細川義春 〈1494-*〉讃岐守・入道道仙。成之の息。早世により、祖父・成之の後見で之持が家督継承。息に細川之持、澄元。
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
細川元常 〈1514-*〉(1462~1554)播磨守。長岡藤孝が跡職を継承。
↑細川晴元 (1514~1563)六角定頼の娘婿。息に昭元、晴之。
▽細川信良 (1548~1592)細川晴元の息。
▽細川晴之 (*)晴元の次男。1561年7月六角義賢、畠山高政、根来寺衆徒に擁立され、山城国に侵攻。三好長慶から京都を奪還する。兄弟に細川昭元。
阿波守護代 細川政元の執事・安富氏の没落により三好家がその領域を継承したのかもしれません。
⇔▲三好之長 (1458~1520)(小笠原)・主膳正・筑前守・長輝。阿波守護細川家家宰。細川政元の養子・細川澄元の執事。1506年上洛し転戦。1507年細川政元の死により家督争い、細川澄之を擁する香西元長と主導権を争い。澄元の養子兄弟・細川高国との「船岡山の合戦」で敗退。再び渡海し上洛するが細川高国、(典厩家)細川尹賢により撃退される。芥川長光、三好長則とともに戦死する。
-1507年政元暗殺事件「永正の錯乱」-
⇔△三好元長 (1501~1532)山城国守護代・筑前守・弾正少弼・長基。三好長秀の息。三好之長の嫡孫。細川高国の重臣・細川尹賢に義弟・香西元盛が討たれた為、香西元盛の実弟・柳本賢治、義兄・波多野稙通達が「西七条川勝寺の合戦」にて12代将軍足利義晴、細川高国を破り追放。1526年阿波にて細川晴元を擁して挙兵。◎1527年足利義澄の息・足利義維(義晴の弟)を細川晴元とともに擁立し、和泉堺に新幕府を樹立する。山城国下五郡守護代。1529年柳本賢治と対立し阿波へ。12代足利義晴と細川高国に対し足利義維・細川持隆を立てて争うが、1532年晴元の裏切りにより木沢長政・本願寺証如の一揆軍に攻囲され、堺の北荘の法華宗・顕本寺で自害する。弟に三好康長。
⇔○三好範長 (1523~1564)三好入道長慶・千熊丸・孫次郎・修理大夫。三好元長の息。管領・細川晴元の執事。和泉・河内代官。畠山重臣河内守護代・遊佐長教の娘婿。1532年元長が堺で一向一揆に破れ自害。1542年「河内太平寺の合戦」で木沢長政を倒す。1548年細川氏綱を擁立して、細川晴元と対立。1549年摂津「江口の合戦」で細川晴元に勝利。三好政長を討つ。将軍・義輝の近江中尾城を破却。1552年摂津芥川城を攻略し摂津守護代となる。1553年細川晴元と戦いこれを芥川城に幽閉。足利義輝が逃亡し和睦した1549~1558年まで畿内の盟主となる。1558年将軍・義輝の帰京を許し山城国を放棄。足利・六角と協調。1559年河内国安見直政を追放し、畠山政国の息・高政を入れる。1559年織田信長上洛。1560年畠山高政を追放し三好義継を入れる。1560年飯盛山城に籠城した畠山高政を追い飯盛山に入城。弟・十河一存を和泉岸和田に入れ摂津・河内・和泉を制圧。宣教師ガスパル・ビレラの布教を許可する。1562年「教興寺合戦」に勝利。畠山、六角、筒井勢力を掃討。1564年飯盛山城にて病死。43歳。
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