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室町幕府三管領家 その2:畠山氏の家臣団と軍団

管領・畠山氏の勢力図(藤原氏家司・秦氏に関わる神保氏等の家臣。織田家の惟任・惟住の由来に関わるか)のちほど追加予定。


足利幕府 歴代将軍と畠山氏

足利尊氏将軍就任からの武将<在職期間1338~1358>

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足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
<畠山嫡流、畠山高国は奥州管領となり東北へ。奥州で吉良家と対立。(吉良氏は戦国時代に遠州の堀越氏朝を養子に迎え存続。)>
<庶流・家国(高国弟・貞国の息)は「竹ノ下の合戦」に戦死。その息・畠山国清、足利直義に重用される。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<1359年畠山国清、足利基氏の名代として上洛。細川清氏と同盟し、管領・仁木義長と対立。>
<1360年紀州の南朝・四条隆俊を攻撃。細川清氏、土岐頼康、京極道誉とともに謀反、仁木義長失脚。>
<1360年義長の反撃により、国清関東落ち。三河矢作川にて吉良満貞、西郷氏、尾張の小川中務に阻まれる。大島氏の救援により帰還。>
<1361年国清、伊豆にて挙兵。1362年「箱根合戦」にて足利基氏に敗北し降伏。>
<1366年国清の弟・畠山義深を登用。能登、越中、河内、和泉守護に登用される。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。母方叔父に奥州(先代)伊達政宗。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐康行、山名氏清、大内義弘を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<奥州探題・大崎詮持と、畠山国詮の抗争を、義満の義理の叔父・伊達政宗が調停。>
<1389年基国、貞清、義満の「厳島参拝」に供奉。>
<基国、「明徳の乱」「応永の乱」に軍功。三管領のひとり。>


足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
室町 今川貞世の家臣団と軍団
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。

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足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。<義教の政権初期は、畠山満家が後見人。>

足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。

足利義政 <1449~1473>(~1490)「影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。
<義政の初期政権は、畠山持国が後見人。>
<持国晩年に義就誕生。養子の政長の家督相続を撤回。将軍・義政に義就家督の承認を得る。細川勝元が政長を後援し、山名持豊が義就を後援。畠山氏の内訌拡大。>

足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。

足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。

足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>

<戦国覇者・大内家>

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>

足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>


<畠山 家国流の台頭>

⇔▽畠山国清 <関東執事1353~1361>(*~1362)左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫・関東執事職・道誓。畠山家国の息。足利基氏は姉妹の婿。足利直義の側近。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。1335年新田義貞を三河矢矧川で防戦。1336年足利尊氏に従い九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。1337~1351年紀伊国守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。高兄弟と対立する直義を河内石川城に匿い、南朝軍に降る。細川顕氏の仲介で北朝に復帰。直義を遠江「薩??山の合戦」に破る。1352年尊氏の命により鎌倉にて直義を毒殺する。関東公方・足利基氏の執事に就任。1359年12月関東軍を率いて上洛。細川清氏と結び、仁木義長を失脚させる。1360年関東に下向。三河新守護・大島(新田)義高の救援で脱出。1363年専横により足利基氏により執事職を罷免される。息に義清。<初期、南近畿の重鎮。><関東撤退の際に矢作川で、吉良満貞、仁木義長の守護代・西郷氏、尾張の小川中務に包囲される。>

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▽畠山国頼 (*)宮内少輔。畠山家国の息。畠山国清の兄弟。足利基氏は義兄弟。畠山家庶流。兄弟に国清、義熈。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。弟に畠山義輝。

▽畠山義熈 (*)畠山家国の息。畠山国清の兄弟。足利基氏は義兄弟。畠山家庶流。兄弟に国清、義深。息に満熈。

↓▽畠山義清 (*)阿波守・清義。国清の息。息に清貞。孫に清純。

⇔▽畠山義深 (1331~1379)三郎・尾張守。畠山家国の息。畠山国清の弟。弟に義清、義熙。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。兄・国清の関東執事就任に従い関東にて奮戦。1361年「畠山国清の乱」に従う。1362年兄と袂を分かち、京都に戻る。1366年足利義詮に属し越前国守護に就任。元守護・斯波高経と抗争、高経に勝利する。のち(尾張)・能登・越中・河内・和泉・紀伊・伊豆守護を兼任。49歳。息に基国、深秋。<「貞治の変」に斯波高経に代わり復権。>

↑▽畠山義清 (*)左近将監・清義。家国の息。息に貞清。<兄・国清の養子となるか。>

▽遊佐長護 (*)河内守・国那賀。畠山家臣。1382年畠山基国の河内守護補任により、河内守護代。後裔に三好氏と結ぶ遊佐長教。<遊佐氏は後に三好・十河家と結び、河内支配の重鎮となる。>


管領・畠山基国の家臣団と軍団


畠山基国 (1352~1406)右兵衛督・右衛門佐・入道徳元。幕府管領職。「尾州家」。畠山義深の息。尾張・越中守護兼任。のち山城・河内・能登・越中〈1391-1406〉守護。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1391年山名氏討伐の「明徳の乱」に武功。1398年管領職就任。1399年「応永の乱」に軍功。55歳。息に満家、満則、(石垣)満国。河内高屋城主。<畠山家から初の管領職。>

▽畠山深秋 (*)伊予守。義深の息。基国の弟。
▽畠山貞清 (*)義清の息。基国の従兄弟。1389年将軍・足利義満の「厳島参拝」に基国とともに供奉。

▽畠山義熙 (*)安井・播磨守。播磨国安井郷を領し安井氏。息に満基(渋川満熙)、(安井)満定。<子孫は河内国八尾郷の安井氏。安井定次は神戸(織田・三好)信孝に出仕。>

▼畠山満基 (*)渋川・満熙。義熙の息。畠山家庶流。河内国渋川郷を領し渋川氏。弟・満定が跡職を相続するか。<満行→定重→定正→定次→成安。> 

<1392年相国寺供養・基国郎党30騎>
(遊佐氏) 越中遊佐氏系か。

↑遊佐国長 (*)河内守・長護。畠山「尾州家」家臣。河内守護代職。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。足利義満と対立した山名氏の「明徳の乱」に山名氏清の挙兵を幕府に通報する。

遊佐助国 (*)豊後守。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

遊佐基光 (*)孫太郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

遊佐家国 (*)五郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

(神保氏) 越中国人。
神保国久 (*)宗三郎。越中国人衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

神保氏久 (*)肥前守。越中国人衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

神保国氏 (*)四郎左衛門尉。越中国人衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

(三宅氏)
三宅家村 (*)四郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<西三河高橋衆の三宅氏との関連は・・?>

三宅慶明 (*)次郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<明智光秀との関連は・・?>

(斎藤氏) 越前疋田斎藤氏系か。
<1563年長曽我部元親の上洛に関わり、斉藤氏と縁を結ぶことになったのは、近畿の斉藤氏と四国との旧縁が存在したか。>

斎藤基則 (*)次郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

斎藤利久 (*)彦五郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

斎藤国家 (*)四郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

斎藤利宗 (*)次郎左衛門尉。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

斎藤利房 (*)孫左衛門。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

(槙島氏) 山城槙島城の国人か。
槙島光基 (*)次郎左衛門尉。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

槙島光貞 (*)三郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

椎名長胤 (*)次郎。越中国人衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

杉原貞平 (*)五郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<備後の杉原氏?>

井口泰忠 (*)彦五郎。越中国人。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<筒井家と親類の大和、井口氏?>

佐脇久隆 (*)孫五郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<尾張、前田家親戚の佐脇氏?>

吹田国道 (*)孫太郎。摂津衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<のち荒木村重一門に吹田氏。>

隅田家朝 (*)彦次郎。紀伊衆。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

古山胤貞 (*)次郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

飯尾清政 (*)善六。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<尾張・遠江・飯尾氏?>

西匂国頼 (*)次郎。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

松田秀久 (*)孫左衛門尉。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<丹波松田・波多野氏?>

稲生基宗 (*)平左衛門尉。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<北伊勢、稲生氏?>

門真国康 (*)小三郎。河内国人。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

誉田* (*)孫次郎。河内国人。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。

和田正友 (*)太郎。河内国人。畠山「尾州家」家臣。1392年相国寺供養・基国郎党30騎のひとり。<楠木家と親類の和田氏?>

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紀州支配争奪
1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍

畠山基国 (*)右兵衛督・右衛門佐・入道徳元。幕府管領職。「尾州家」。畠山義深の息。尾張・越中守護兼任。のち山城・河内・能登・越中〈1391-1406〉守護。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1391年山名氏討伐の「明徳の乱」に武功。1398年管領職就任。1399年「応永の乱」に軍功。幕府軍3万兵、総大将。息に満家、満則(満則)。河内高屋城主。55歳。
↓▽畠山満家 (1372~1433)左衛門督・尾張守・入道道端。幕府管領職。畠山基国の息。弟に満則(満慶)。山城・紀伊・河内・越中守護。細川満元と政権抗争。1399年12月「応永の乱」に大内義弘を討つ。将軍後継者問題に足利義教を将軍職に据えた。息に持国、持富、持永。62歳。

↓▽畠山満慶 (*~1432)満則。畠山基国の息。
▽▽畠山義忠 (*~1463)賢良。満慶の息。

▽遊佐国盛 (*)河内守。畠山家臣。基国に出仕。満家執事。河内守護代。1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。

▽遊佐* (*)美作守。畠山家臣。山城守護代。大和宇智郡守護代。1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。

⇔斯波義将 (*)前管領。1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。大内義弘討伐の先陣。

斯波義重 (*)義将の息。1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。

吉良* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
石堂* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
吉見* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
渋川* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
一色* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
今川* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。杉九郎の森口城を攻撃。

結城* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。杉九郎の森口城を攻撃。

土岐* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
佐々木* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
武田* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
小笠原* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
富樫* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。
河野* (*)1399年「応永の乱」 大内義弘討伐軍。

満則 VS 満家 (家臣団二分)

(能登畠山氏)

↑▼畠山満慶 (*~1432)左馬助・修理大夫・能登守・満則・入道道祐。能登・河内・越中守護〈1406-1432〉兼任。畠山基国の息。兄に満家。三代将軍・義満に勘気により満家が蟄居。家督を継承する。義満の死後、満家に家督返上。1408年兄から能登一国を与えられる。四代将軍・義持と対立し足利義嗣を支援。義持により蟄居。息に義忠(賢良)、教国。七尾城主。

畠山満家 (*)左衛門督・尾張守・入道道端。幕府管領職。畠山基国の息。弟に満則(満慶)。山城・紀伊・河内・越中守護。細川満元と政権抗争。1399年12月「応永の乱」に大内義弘を討つ。将軍後継者問題に足利義教を将軍職に据えた。62歳。息に持国、持富、持永。

▽椎名長胤 (*)越中国人衆。畠山家臣。
▽神保国久 (*)宗三郎。越中国人衆。畠山家臣。
▽神保氏久 (*)肥前守。越中国人衆。畠山家臣。
▽神保国氏 (*)四郎右衛門尉。越中国人衆。畠山家臣。

 <能登畠山氏>
↑畠山義忠 〈1432-1478〉(*~1432)左馬助・阿波守・修理大夫・入道賢良。能登畠山氏。畠山満則(満慶)の息。息に義有。1437*1440年義有が戦死。孫の義統を後見。惣領家の家督争いに河内・畠山義就を後援。「応仁の乱」に西軍。東軍の加賀・富樫家と抗争。加賀に侵攻する。

畠山義有 (*~1440)能登畠山氏。義忠の息。息に義統、政国。

▽神保国宗 (*)備中守。畠山家臣。越中守護代。畠山政長を擁立。遊佐国助と抗争。

畠山義統 〈1478-1497〉(1437~1497)左衛門佐。畠山義有の息。1440年父の死により家督。義忠により後見される。能登守護職。将軍御相番衆。「応仁の乱」に西軍。惣領・畠山義就を後援。細川勝元、畠山政長と抗争。1479年越後守護・上杉房定と縁組し同盟。1487年加賀一向一揆に富樫政親を後援。1490年能登一揆と抗争。越後守護代・長尾能景と同盟し越中一揆と抗争。一揆を後援する細川政元と対立。弟に政国。息に義元、慶致。

▽隠岐統朝 (*)藤四郎・藤兵衛・新左衛門尉・豊前守。畠山義統の側近。1500年守護代・遊佐統秀の謀反により主・義元とともに越後落ち。

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