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「しゅはり」。「守破離」と「修破離」とでは、どう違うのでしょう?
今回はお尋ねの投稿です。
師弟関係や『道』(茶道や剣道などの武道)に関して、修行を重ねることでどう成長していくのか、そのありようを説明するときに、「しゅはり」という言葉がよく出てきます。
「しゅはり」は「守破離」と記されることが多いですが、「修破離」という言い方もみかけます。ネットで調べても、語源がはっきりしません。
師や先人の教えを守っていくから「守破離」
ともあれ、よく見られる「守破離」の説明から。
『守』
修行の最初の段階では、師や先人の教えを守って、できるだけ多くの 話を聞き、行動を見習い価値観をも自分のものにしていきます。学ぶ人は、すべてを習得できたと感じるまでは、師の指導の通りの行動をします。
『破』
師や先人の教えを忠実に守るだけではなく、自分独自に工夫して、師の教えになかった方法を試みていきます。
教えを「守る」から、「破る」段階へと進む、ということです。
『離』
師のもとから「離れ」て、学んだ内容を自分なりに発展させていく、ということです。
学問・技芸などを身につけていくから「修破離」
さて、「守」ではなく、「修」の文字を使って「修破離(しゅはり)」と表現している記述について、みていきましょう。
「修」には、精神をおさめととのえる、学問・技芸などを身につける、などという意味があります。それに関連して、修練、修道、修行(しゅぎょう)、修学、独修などの言葉もあります。
型から入る、基本のフォーマットを学ぶことから始める、ということでは、「修める」を充てるほうが、個人的には、しっくりきます。
もちろん、「守破離」も、「修破離」も、意味するところは同じで、「型」を踏襲する、受け継ぐ場合、「守破離」のほうが師弟ともに受け止めやすいでしょう。
「離れて」からは、師弟関係はどう変容するのか?
ところで、「離」は自分の道を歩む、という説明がされますが、師弟の関係は、その後どうなるのでしょうか。
師匠と弟子の関係を考えてみると、両者が再び出会って、互いのありかたや道を確認しあう、ということもあると思います。
○○流、○○派、○○組などと称して、師弟という立場を尊重しながら連携しながら、いずれは実力者が師匠の座や名跡を継ぐこともあります。
あるいは、グループなどと名乗らず、実態としては、緩い師弟関係を形成していることもあります。
また、師と同じように後進の指導をする立場に立つ、そういうステージに進んでいく場合もあります。
緩く考えて、広義に解釈すれば、独立する、自活する、一人前になる、ということも、「離」の字義にあてはまるのでしょうか?
かなり脱線してしまいました。
風姿花伝「序破急」との関係は?
ネット上でよく見かけるのが、世阿弥が『風姿花伝』で「守破離」とで記している、というものですが、調べてみるとその文言は見当たりません。
修行のあり方を説明するために、世阿弥の教え「序破急(じょはきゅう)」の「破」からの連想で、「守破離(または修破離)」ということが言われるようになったのでしょうか?
次のような熊倉功夫先生の記述もあります。
……徹底した稽古は真の格を体得する〈守格〉であるが,名人となれば形式をくずし自由に演じ〈破格〉をめざすべきだ,と能楽などで論じている。
同義に近い言葉として〈守破離〉がある。
ということで、疑問だらけです。詳しいことをご存じの方、なにとぞご教示ください。