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歩道橋のマジックアワー

自分という「個」を超えて、「世界」に思いを馳せたくなる時がある。

国分寺崖線(都内のがけ地)のへりにそびえたっている中学校に通っていた。崖下の街に住んでいたので坂をくだって下校する。学校の正門から帰宅するときは、この坂道のルートを通ることになる。

でも私はいつも別の近道を使って下校していた。学校の裏門ルートだ。中学校の裏門から続く階段は、崖下を走る世田谷通りに降りることができる歩道橋と繋がっている。この裏門ルートの方が正門ルートより5分ほど早く世田谷通りに出られるのだ。

17時手前、歩道橋にさしかかる。秋の夕陽が沈み始め、淡い水色の空と幾筋かの雲は、ゆっくりと透き通ったオレンジがかってゆく。やがて濃くて深い橙色にかわる。歩道橋からの眺めを遮るものはあまりない。眼下を見下ろすと、太陽が沈んでゆく向こうの山あいからやってきた自動車が、ビュンビュンと自分の下を通り抜けていく。

夕暮れの世田谷通りは混む。
車の流れがおびただしい。

彼らはどこから来るのだろう。
そしてどこへ向かっているのだろう。

そんなことをぼーっと考えていると、急に、今見えている世界はほんの一部でしかない、もっと広い、世界の全体が見たい、という気持ちになってくる。あたりは一面マジックアワーだ。現実が遠ざかっていく感じがする。

地球が、長い長い月日の中で経験してきた、誰にも知りえない壮大な歴史。その形跡を受け継ぎつつ、脈々と続くあらゆる生命。その中のちっぽけな人間。そして、様々な国の、様々な年齢の、様々な役割の彼らが生み出す、様々なプロダクト。科学と哲学のせめぎ合いの中で、せわしなく生きている。自分はその中の、これまたちっぽけな一人。

何とはなしに一気に視座が上がった。世界の輪郭を少しだけ感じ得た時、その畏れ多さに身震いがした。

我に返って、歩道橋のうえで360度回ってみた。後ろには、先ほどまで授業を受けていた中学校の校舎が見える。でもなぜか遠い誰かの記憶のような気がした。誰かが過ごす日々が映画のエンドロールのように思い出される。

こうしてみると不思議と、あって当たり前の中学校とそこで過ごす、とりとめのない日常が、今この瞬間にしかない、貴重なものに思えた。

きっと、マジックアワーの魔法にかかってしまったのだろう。あの頃から、歩道橋に佇むと見える目の前のちっぽけな世界を、昇華させたくなる気持ちは変わらない。でもそんなちっぽけな世界の、ちっぽけな日常が貴重だと、歩道橋は教えてくれるのだ。

-おわり-





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