あこがれとフィクション
どこか遠くの世界に憧れることはないだろうか。
受験勉強をしていた頃、単語帳を片手に、電車にどんどこ揺られながら、新宿駅にある予備校に通っていた。ある真夏の日、外はどうしようもなく晴れているのに、建物の中に籠ってしまうのが勿体無くて、予備校の建物の前でふと足を止めた。
一回くらいなら授業をサボって、季節感を味わっても怒られはしないだろう、とあまり深く考えず、直感的にもと来た道を戻って、小田急線に飛び乗り、片瀬江ノ島に向かった。なかば衝動だった。
片瀬江ノ島駅から路面電車・江ノ電に乗り換えて、七里ヶ浜で下車した。浜にはまばらに人がいた。その日受けるはずだった授業のテキストが詰まったクリアケースを砂浜に置いて、地平線の付近に佇む入道雲をじっと見ていた。
これが見たかった。真っ青な空に映えるように浮かぶ入道雲は、太陽に照らされてキラキラしている。照らされていないところは深いグレーだ。このコントラストが眩しい。目を細めてじっと見つめる。
あの雲のキラキラした所に行ってみたい、そこに何かあるんじゃないか、と妙に確信していた。
桃源郷とはよく言ったもので、人間は、今ここではない、どこか遠いところに、理想の地があるのではないかと、長い間錯覚しているようだ。
授業をボイコットして、見たかった夏の七里ヶ浜の景色を見ることができたので、当然満たされていいはずなのに、いや、正確には満たされてもいるのだが、妙に悲しい気持ちになってくる。
あのキラキラした場所に行けなくても、遠巻きにしてこの景色を見られるだけで胸が高鳴る。しかし、その一方でどこか物悲しいのだ。美しい自然を前にするといつもこうだ。
谷川俊太郎の「かなしみ」は、この気持ちによく似ている。
この詩には「過去」という表現がある。思うに、これは「刹那(=今)」に対して「過去」と言っているのかもしれない。我々が見聞きする物事は、感じた瞬間から過去になっていく。この夏もいつか終わる。
あまりに美しい景色が、嘘のように思えるのは、いずれ終わってしまう、そして二度とその景色を見ることができないと内心分かっているからではないか。終わらないでほしい、ずっとこのままであって欲しいと思えば思うほど、胸が痛む。記憶に残したいから噛み締め、スマホに写真を収める。しかし、過去になった瞬間に同じ景色はもう二度と見れないし、うまく思い出せない。
あこがれはフィクションだ。ああであったらいいな、こうであったらいいな、こんなものがみたいな、こうしてもらいたいな。好き勝手に期待する、近いようで遠い世界。そして、フィクションから現実の世界に戻された時に、壮大な寂しさ・切なさに襲われる。長いロールプレイングゲームを終えた瞬間、壮大な映画を見終わった瞬間に感じる、あの寂しさにも似ている。
七里ヶ浜の時間が終わりに近づいて、マジックアワーになる。空は橙と紫の淡いグラデーションになり、やがてどっぷりと闇が落ちてくる。さて、そろそろ現実に戻ろう。再び、憧れの地を目指すときまで。
あこがれを巡る輪廻は続く。
-おわり-