男と車と承認欲求
もしかすると、車を持てば承認欲求が満たされるかもしれない。
これだけ見ると、なんという陳腐な主張だ、と思うだろう。しかしあらかじめ断っておくと、これから述べる「承認欲求」とは、かっこいい車を周囲に見せびらかして「この車とこの車に乗っている俺、カッコいいだろ?! ウェ〜〜イ!!www」とやる類のものではない。
もっと地味かつ基本的で、しかし切実な部分にある「承認欲求」である。あるいは「居場所に対する欲求」と言い換えても良いかもしれない。
結論から言うなら「車を持っているだけである程度の承認欲求を満たすことができる。しかも車の種類や質は問わない。ただ、仲間内の中で自分だけが、あるいは自分を含む数人だけが持っているという状況がより承認欲求を満たすのに都合が良いのではないか」という話だ。私がそう思った、というだけの話だが。
「動けないサイヤ人など必要ない!死ねー!」
これはかの有名な作品「ドラゴンボール」におけるベジータのセリフである。仲間であるはずのナッパをあっさり見捨てて自らとどめを刺す残虐なシーンだ。この頃の冷酷なベジータを懐かしいと感じる人もいるのではないだろうか。
さて、拡大解釈かもしれないが、私はこれを男性社会の象徴のようなセリフに感じた。というのも、基本的に男性社会には「働けない男は必要ない」という価値観が根底にあると思うのだ。
(これは男性に限らないと思う人もいるかもしれないが、それは現代になって男女平等という名の社会総男性化が進行した結果であって、元々男性的な考え方なのではないかと思う。あるいは女性も同じかもれないが、少なくとも男性社会においては間違いなくそうだと思うのだ)
ただ、ここで言う「働けない」は「労働」よりも広い意味だ。それは就労している――すなわち誰かと労働契約を交わして金銭を得る――ということに限らない。
むしろそれより重要なのは、仲間内のグループの中における「働き」である。
例えば仲間内で旅行に出かけるなら、旅行の段取りというものが必要になる。誰かが行き先の情報を調べたり、宿を予約したり、交通手段を調べ、必要に応じて手配したりする必要がある。
仲間内で「働く」というのはこれらの段取りのうち何かの役割を果たすことである。逆に、いつも何の役割も果たさずにグループ内に居るだけでグループの労力にただ乗りしているような人間は、排除されるか、一段下のポジションにされるか、という末路を辿るイメージがある。
一段下のポジションとは、例えばパシリとか弄られ役になるとかそういうものである。
よく「女性同士の関係は対等で横並びだが男性同士の関係は上下関係がベース」みたいな言説がある。それも間違ってはいないが、上下関係が生じるのは、仲間内のグループに対する貢献度の差によるものというパターンもあるのだ。これの良し悪しはともかく、一定の合理性はあるのだと思う。
要するに、段取りなどのレベルで「働けない」男は、より低位でわかりやすい肉体労働などを課されることで「働かされる」ということである。
つまり、どちらにせよ男という生き物は「働けなければ」コミュニティに所属する資格を得られない、または非常に得にくいということだ。
同性同士でそうなら異性に対してはどうかというと、これも男は「働ける」ことを要求される。しかも一般的には、男性同士以上に、女性から「働ける」ことを求められる。
今でこそ男女平等と言われているものの、実態はせいぜい「平等」といのは期待の下限値であり、少なくとも「相手の女性と同等程度には」働けなればならない。むしろ男性が率先してエスコートした方が好印象、というのはまだ文化的に強く残っている。
つまり男性は男性から見ても女性から見ても「働けなければ」そこに居る価値は無い、とみなされるのである。これは男性が持っているまぎれもない現実であるだろう。
「車を出す」
さて、しかし男性にとって、少なくとも仲間内のグループに対して簡単に貢献できる方法がある。それが「車を出す」という行為だ。(ようやく本題の戻った)
特にこれは、仲間内で自分だけ、もしくは自分を含む少数しか車を持っていない、という場合において有効だ。車を持っていない人間にとって車というのは高額で手間がかかりわざわざ買うほどではない、と考えている一方、どこかに遊びに行くという話になると車が欲しいというシチュエーションも少なくない。そういう時に車を出してくれる人間がいると非常に重宝されるのである。
つまりこれは、車を持つだけで簡単にグループ内に貢献できる、すなわち承認を得られるということを意味する。そしてそれは、車の質も運転の腕も関係ない。ただ最低水準を満たしていれば、それだけでありがたがられ、リスペクトされるのである。
とすると、車を所有するのは決して安くないコストであるが、承認欲求を満たした人間からすると、確実にそれを満たすことができるためのコストと考えれば、案外安いのではないだろうか。
もちろんそれは、仲間内の人間の質がある程度高い――車を出す労力を理解してくれ、運転の代わりにガソリン代や高速代などを立て替えてくれる程度のリテラシーがある――場合の話ではあるが。
車はただの移動手段であるとか、かっこいいから乗るとか、運転が好きだから乗るとか、それ以外にも、人間関係を快適に構築する、その一つの手段にもなりうるのではないか、という話だった。
もちろん、それは自分自身車の運転が苦にならないのが前提ではある。
とするならば、男は車を選ぶ前に友人を選んだ方が良いのかもしれないし、車を選んでから友人を選びなおしても良いかもしれない。
だが「若者の車離れ」と言われている現代でも、一応こういう存在意義もあるのではないか、そう思った次第である。