我儘と自由の違いについて

元気で自由な友人について

先日、久しぶりに東京に遊びに行った際、一人の友人に(リアルでは)久しぶりに出会った。彼は自分の友人の中でも特に、やたらバイタリティのある人間だ。
例えば、彼の仕事は激務である。具体的な社名は差し控えるが、20代で家が建ち、30代で墓が立つと言われるような会社である。極端に、違法レベルに残業時間が多い……というわけではないが、今週は20時間残業したからこのペースではやばいなどと言っていたので、決してヌルいわけではない。仕事内容にしても、一応チームリーダー的なポジションらしいので、そこそこに責任のある仕事だと察することができる。
また一方で、彼は妻子持ちであり、一児の父である。そして仕事が激務にもかかわらず、家事育児を妻に丸投げというわけでもなく、幼い息子の面倒を見たり家事を手伝うこともある。完全に半々でやっているわけではないが、何割かは負担しているようだ。平日でも幼い息子を寝かしつけることはあるし、休日なら妻と分担してそこそこ甲斐甲斐しく世話をしている。
それでいて彼は多趣味である。仕事が早く終われば終わりに映画を見に行ったり、リアル脱出ゲームをしたり、のみならず作曲やミックス、果ては趣味でのゲーム開発などクリエイティブな趣味も充実している。
これら全ては、同じ人間の話である。正直、とても一人の人間の所業とは思えない。一体どんな体力をしているのだ、お前の一日は本当に24時間か、と疑いたくなる。
が、世の中には彼に限らずこういう人間はいるのである。「それ、本当に一人でやってんの?」って思うほどの活動量を一人でやっている奴が。
「バイタリティが凄い」そう言うのは簡単だ。だが、なぜそれほどまでにバイタリティがあふれているのか気になるところである。
なんだかんだで普通にサラリーマンしている奴の話を聞くと、仕事以外の時間はダラダラしてしまうとか、大学時代のようにクリエイティブなことはできない、ヘビーな趣味はできない、みたいな話はよく聞く。それは単に時間が足りないだけでなく、気力や体力が仕事で枯渇しているようにも思える。やはりバイタリティの差のように思える。
しかしバイタリティの差とは何なのか。単純な肉体の体力ということでもあるまい。
例えば冒頭の彼は、別にバイタリティのある彼は毎日ジムに行っているわけでもマラソンをものすごく走れるわけでも無い。身体的な持久力でいうと人並みだと思う。たぶん精神の問題だという気もする。
自分はそのバイタリティの秘訣を知りたくて、色々と彼に聞いてみた。その結果、一つの答えが見えてきた。
彼は「自由人」だった。

自由人の語る「我慢しない」ということ

彼の話を聞いていると、幾つかの行動パターン、方向性が見えてきた。
それは「自分の嫌なことはしない」言い換えれば「我慢しない」そして「自分の得意パターンを活用し続ける」というものだ。
確かにそれができれば元気でいられるだろうな、と思った。
自分の嫌なこと苦手なことをせず、好きなこと得意なことだけをやり続ければ、気力も体力を充溢するに違いない。毎日が楽しくて、楽に生きられるはずだ。つまりこれは「自由」というやつではないだろうか。自由に生きれば元気でいられる、これは当たり前な気がする。
とはいえ、そんな単純な話でもない。
彼が好きなことだけをしているかというとそうではない。ただ、嫌なことは極力避ける、他人にやらせる、その代わり自分は得意なことをやる。ということを極力行っている。
仕事内容にしても、ものすごく好きと言うわけではないが、得意な分野ではあるし、極力得意な業務ができるように立ち回っている。
これらを総括して、彼は「自由人」なのだ、と自分は思った。彼は、自由だから、元気なのだ。
だが、多くの人間の感覚として「そんな都合よくいかないよ」と思っていることだろう。もちろん自分にも、そういう思いはあった。
しかし自分は、彼との対話で気付いた。自由な人間なら、その「都合の良い」ことができるのだ。そしてそれは超能力でも奇跡でもなく、ゆえに自分でも同じように真似することができるはずなのだ、と。
なぜなら、自由とは我儘ではないからだ。
我儘は社会に通用しない。だから、社会の中で生きていくには多かれ少なかれ我慢しなければと思う。
だが、自由は社会の中で実現できる。自分はそのことを、話を聞いているうちに悟った。
では、自由と我儘の違いは何か? そのことについて、これから先少し語っていこうと思う。
それを理解すれば、我々は自由になることができるはずだ。そして、自分自身が元気でいられ、人生が生きやすくなるはずだ。

「我慢」と「我儘」という二項対立

昔から日本人は、というと主語が大きすぎるが、我慢すればとりあえずなんとかなる、上手くいく、と思いがちである。少なくとも自分はともかく、みんなにとっては自分が我慢したほうが幸せになると思っているのではないだろうか。
しかし、自分が我慢すれば事は上手くいくのか、自分は除いたとしてもみんなが幸せになるか?
そうとも言い切れない。
例えば、ここに5種類の果物が一つずつあるとして、これを5人で分けるとする。あなたは本心では自分が一番好きな果物を選びたいと考えるが、自分が好きだということはおそらく周囲も同じように考えるだろうと思い、自分だけ好きなものを取ろうとするのは良くないと思って我慢し、無難そうな果物を一つ選ぶ。
しかし、そう思うのはあなただけとは限らない。紛糾を避けるために、あなたと同じような考えによって誰もが好きな果物を我慢したら? 譲り合いの精神で全員が我慢し、全員が好きでもない果物を選ぶ結果となる。
そこに争いは起こらないかもしれない。しかし確実に全体効用が下がってるといえる。
本当なら全員が好きなものを食べられたかもしれないのに。普通に各々が好きな果物を主張すれば、それができたかもしれないのに。
なら我慢なんてやめればいいだろうか。全員がひたすら言いたいことを言えばいいだろうか。それで全てうまくいくだろうか?
いや、それでは我儘になってしまう。一つでも主張と主張のぶつかり合いが発生すれば、全員が自分の主張を通そうと譲らなければ。やはり全員が好き勝手すれば話はまとまらない。ならばいくらかは、誰かは我慢する必要がある……
この堂々巡り。我慢か我儘か、二者択一の間を彷徨うことになる。
思うに、これが日本人的な価値観、発想ではないだろうか。かつては我慢に傾いており、今はその反動で我儘に傾いている。それが今日に至るまでの時代の流れなのではないかと思うのだ。

「我慢」と「我儘」その末路

「我慢」と「我儘」は正反対なようでいて、その末路は似ていると思う。
すなわちそれは孤立、孤独という末路である。
我儘な人間が孤立し、孤独になるというのは、直感的にも論理的にも理解は容易だろう。結局のところ我儘な人間というのは周りから倦厭され、時間が経てば周囲から人が去っていくのは自明である。
一方、我慢する人間というのはどうか。これは自分の経験則による知見でもあるのだが、やはり孤独になる。どういうことかというと、「我慢」して作った人間関係というのは、薄っぺらいものになり、関係を作った自分自身があまり心地よいとは思えず、自らその人間関係を放棄したり、そうでなくてもその人間関係を持続させようというモチベーションがわきにくい。そして、仮に人間関係を持続させたとしても、自分の本心とズレた態度で作った関係性の人間に囲まれても、それは孤独なままともいえる。つまりこれはこれで、どう足掻いても孤独なのである。
ではどうすればよいのか。我慢しても、ワガママになっても孤独になる。これでは八方ふさがりではないか。
無理して我慢を選び苦しむか、我儘を選び誰からも見捨てられるか。どうあがいても絶望のように思える。
しかし、もしあなたが本気でそう思うのなら、あたなはまだ正常な発達過程を終了できていない。なせなら、ここから先が「コミュニケーション」だからである。
自己主張とは駄々をこねることではない。一方的に自分の要求を押し付けることではない。自分の意思が通るかどうかで、ゼロか100かで考えていては、まともなコミュニケーションにならないのである。

Z世代とインターネットで持て囃される我儘なモンスター

一昔前の日本の価値観というのは、我慢が基本だったように思う。我慢して努力する。我慢して協調する。そうすることで最終的に上手くいくのだ、という価値観だ。楽は苦の種、苦は楽の種とはよく言ったものだ。
その価値観は今でも消えてきない。しかし一方で、ただ我慢をしても幸福にはなれない。それに気づく人間が増え始める。
やがて「我慢は馬鹿らしい」「我慢なんて意味がない」という風潮から「じゃあ我慢をやめよう」となる。それは、「我慢」のアンチテーゼとして出てきた価値観だと思う。
特に、そのような価値観を強く持っている世代がいわゆる「Z世代」だろう。また、Z世代とも強く関連していると思うが、インターネットでもそのような価値観が持て囃されているところもある。あるいはZ世代がインターネットの価値観を強く受けたのかもしれない。
理不尽なストレスを受け続ける必要はありません、逃げましょうという価値観。
例えば仕事でも、残業はしない、自分の職務でない仕事はきっぱりと断る、嫌な飲み会には参加しない、嫌だと思った企業はあっさり辞める……こういった行動が、インターネットで持て囃される。
確かに、そういう対応が必要なことはあると思う。一方で、これでいいのだろうか? と疑問に思うこともある。それはただの我儘ではなかろうか? と。
自由なら良い。しかし自由と履き違えた我儘は、自分にも他人にも、結局は害にしかならない。
しかし、では、その違いはどこにあるのだろうか?

自由と我儘の違い

先に「我慢と我儘の末路は同じ」だと述べた。それはつまり、同じ檻に閉じ込められているも同然だ。対照的というのは結局のところ同じ土台に立つ、同じ概念だということである。
我慢と我儘の檻から出るには、発想を変えなければならない。そしてその檻から出た先、それこそが自由だ。
では自由と我儘の違いとは何か。「自由」にも「我儘」にも言いたいことを言い、自分の主張を通す。双方にそういうイメージがある。両者の違いは何か、意外と言語化できる人は少ないかもしれない。
そして、日本人はその区別がついていない人が多いように思う。だから苦しむのではないか。昔のようにある程度画一化された社会モデルならともかく、価値観が多様化した社会では特に、我慢と我儘の二極だけでは、やっていくことはとても苦しい。
特に、価値観の違う人間と一緒に行動するときには特に、この二極だと結局我慢を選ばざるをえなくなる。我慢と我儘の二極だけでは、立場が下のほうが我慢し、上が我儘を押し付ける、という関係に終始するしかないのだ。そして、立場が変わって我慢する側から我儘を押し付ける側に入れ替わるわけである。これは我慢と我儘の連鎖である。
では自由は我儘と何が違うか。
「**自由には責任が伴う」**という言葉がある。これはとてもありふれた使い古された言葉だ。しかし責任とは何か?
それは周囲への責任である。
自由であるなら自分の主張はするが、だからといって周りを無視するのではない。行うべきなのは無視や攻撃ではなく、対話であり、交渉である。そうして、お互いの落としどころを探るのである。
それは単に、お互い半々に妥協する、ということだけではない。半分ずつ我慢するのではなく、なるべく双方の利益となるような第三の選択肢を創意工夫して探す。それを行うにはよく周りを見て、周りの感情や利害をよく理解しておく必要がある。
故に、自由には周囲への配慮も必要なのだ。配慮は遠慮ではない、周りに言われた通りするのではなく、周りが受け入れやすい提案を考えるのだ。

自由を手に入れるために

さて、自由と我儘の違いがわかれば、どうすれば自由を手に入れられるかも分かるはずだ。
自分の自由は自分で作ることができる。それは周囲への観察力と交渉力、コミュニケーション能力や気遣いなどによってだ。つまり、自由を得る能力とはスキルなのである。
しかし、ではスキルがなければ自由になれないのか。観察力と交渉力、コミュニケーション能力には大きな個人差がある。周囲を観察しろ、交渉しろ、と言われたところで、誰もがすぐにその場での最適解を実行に移せるわけではない。
それができなければ自由を得る能力がないのか。一生不自由ななままなのか。
自分は、そうではないと思う。
スキルは大事だ。しかし、実はスキルよりも一番大事な点がある。
それは自由への意志である。
意志などと、そんな曖昧な精神論でどうにかなるはずがない。そう思うかもしれない。実際はスキルの問題なのだから、そのスキルが身につかないかぎりどうしようもない、現に自分は、自由を得るための立ち回り、具体的方法がまるでわからない。……そう思う人間もいるかもしれない。
しかし、自分に言わせれば、スキルを引き寄せるのは意志、言い換えれば心と体の態度であり、考え方と振る舞い一つなのである。
まず根本の、そして思考のスタート地点となる発想が大事なのだ。
自分が我慢するのではなく、相手に我慢させるでもなく、双方メリットのある、すくなくとも無理せず納得できる良い提案はないかと、何か良い方法があるはずだと、そういう目線でもって周りを広く観察し、考えてみる。また周囲に自由な人間を見つけ、その立ち振る舞い、気の回し方や交渉の仕方を学んでみる。……そういった「姿勢」が大事なのである。
その「姿勢」を続けることでスキルは身に着く。能力はすべて意志から生じるのである。
もちろん向き不向き、習得の早い遅いはある。しかし、自分の自由を確保するくらいのスキルは、その気になればある程度は身に着けることができる。自分はそう思っている。
また、そのスキルは完璧でなくてもいい。自分の意思を示す上で、少し摩擦が生まれても、ぎこちない交渉であっても。それは単に我儘を押し付けるのとは天と地ほどの差がある。
周囲に気を回そうとした、そのうえで自分のやりたいことを発信した。それはたとえうまくいかなくても、必ず自由に向かう良い影響を与えるだろう。それは大きな前進なのである。

総括

無駄な我慢は止めよう。だけど、我儘もやめよう。我儘ではなく自由を目指そう。そういった話をするだけで、多くの文字数を費やしてしまうことになった。
結局、最初から「できない」と思っていればできるものもできなくなってしまう。我慢はその典型例の一つだと思う。「我慢するしかない」と思い込んでいるから我慢を選択するのだ。しかし、本当は我慢など必要ない。そのことに気づけばまた、新たな道も開けるかもしれない。
なので、あなたも自由への意志を持てば、きっと自由になれるであろう。知らんけど。

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