ぼっち大好き(ただし都会に限る)
私はぼっちが大好きだ。
一人暮らしだし、基本的に日常は一人行動。そのことを心地よく感じている。
友達がいないわけではないが、そこまで数は多くないし、会う頻度も特に事情がなければ年に数回ということがほとんどだ。時間としては、友達やその他の他人と居るより一人でいることの方が圧倒的に多い。
一人は良い。
自分の行動全てを誰に縛られるでもなく邪魔されるでもなく、自分一人で決定できる。自分のペースで全てを進められる。
とはいえ。
私はこれを『現代日本の都会だからできる贅沢』だと考えている。
本来、『一人で居られる』ことは決して当たり前ではないのだ。
ソロ活に必要なもの
現代日本に住んでいると忘れがちであるが、一人行動というのはどこでもできるわけではない。
快適な一人行動には必要なものがある。
それは、インフラと治安だ。
現代日本の都会人はインフラが非常に整っている環境に身を置いているので、それが当たり前だと思っている節があるようだ。電気水道ガス、エアコン、トイレ……公共の設備はそこら中にあって、無料で使えるものもあれば有料のものあるが、お金され払えば大体なんとかなる。
警察でも救急車でも、呼べばすぐに来てくれる。
それが当たり前だと思っているうちは、それに対して何か考えることもないし、感覚として一人で生きていくのになんの不便もないと思っている。
だが、それが当たり前なのは治安良い都会だからだ。
例えば都会の中で倒れたとする。都会の人間は冷たい、などという言説もあるが、なんだかんだで誰か一人は声をかけてくれたり救急車を呼んでくれたりするだろう。通りすがりの人がそうしてくれなくても、例えば駅であれば駅員、施設内であれば店員や警備員などがそういう対応をしてくれるかもしれない。
一方で都会ではなく田舎どころか、自然の中、誰も人のいない場所であればどうだろうか。仮に「田舎の人間が親切」だったとしても、そもそもその場所に人間がいなければ始まらない。
誰もいない場所、あと数時間は誰も通らないであろう場所、そんな場所で独りで倒れたらどうするだろうか? 病気で倒れたら? 事故を起こしてしまったら? 熊や猪に襲われたら?
都会から外に出て広い過疎地域、自然に繰り出せばそんな環境はいくらでもある。そこで行動不能になったとして、携帯電話も使えなかったとして、一体誰かが助けを呼んでくれるだろうか。いいや、誰も呼んでくれない。何せ人が居ないのだから。
自然は雄大で綺麗だが、同時に残酷だ。
一人で行動するということが低リスクでできるのは周囲に潜在的に頼れるあれこれがあるからで、それが一切なくなれば非常にリスクの高い行為となる。
アウトドアでも同じことが言える。例えば一人での登山と複数人での登山ではリスクが全く違う。
例えば登山道で足を挫いて行動不能になったら? その場で救助を呼ぶしかない。しかしそこが、携帯が使えない場所だったら?
もう一人いるだけで選択肢は大きく増える。もう一人が肩を貸してくれて移動できるかもしれないし、電波が通じる場所まで移動して助けを呼んでくれるかもしれない。もう一人の携帯ならキャリアが違うから電波が通じるかもしれない。
インフラではなく治安の面でもそうだ。
スリの標的にするなら複数人より一人の方が良いにきまっている。
一人で大きな荷物を抱えて移動する時、トイレに入るだけでも苦労するかもしれない。かといって荷物を残せばすられる可能性もある。それが複数人いれば交代で見張ることもできるのだ。
集団で行動する際のメリット、強みというのは確かに存在していて、それはインフラが不便な場所や治安の悪い地域でこそそのメリットが効いてくるのである。
「だからこそ」私は普段、一人での行動を好む。
それが、現代日本の都会でしか享受できない贅沢だと知っているからだ。
限られた環境の中でデメリットを受けることなくメリットを享受できる、この今の日本という国に生まれた幸運を得られたからこそできる贅沢。これを存分に享受していきたいと思っているからだ。
が、いつまでのこの便利と平和が続くとっも限らない。
今は一人だが、もしこの平和と利便性が崩壊したら。その時は一人での暮らしを捨て、集団の中で生活する選択肢を選ばなけばならなくなるかもしれない。
その時がいずれ来ることを覚悟しつつ、私はその時まで一人という贅沢を享受していこうと思う。