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キャリー・ミー!~安曇野・松本旅

 キャリーミーという自転車がある。

 重さは約8キロ、折りたためばA4サイズ程度のスペースに置けるという絶妙なコンパクトさが特徴の極小径車である。見た目がおもちゃのようにも見えるため、「そんなもの碌に走らないだろう」と時折笑われることもある。街中を走れば子供に指差されることもしばしばだ。

 しかし、そうではない。そうではないのだ。
 この自転車の特徴は、ひとたび展開すれば、キュートな車体からは想像もつかないようなパワフルな走りを見せつける。どこにそんなパワーがあるのかは分からない。しかし、この体に身をゆだねれば、ありとあらゆる場所に行ける。一緒に行ける。どこまでも行ける。
 小さい体にそんな魅力を押し込んだ結果、キャリーミーは世の自転車愛好家を虜にし続けていた。

 かくいう私も、その愛好家のひとりである。

 たまたまその存在を知ってから忘れられなくなった特徴的な車体は、唯一無二のかわいさがありとても気に入っている。私の所有するキャリーミーはオレンジ色をしているので、私は彼女のことをオレンジさんと呼んでいた。

 さて、そんな私は本日オレンジさんを担いで新幹線に飛び乗った。

 目指す先は長野県松本市。

 たまたま読んだエッセイ漫画にオレンジさんと同一車種が登場しているなんて。しかも、その名前までオレンジ君というものだから、なんて。

 なんて、なんて運命的なんだ!

 気づいたら私はインターネットで新幹線のチケットとホテルの予約をとり、雨が降らぬよう毎日天にお祈りしていた。その結果、前日までの荒れた天気は嘘のように晴れ。
 祈りが通じて本当に良かった。
 せっかくの輪行旅に雨など似合わない。否、それはそれで楽しいが、このオレンジさんには太陽と青空がとてもよく似合う。だから私は天気が晴れだというだけでとても嬉しかった。

 さて、私は輪行初心者なので、事前にお作法を調べた。ものすごく調べた。
 電車の自転車の持ち込みはとても幅をとるので、なるべく最前列か最後尾の席をとること。キャリーミーのいいところは膝の間に挟めば座席に座れるほどのコンパクトさである。だが、混雑している場合はやはり端に避けた方がいい。それは新幹線でも同じことが言え、やはり座席は号車の一番後ろの席となるのだった。

 そして、かわいい車体を見せびらかしたくても一旦は輪行袋へ入れること。これは鉄道事業者の規程に準ずるためルールは異なる場合があるが、今日の電車では全体をすっぽりと覆うようにする必要があった。私は輪行袋も純正品を使っているので、ぱっと見た感じはただのスポーツバッグだ。周りに合わせて擬態してくれるところも私は気に入っている。

 事前にこれだけ準備したらそうそう失敗しないだろう。
 私はぼんやりと流れる車窓からの景色を眺めては、頭の中でこれからの段取りについて整理するのだった。

 まず駅に着いたら、宿泊用荷物が入っているリュックをコインロッカーに預けること。その後はもう一度電車に乗り、安曇野で思い切り自転車を漕ぎまくること。ホテルのチェックインは15時なので、猶予は5時間。効率的に動くぞ。

 朝4時に起床したため、気を抜くと眠気が襲ってくる。前日まで仕事が立て込んでおり、帰宅は23時を回っていた。そこから旅支度を開始したので、実質の睡眠時間は3時間ちょっとだ。むしろよく寝坊しなかったと思う。それだけは自分を褒めたかった。

 少し、寝よう……。
 心地よい揺れに身を委ねると、私は浅い眠りについたのだった。

 ――この時まったく気づいていなかったが、私は重大な忘れ物をしていた。
 事前にルートどりをし、マーカーで線を引いておいた地図。それとことりっぷ。それを家に忘れていたのである。おかげで、道中「記憶よ甦れ」としばしば念じることになったのは言うまでもない。

***

 さて、松本駅に着くと、私は脳内シミュレーションの通りにロッカーに宿泊用荷物を詰め込んだ。コインロッカーは小さいサイズで500円。300円くらいだろうとたかをくくっていた私は思わず「たっっか!」と目玉が飛び出た。だが抜かりはない。このために100円玉をたくさん持ってきたのだ。
 じゃりじゃりと小銭を放り込み、鍵を閉める。ミッションのひとつはこれで終了だ。

 それから大糸線に乗り、穂高駅までさらに輪行である。だいたい30分もあれば着くだろう。

 はやる気持ちを抑えながらオレンジさんを背負うと、なにか違和感がある。

 ああそういえば、時刻表を見ていなかったような。数年前に松本に来た時も同じようなことをしたなぁ。確かあの時は、ちょうどよく電車が来たのでほとんど待ち時間がなかったと思うが――。

 改札を通りオレンジさんを置ける場所まで移動すると、スマホでぽちぽちと現在地を入力した。

「……わお」

 そこで気づいたのだが、次の電車の時刻はなんと一時間後だった。
 盲点だった。地方の電車は一時間に一本しかない場合があるということをすっかり忘れていた。地方出身者のくせに、都会の感覚に慣れてしまったが故の失態だ。
 私はしばらく硬直したが、最終的に「まあいいか」ということにした。旅にはこういう失敗はつきもの。大体にして、私はすでに地図を家に忘れているではないか。むしろ待ち時間が一時間でよかったではないか。下手したらもっともっと長く待たなければいけない場合だってある。
 そう、一時間だけだから――

 そのとき、ぽつんと何かが頬を濡らした。天気雨だった。そういえばほんのり空気は冷たくて、変に上がってしまったテンションを冷ましてゆくかのようだった。
 なんだか物悲しくなって、私は思わず声を上げる。
「ふ、ふんだりけったりだ!」

***

 安曇野に着いてからも天気雨は降りっぱなしだったので、私は駅前の喫茶店でカレーを食べて待つことにした。
 ヴィーガンでも食べられるきのこと豆のカレー、それからどっしりとした甘みのチーズケーキ。オレンジさん、まだ外に出られず輪行袋で待機中である。
 この喫茶店には地域の芸術家による展示スペースが用意され、本日はなにやら雑誌の取材を行っているようだった。老齢の女性が小さな絵画を携えながらにこりと微笑んでいるところを写真に収めていた。

 ほー、と思っていると、ちょうど雨が止んだようだった。
 私はお会計を済ませ、店の前でオレンジさんを展開する。ハンドルを伸ばし、車体を大きく後ろに曲げてやり、ねじで固定してからペダルを下す。慣れれば三十秒もあれば終わる作業である。
 輪行袋を手早くまとめてサドルに固定すると、ようやく外に出られたオレンジさんンも心なしか嬉しそうであった。

 ふと視線を感じて顔を上げると、ほかの観光客がこちらを見ている。この視線は慣れたものだ。むしろ見てくれ、うちの子はかわいいのだ。
 むふむふと鼻を膨らませつつ、私はオレンジさんにまたがると軽やかにペダルを漕ぐ。

 さあ、ようやく私の旅が始まった!

 ……と意気揚々とペダルを漕ぎだして十五分後、私はのろのろと車体を手押ししながら歩いていた。
 脳内のオレンジさんはかなり不満げだが、正直許してほしい。

 事件はペダルを漕ぎだしてすぐ起こった。
 ペダルが、思うように回らないのだ。

「まさか」

 私はうすうす気づいていた。先ほど観光客が見ていたのは、かわいいかわいい私のオレンジさんではないのだと。その後ろに並ぶ――そう、電動自転車だ。
 何せ安曇野は町全体が緩やかな斜面となっている。自転車があればある程度の場所は回れるので、こうして電動自転車のレンタルを行っている店が多い。
 なぜ電動自転車か? ……上り坂が想像以上にしんどいからだ。

 ペダルを漕いでも漕いでも前に進まない、キャリーミーをはじめとする極小径車の弱点・上り坂。私は不覚にも、「ここはそういう町である」ということを忘れていたのだ。

 最初の目的地に着いた時には、すっかり満身創痍となっていた私である。
 だが、ここからはたぶん楽しいはずだ。たぶん。
 だってここは坂の頂上だから――!!!

 とは思ったものの、とりあえず最初の目的地である北アルプス牧場でソフトクリームをもぐもぐしながら休憩したのは言うまでもない。
 なお、もぐもぐしている間オレンジさんは直売所の端のほうで休憩中である。あたりを見渡すと、ここまでやってくるお客さんはいずれも車を使っているようだった。自転車を停めている人など一人もいない。つまりは……そういうことだ。

 ソフトクリームを堪能した後は、少し走ったところにまた目的地がある。ここからはオレンジさんが活躍できる下り坂だ。ただし、極小径車はあまりスピードを出しすぎてはいけない。なぜなら、ちょっとした溝で体ごと吹き飛ぶ可能性があるからだ。

 安全運転、安全運転、と鼻歌を歌いつつやってきた次の目的地は、足湯である。
 道路から少し奥まったところにある八面大王足湯は穂高温泉郷のシンボル的な存在で、だれでも無料で利用できるというとても太っ腹な場所である。
 オレンジさんは駐輪場で待機してもらうとして――またかよ、と言われそうである――私は早速足湯を堪能した。

 疲れた足に染み渡る温泉のぬくもりに、ついつい何時間でも滞在したくなってしまうほどの気持ちよさである。実際は三十分くらい利用したが、その間にも家族連れや同じような旅行客が利用しに来ており、地域の憩いの場というのは本当だなぁ、と実感した。

 そのままだらだらしたい気持ちはあったが、まだ目的地はある。名残惜しいと思いつつ足湯を後にする。

 最後の目的地は、エッセイ漫画でも取り上げられていた場所・CHILLOUT STYLE COFFEEだ。この場所へ聖地巡礼したいがために松本へ来たといっても過言ではない。
 今いる場所からさらに下り坂をすいすい走っていくと、畑のど真ん中で例の電動自転車にまたがる学生とすれ違った。地元民もレンタルするのか、なるほど賢いと思っていると、その目的地は姿を現した。

 カナディアンハウス風の建物の戸を開けると、コーヒーの酸味のある香りが鼻をくすぐる。少し薄暗い店内だが、隠れ家を想起させとても居心地の良い場所であった。そこでふっかふかのソファに身を沈めながらカフェオレを飲んでいると、リラックスしすぎて脳みそがでろでっろに溶けていくかのようだった。
 こんなカフェが近所にあるなんて、安曇野の人々が羨ましい。正直なところ毎日でも通いたいと思うほどだった。

 そこでかなりの長時間休憩をとると、ふと時計を見やる。
 ……おや、と思った。このままではチェックインの時間に間に合わない。
 まあいいか、と私は再びソファに座り、くつろぎタイムに没頭した。

***

 結局ホテルには予定より二時間遅れて到着した。(なお、事前に遅れる旨連絡済みである)

***

 旅二日目はほんの少しの寒さで目が覚めた。

 春先とはいえ、早朝はだいぶ冷える。私が住む横浜の気候とはまた違った、山間部の澄んだ冷たい空気が頬を冷やしていった。
 今日はオレンジさんに乗って松本観光をする予定だ。天気は晴れ。雲一つない、すがすがしいほどの晴れ。これ以上ない、最高の自転車日和である。

 私は松本駅前でオレンジさんを組み立て――例によって、組み立てている様を通りがかりのタクシーの運転手にまじまじと見られることとなった――、輪行袋をサドルに引っ掛けた。
 心なしか、オレンジさんも嬉しそうだ。

 さあ行くぞとペダルを強く踏むと、軽快に足が回—―ると思ったら想像と違った。

 というのも、これについては若干の解説が必要である。
 キャリーミーをはじめとする極小径車は、そのタイヤの小ささから体に受ける衝撃が大きい。ちょっとした溝なんかにもつまずいて落車することがあるので、じゅうぶんに気を付ける必要がある。
 長野県松本市、城下町というだけあって、松本城までの道のりは美しい石畳が敷かれている。

 さて、そんな自転車が石畳を走るとどうなるだろうか?

 正解は、
「うおおおおおおおおおおおおおお」
 脳天が揺さぶられるほど小刻みな衝撃が全身を襲う、だ。

 工事現場のドリルよろしくガタガタ奥歯を揺らし、ようやくたどり着いたその場所は、これぞ松本市。松本城である。

 入口に駐輪場があるのでオレンジさんを駐輪し、ここからは徒歩での攻略となる。

 松本城はかつて一人旅をした際にも訪れた場所だ。調子に乗って城の中に入ったら、城を出るころには足がガッタガタになるくらい乳酸がたまりまくったという非常に恐ろしい場所でもある。今回はオレンジさんに乗れなくなると困るので、城の中までは入らないことにする。

 すでに横浜の桜は散っていたが、松本の桜はまだまだ見ごろである。
 ついつい嬉しくなってしまい、松本城と桜の組み合わせを撮ろうとカメラのシャッターを切りまくると、ほかの来訪者もまた思い思いに桜とのツーショットを楽しんでいるようだった。

 オレンジさんを待たせているので、そそくさと駐輪場に戻り、お堀の周りをぐるりと一周する。次の目的地は旧開智学校だ。

 が。
 旧開智学校、2023年現在、建物の老朽化に伴い絶賛工事中であった。

「もってるねぇ」
 私は門の隙間から建屋を眺めながらシャッターを切る。これはむしろレアな体験かもしれないと思うのだった。
 きっと、たぶん、オレンジさんは見たことのない景色に期待していたのだ。ちょっとごめん、と思いながら私はUターン。元来た道を戻り始める。

 もしこれが歩きでの旅だったら。
 私は思う。
 きっとひどくがっかりして、疲れて、動きたくなくなるだろう。そういう意味では、オレンジさんが一緒にいてくれて助かった。オレンジさんがいるから、こういう失敗も「まあいいか」で許せてしまう。気持ちをほんの少し和らげてくれる、それがキャリーミーのいいところなんかもしれない。

***

 来た道を戻ってからが少し大変で、
・繩手通りに遊びに行こうと思ったら朝早すぎて店が全く開いていなかった。
・SNSのフォロワーさんから教えてもらったあがたの森に行ったところ、某ポケ〇ンGOのイベントの日だったらしく大量の人間がスマートフォンの画面を見つめていた。何らかの宗教のようだった。
 おおよそこんな体験をすることとなった。オレンジさんは文句も言わず一緒に走ってくれた。

 途中トイレに行くついでに美術館に寄り、常設展を眺めたりもした。
 他人の精神世界を眺めるとこんな恐怖を感じるのかと、オレンジさんのもとに戻った私はしばし放心状態になっていた。

 昼食は古民家カフェのような場所でカレーを食べた――そういえば昨日もカレーを食べたが、カレー好きなのでいいことにする――。ずいぶん雰囲気のいい店だったので「ほお」「へえ」とインテリアを眺めていたら、本棚に並べられていた本は「山男たちの死に方」だった。他人の精神世界を眺めるとこんなにも恐怖を感じるのかと、オレンジさんのもとに戻った私はしばし放心状態になっていた。(2回目)

 こうして私は、松本の街をオレンジさんとともに駆け抜けた。
 そして今は喫茶店で新幹線の電車が来るまでと、スマートフォンを使いこの文章を書いている。
 私がこの文章を書こうと思ったのは、少しでも、たくさんの思い出をオレンジさんを通じてなにか形に残しておきたかったからだ。
 オレンジさんは、私だけでは見えない世界を見せてくれる。一緒に連れて行ってくれる。そういう存在だ。
 少し重たいけれど、一緒に来てよかった。次はどこに行こうかな。

 ああ、最初の一文はなにを書こう。
 そうだ、やっぱりあれだ。
 私はポチポチとスマートフォンの画面に指を走らせた。

 ――キャリーミーという自転車がある。

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