正しく勘違いできる環境┃自分が生きやすくなるには
あぁ、そうかもしれん、と思う投稿をXにて発見。
(表示されていないかもしれない。表示の仕方を教えてほしいまである)
勝手に引用して申し訳ないが、ちょっとこれについて思ったことを綴りたい。
長めに綴るため、ぼちぼちお付き合いいただきたい。
私の中で、志賀さんはQuizKnockのメンバーとして認識している。
志賀さんも様々なご経験があるのだと、noteを拝見していて思う。
「あ゛…わかる……」と思う瞬間がいくつもある。
その中でも特に、ぐわんと頭を持っていかれそうに、それでもストンと納得した感触を得られたのが、先程の投稿である。
私も完璧主義のきらいはある。仕事でもミスをゼロにして報告しなきゃと日々根詰めている。正直しんどい。誰だってミスするのに。
そんな私が完璧主義になるきっかけは、純粋に喜ぶことが出来なくなった中学1年生の第1回定期考査明けである。
まさかの99点を取った時、周りから「えーやば」のような言葉を受けていた。しかし、その時私は何を思ったか
「いやいや、まだまだよ」
と喜びのリアクションを選べなかった。
実際に100点取った人は1人いたし、何かを悟ったところもあるが、結果重視だったその頃の風潮もあったのだろう。
その後、テストで点数があまり取れなくても一喜一憂する事は特になかったが、点数が低いと怒られるかもとビビり、高得点が取れると安堵感を抱くようになった。あ、完璧主義に近いような何かを感じる。
その後進学した高校は、いわゆる特進クラス。偏差値が少しでも上がって、難関大学合格を目指し、授業中問題が解けなければ怒られる。今だとハラスメントまっしぐらな教育指針だったと思う。怖ぇ
どれだけ頑張っても結果が伴わなければ認められない。その中で大学受験を控えた秋口、私は精神的不調に陥った。
ここでは不調については記さないが、あの時、うまく結果が残せなくても取り組みを評価してもらえてたら、第一志望の大学に合格していたかもしれない(実際通ったのは第五志望、いわゆる滑り止め)。いや、もっと理想の人生を選べたかもしれない。もっと自分がやりたかった事に取り組んでいたかもしれない。無いものねだりをしてしまう。
今の仕事も、上層部へ報告しなければならない仕事でミスが多く見つかり、ありえないほど溜まっている。そもそも引き継いだ時点から遅れていたので、もう仕方ねぇよと思いつつ、ちょこちょこ焦ってる。報告やり直しやら、うまく仕事を回せてないことへのネガティブな感情やら、自責思考やら、色々絡まっている感じがする。
社会人は日々動きがあり忙しい。誰かに自信を付けてもらうことは難しい。それでも客観的に何かしら与えられることで動けることもある。些細なことでも、こねくり回されるくらい褒められたい時もある。
殺伐とした世の中だけど、「自分はやれる」と正しく勘違いさせてくれる環境を見つけたいわね。