何故MASCを設立したのか?
現在、私はNPO法人MASCの理事・事務局長を務めています。年収は、会社員時代と比べて200万円以上減りましたが、その会社員を辞めてまでMASCを設立した理由は、私の父の影響が大きいからです。
私の父は、元予科練航空兵でした。1945年8月16日に特攻が決まっていたのですが、1日前に終戦となり、生き残りました。その時、父は「死に損なった」と本気で嘆いたそうです。なぜ「助かった」と安堵しなかったのか。それは、多くの苦楽を共にした戦友との約束があったからです。父は、戦友に「俺も直ぐに行くから靖国で待っててくれ」と伝えていました。
父は、生き残った者の使命として、戦友を慰霊し、その経験と資料を後世に伝えるために、自宅地下に「予科練資料館」を設立しました。父は96歳で亡くなるまで、ずっと戦友の顔を頭から離さなかったと思います。
私は、父の姿を見て育ちました。そのため、私も何か「人の役に立ちたい」という気持ちがベースにあります。そもそも、仕事ってそういうものなのかもしれません。また、サラリーマンの性格には向いていないのかもしれません。もし父が特攻に行っていたら、私は存在しません。であれば、残りの人生、何か人の役に立つ仕事で人生を全うしたいと考えました。
私は映像業界で働いていた時に、聴覚障害の方が「死ぬまでこの映画を観ることができない」と訴えているのを耳にしました。当時、音響エンジニアをしていたので、自分の仕事の結果が届かない人がいることも分かりました。そこで、バリアフリー映画の視聴環境整備は今後必須となると考え、映像業界、障害者団体などに声を掛けて、その懸け橋となる「MASC」を設立しました。(虹のマークは“懸け橋”の意味が込められています)
MASCは、バリアフリー映画の普及に取り組んでいます。現在、映画館で実施している「メガネで見る字幕ガイド」「スマホで聴く音声ガイド」は私が考え、10年掛けて普及させたものです。そして字幕・音声ガイドの制作、上映会のサポート、字幕制作ソフト開発などの活動を行っています。
MASCの活動履歴は公式サイトに詳細を記載していますが、バリアフリー映画の普及については、世界的にも成功した例ではないかと自負しています。もちろん、これは私一人の力ではなく、多くの方々の協力があってこそです。
父は、大の世話好きで、知らない人にも積極的に声をかける人でした。東京に来たときには、草刈りをしている人に「なにしちょんのー」と笑顔で声をかけていました。また、毎朝近くの横断歩道で子どもたちを見守り、PTA会長、町内会会長も歴任していました。父のような「ひとたらし」的なものが私にもあるのかなぁと、最近思うようになりました。そうでなければ、多くの方々を巻き込んだMASCの活動は、ここまで成功しなかったと思います。
私は還暦を過ぎ、一般的には定年を迎える年齢になりました。しかし、NPOには定年がありません。そのため、このまま死ぬまでMASCの活動を続けることになるでしょう。目が見えなくても、見えにくくても、そして耳が聞こえなくても、聞こえにくくても、映画・映像を自由に観られるように。
そんな当たり前の社会を目指します。