実家に帰ったら、生徒会長は髪を染めていたし、スーパーはつぶれていた。
久しぶりの実家
大学生になった私は、五か月ぶりくらいに、海が見え、山が囲む故郷へと帰った。バスを二本乗り継いで、県の端から端まで。二本目のバスは私だけを載せて東へと進む。おそらく何年後かには廃線になってしまうだろう。
一人でバスを占有する優越感と、実家に帰れるうれしさと、確実に寂れていっている地元への思いがごちゃ混ぜになって、なんだか気持ち悪くなった。
実の家と書いて実家。なんだか違和感がある言い方だ。私が今住んでいる寮は私の実際の家と書いて実家であることは間違いないのに、偽物だってどっかで思っているってことだろうか。それとも、わたしの家はあの家しかないのだから”実”ととってつけることが、過剰な表現に思えてしまうのか。実家に帰る。やっぱりなんだか引っかかる。
バスは市の端っこにちょこんと止まってすぐ次の町へ行ってしまう。バスの停留所というのも、周りは山の中でそこから実家に歩いて帰ろうものなら、2,3時間は要するだろう。そういうわけで、おじいちゃんを呼んだ。そして当たり前のように、海鮮丼を食べた。おじいちゃんがメニューを勝手に選んで、すぐ食べた。おいしかった。
また帰った時には多分、また海鮮丼だ。あと4年もする頃には、海鮮丼の臭いが、地元の浜の潮風の臭いを追い越して、海鮮丼に懐かしさが宿るかもしれない。そんなストレートなおじいちゃんの愛情に迎えられながら、私は帰省した。
実家は大して変わっていなかった。そりゃそうだ。たった5か月私がいなかったくらいで、あの模様が変わってしまったら何にも信じられないじゃないか。小さな丘の上にあって、緑に囲まれていて東にはバイパスが南には小さな結婚式場が見える。そんな我が家は、変わらない木の臭いと忌々しいスギ花粉をまといながら私の前に再度姿を現した。
ただし目をみはれば変化はたくさんある。レンジは変わっていたし、便座カバーが導入されていた。シャンプーも変わっていたし、私の部屋は妹の部屋になっていた。(これはシンプルにちょっと悲しい😢)
今回の帰省の目的は、家に帰るということと、友達と遊ぶということ、金を節約すること。この三つだ。
スーパー
家に帰った。この目的は達成された。今までの高校から家への帰り道とは全く様相の違う帰路ではあったが、危なげなく完了したわけで。でもやっぱり、きれいとも汚いとも言えない川沿いを、向かい風に吹かれながら帰らないと、帰宅したようには思えなかった。
少し時間があったので2時間ほど散歩をした。少し歩くと国道があって、国道にすり寄るようにチェーンなお店が並んでいる。私の家から一番近いスーパーもその中の一つにあった。ゲームセンター、洋服屋さん、自転車屋、フードコート。まだインターネットを知らなかった私にとっては、大体なんでも合って見れて知れる場所だった。スーパーという認識でずっと育ってきたが、あれは多分デパートとか、総合商業施設とかいうやつなんだろーなーと今気づいた。でも私にとってはスーパーなので、スーパーと呼ばせていただく。
実は数年前にでかめの地震があった。断水にもなっちゃったし、電気も切れた。もう天災に慣れきった私にとって大した脅威ではなかったけれど、その地震はたくさんの廃墟を生み出した。前々から傾いている家はもっと地面と平行になったし、毎日通っていた橋はまだ直っていない。そんな被害者の会に仲間入りしてしまったのが先ほどのスーパーである。
その地震でそのスーパーは、寿命を迎えた。いや、老衰していったが正しいかもしれない。地震の翌日、学校が休みになった私は、情報収集のためにそのスーパーに出向いた。
そうすると、要件をまだ呑み込めていないような店員のおばちゃんたちがいて、「なーんもわからないけど、来週あたりには営業再開するんじゃないかな」と言っていた。今に思えば希望的観測が過ぎるのだが、そのスーパーが思い出の一部としてしみついている私は、もちろんその言葉を信じ切った。今でも何なら信じている。
本当は前の姿のままでも、営業できたけれど地震が起こったことを節目に建て替えようとしているんじゃないかとか。
まあ、そんなわけもなく普通に老朽化の一途をたどっていて、いずれ死ぬ定めにあったそれを、猛スピードで地震がひき逃げしていったようなものなんだろうな。かといって、その死期を僕たちは認識できていたわけがない。東日本大震災にさえ耐えた、あのスーパーがそののこりっぺで倒れるなんて思ってもない。
そんな現実を突き付けられたのが、いまだ。帰省して、そのスーパーの跡地を見た時だ。
あの地震の日から、ずーーっと眠ったように。スーパーは一台の車も受け入れることなく、眠ったように。
私は、ただ眠っているだけだと思っていた。僕はずっと、元の形を保ったまま、工事か何かをしているんだろうと思っていた。
違かった。
すべて更地にして、新しいものを作るらしい。
多分、あの時はいていた靴は、あの東口にある店で買ったものだし、WiiUも、今使っている自転車もあのスーパーで買ったもの。友達と待ち合わせしなくても、会えたのも。パン屋の試食のなんとも言えない味。ゲームセンターに集まる暇なお年寄り。なんだか暗すぎるフードコート。一回も食べたことのないレストラン。駐輪場の横にある、自動販売機と証明写真機。赤すぎる夕日。どう歩いたらいいかわからない駐車場。
思い出したらきりがない。何を買ったとか。何時に行ったとか。誰といったとか。誰が働いているとか。なんとなく全部思い出せる。
いつか忘れてしまう。忘れたくないという思いだけがのこり、スーパーが変わらずそこにあったら、忘れないのに。スーパーはもうなくなってしまったから、いつか思い出せなくなってしまう。
だから、記す。忘れないように。もっと詳細に記す。
お父さんと、割引の寿司を買って帰った。スイミングの帰りにおじいちゃんがお菓子を買ってくれた。お母さんの買い物についていってバカつまらなかった。宝くじコーナーにいた暇そうなおばさん二人。たまにあるガラガラでティッシュが当たった。何回かテナントが交換になっているあそこ。ゲームコーナーの横には陶器が売ってあった。精算所の近くに、印鑑が売って会って、何かのために買った。二階のおもちゃ売り場でベイブレードの大会があって、出場した。なんか買った気がする。百均で騎馬戦の道具を買った。スマホのケースとお菓子も買った。ゲーセンの前にジュエリー屋さんみたいなのがあった。絶対そこじゃないだろ。エスカレーターでよく知り合いとすれ違った。端の端の呉服屋で、お母さんと制服の丈をそろえてもらった。ゲーセンでヤンキーたちがいて、怖かった。妹が好きなお店がつぶれた。パティーズとか言ったっけ。そのつぶれたテナントには、何も入らないままだった。たまに、帰り道を変えた時に前を通った。ぶっきらぼうに生えている気の間から、歩いて通るだけの道があって、そこからクリーニング屋の隣にある駐輪場へ。何をするでもないけど、ぐるぐるーっと歩いて回って、お菓子とかたい焼きを買って。たくさん味があるかき氷屋さんもあったな。西口のほうには酒屋があって、お父さんが公会堂の集まりのためにお酒を買ってた気がする。そのスーパーは地域の夏祭りにも協賛してくれて、スーパーが寄贈してくれた折り畳み自転車がビンゴの景品になっていた。私のおじいちゃんがあてた。もう、おじいちゃんは危ないので自転車にはのっていない。新品のゲームソフトは全部あそこで買った。服とか下着とか文房具とかも多分そこ。どの季節に行っても変わらない雰囲気だった。大事だった。私だけじゃなくて、私の町に住んでいる3万人。小さな町の大きなスーパー。町に住む全員にとっての大小問わず、人生の舞台だったに違いない。
がれきのかけらもないスーパーの跡地に、ケンタッキーだけが営業していて。チキンを買って食べて帰った。家でのお母さんのご飯もおいしかった。どっちもおんなじくらいおいしかった。
友達
次の日には、高校の同級生とココスに行く予定があった。
一人は生徒会長。まさに才色兼備といった感じで、生徒会超然とした雰囲気を生徒会長でない時期から身にまとっていた。しかし、話してみると意外とふわふわとしたやつで、わたしはこいつによくちょっかいをかけていた気がする。こいつは浪人という道を選んだ。息抜きだといって、参加を表明してくれた。
もう一人は大男。大男かつ数学人間。勉強ができたし、どんなことも知っていた。そんな奴は人気者になるべきだが、性根が曲がっていて、そうはならなかった。いっつも私とつるんでいて、何かしらの悪口を言って意味の分からない問答を繰り返した。楽しかった。会えるのが楽しみだった。
そんな二人と12:30分に現地で集まる。私は親の車を借りてココスに向かった。
前までは自転車でぜえはあ言って走っていた20分を、人を殺す可能性と引き換えに10分で。現地集合ではあるが、終わった後にみんなを家に送る役割があったので、多少抵抗がありつつも車で向かった。自分の体が左に多少偏った形で大きくなったような気がしてならない。エンジンの吹かす音はいつになっても、私の右足が要因でなっているものではなく、いつも前に座っている大人のものだという認識が抜けない。青は安全と教えられたはずなのに、今は怖くて仕方がない。いつか、青の安全性を見知らぬうちに再定義して、死ぬこと殺すことが身近にあることを忘れてしまったらと思うと怖くて仕方がない。
私の住んでいる町で一番人気の店。それがココス。ファミリーレストランで長時間入れる場所はココスくらいしかないからだ。店の中に先に入っているらしい二人は奥のほうの席に座っていて、大きな背中で気づくことができた。だけど、大男の向かいにいる奴は、なんだか髪が茶色に染まっている。
話してみたら、かわっていない。話し方も、感じもなんにもかわっていない。話す内容は、くだらない先生の文句から、新しい世界のあーだこーだに変わったけれど。あと、生徒会長の髪の色も変わったけれど。
たいしたことないのかもしれない。みんな染めている。うちの母ちゃんだってすこし茶色に染めているし、街を歩けば変なことではない。
でも、僕は生徒会長のあの黒髪が好きで、あの頃のままで話したくて。
好きなバンド SUNNY CAR WASH の それだけって曲がある。この気持ちはまんまあの歌。私なりの言葉で伝えるより、私は"それだけ"をあなたに聞いてもらって、私の気持ちを知ってほしい。
SUNNY CAR WASH をなぞった後、二人を家に送った。思えば家も知らなかった。出会ったとき私たちは高校生だった。あの教室で、笑っていた。
モラトリアム
学生をやっております。一人暮らしをして、授業に出て、バイトをして、サークルをして、学生をやっております。
そんな学生の私は、節約のために実家に帰省いたしました。一人暮らしは金がかかる。実家にいれば全部タダじゃん。そういうわけで、一か月の家賃の半分くらいの旅費を出して、海の見える町に帰ってきたわけです。
実家にいる際にすべきことがあります。まず、親戚周りに挨拶をしましょう。これで来月の生活費は事足ります。
その次に、なるべくものを食べましょう。お菓子を貪り食い、白米をはくほど食べましょう。ひもじい思いを忘れるように、幸せに浸りましょう。
最後に、堕落しましょう。実家で勉強するために持ち帰った本など、読みません。大きなテレビに映した、詰まらないテレビを惰性で見ましょう。
あと、この幸せな時間を享受できるのは三年しかありません。三年たてば、私も責任というオーダーメイドのスーツを着て、社会に染まっていかなければいけません。そう思うと憂鬱で。
考えてみれば、こうやって実家でだらーんと宙ぶらりんな生活を送るのは100も行かないかもしれない。そう思うと、より質感をかみしめながらソファに体をうずめることができる。
まだ私は被扶養者だ。この特権は今のうちに使いつぶしておかないと。だからと言って、考えるのをやめるのは違う。考え続けながら、怠惰と共存すべきなのかもなー。
大学生になって、自由を手に入れた気がしているけれど、自由では超えられない大きな壁があることを確かめるためにしか使えない。
自由を無駄遣いすることがモラトリアムなのかなー。私はこの自由期間を何に使う?あなたたちはどう使った?
例えば、有名な起業家は自己研鑽に使ったという。
例えば、テニスサークルに励んだ彼はガクチカとかほざく。
例えば、サブカル気取りのロックンローラーはあの時が一番楽しかったという。
じゃあ僕は?
実家の静かなリビングに、時計の音が響いて頭が痛い。
何もできない気がしながら、何にもしない。それでいいのかと問いただすけれど、もう夢見がちな少年はどこかに引っ越してしまったらしい。
私は今実家ではない家でこのエッセイを書いている。書いている今、泣きそうになっている。
話の途中だけれど、僕はどうしても、なんにもなれないなぁと思ってしまって。いっつも中途半端で、あこがれるだけあこがれて。このまま、誰かの人生にでっけぇパンチをぶち込むことなく人生を進めていくなんて嫌だ。才能が欲しい。苦しい。努力で補え?努力する才能だってあるんだよ。信頼する才能だってあるんだよ。その才能がないんだよ。素養がないんだよ。もう19年生きてきてわかるけど、ここから劇的に人生なんて変わるわけない。もし変わって、私が偉そうな口をたたいていたらそれは私私じゃない。死ぬ前に、あのロックンローラーみたいになりたい。暴論を音楽で正論にして、誰かを殺して誰かを生かしたい。自分を生かし続けるのだけはごめんだ。涙が止まらん。ふざけんな。
ふざけんなまじで。
あああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
こんなの書いたところで、誰も見てくれないし、私に才能なんてないし、一丁前にいいねの数だけ気になるし。何にも生み出さないんだよバーカ。なのにやるんだろしっかりやるんだろ。こうやってタイピングの指を止めないんだろ。どういうつもりだよ。マジで。
ただここには、悩み続ける僕がいる。僕がいる。僕がいるってことは確かだ。この僕が明日の僕をぶん殴って、少しずつうごいていきゃあいいなぁぁぁぁ。あわよくば、君のこともぶん殴って、お話しできたら最高だよな。
P.S その髪色似合ってねぇぞバーカ!!!!!