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児童・生徒指導109「負の感情を認め合う」
皆さんは負の感情を表に出すことはできているでしょうか。私は得意か、不得意かと言われれば不得意である。「大丈夫?」と聞かれると、「大丈夫です。」と答えてしまうし、「何かある?」と聞かれても、「いや、ないです。」と答えてしまう。ちょっと心に引っかかることや悩み、迷いなどがあっても、それを口に出せないこともしばしば。溜め込みすぎるのはよくないとは思うが、何とかほかの面で(?)バランスをとって、やっている。(これはそもそも改善していきたい。)
学級における子どもたちはどうだろうか。負の感情を表に出せているだろうか。率直に言えば、周りに「助けを求める」ということだろう。もしくは、助けを求めているわけではなくても、自分の置かれている状況をほかの人に知ってもらうことで安心につながるということかもしれない。
学級において、負の感情を表に出すということにはとても大きな意味があるだろう。
まず、精神的な窮屈さについて。
負の感情を表現できるかできないかによって、その子の過ごすその空間が広々と感じられるか、狭く感じられるかが全く違ってくる。心に湧き上がってきたものを閉じ込めないといけない空間では、当然それだけで窮屈なものになる。物理的に広くても、精神的なところから窮屈さはいくらでも増してくる。「自分の感情を知って欲しい」という思いを抱えながら、閉じ込めなければならないのは苦しい。
そして、人間関係について。自己開示は、心的な距離を縮めることに大きな影響を与える。置かれている心の状況を表現してくれることによって、周りの人も、その子のことを理解することができる。その子のことが「何もわかららない」という状態がいちばん怖く、近付きにくさを感じてしまう要因になる。
子どもたちに対してできることは、負の感情を出すことを怖がらなくて済むように働きかけること。アプローチの仕方は様々にあるだろう。教師が自ら開示していくこともひとつの方法かもしれない。正の感情だけでなく、負の感情を表すことも認められるように。受け止め、受け入れられるように。それが当たり前、の空間になるように。「それでいいんだよ」を伝わるように。負の感情を押し殺すことが正しいというわけではないと伝わるように。負の感情も大事していこうということが伝わるように。
では、いつでも負の感情を出していいの?
もちろん、そうするべきではないことが求めりることも社会においてはあるかもしれない。しかし、負の感情を一時的に抑えることと、負の感情を大事にしないことは同義ではないと思う。負の感情を我慢して、頑張った時間があったとする。その後で、「自分、あのとき頑張ったな。でもやっぱりつらかったな。」などと、負の感情を抱いた自分を認めてあげることはできる。我慢することのみを正当化して、押し殺せた自分を褒めるのではない。一時的に乗り切った自分はよくやったと認め、つらいと感じた自分も認めてあげる。「ありのままの自分」を認めてあげることはできる。
そんなひとりひとりの在り方を学級でもつくっていくことはできないだろうか。負の感情に強い子と、そうでない子がいる。性格も個性も様々な子どもたちが一緒にいるからこそ、様々視点で励まし、認めあっていくことができる。
負の感情も大切にすることは、あらゆる自分を大切にするということ。
お読みいただき、ありがとうございました。