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つぶやき程度のこと「『正解がない』を、その言葉で片付けるのか」

様々な発信や情報にあふれている。私のアウトプットもごくごくごくわずかだが、その中のひとつになっているのだろう。


「正解のない子育て」や「教育に正解はない」とよく言われる。正解はない、だから最適解を目指したい、と。もちろんそれはそうすべきだと思うし、教育に携わる者としてそう在りたいとも思う。


しかし、都合よくこの「正解がない」を使ってはならないと思う。


「『正解がないのなら、なんでもあり』ではない」などということは当たり前ので、そういうことを言いたいわけではない。考えに考え抜いて、目の前の子どもたちと学級を見て、「これがいい」と思って下した決断を、思い描いていた結果でないからといって「まあ、正解はないからね」という自分を慰める言葉に使ってはならないと思うのだ。どこか「正解がない」ということを安心材料のように用いてしまうことがあるのだ。(もちろん私も。)


下した決断に誇りをもちたいし、すべきであれば真摯に反省もしたい。そのように思うためには、判断を下した後よりもそれ以前の方が重要になるのかもしれない。


そんなふうに思う反面、教育や子育ては「人間」がするものだからこそ、人間の弱い部分も「できなさ」の部分も大事にしたいとも思ってしまうの。心がくじけてしまうこともあり、子どもがそういう大人の姿を見ることにも意味があるとも思う。そういう人間くさい大人に対して、尊敬と信頼と愛着のようなものを同時に感じるものかもしれない。また、「この方法はとてもいいよ」と言われるものに安易に飛びつきたくなる気持ちもとても人間らしい。


教育に携わる者はどう在るべきなのか。「正解がない」とどう向き合っていくべきなのか。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。