14.文章を食む
序:
平野啓一郎さんに倣い、後から添えた序文です。
この記事は一度固定記事に設定しました。固定記事にするなら、私がnoteや読書を楽しむ基本線を書いたこの記事かなと思って。
そのタイミングで、見出し画像も変更しましたが、最初の画像も気に入っていたので、文末に挿入しています。 2024.11.15文章変更
noteで、職業としての作家でない人の文章を読むのが、こんなに楽しいなんて正直思っていなかった。(本当に失礼な話)そんな時、文章を読むことについて共感できる記事をみつけた。
黙読で本を読む時、作者や登場人物に応じた声が聞こえてきて、ゆっくりと本を味わう感覚の話。私もそんな感じある。だいたいが、脳内会話で、独り言が聞こえている状態ではあるけれど…。
そして、読んでいる時の状態を思いながら、読む内容についても一考察。
よく読まれる記事って考えた時には、やはり、情報量があったり、メッセージ性がある要素は大事な気がするけど、私にとっては、文章から漂う雰囲気はかなり重要なファクター。それゆえに、プロでないのがまたいいのかもしれない。声や人物像もおぼろに浮かんできて、その人が目の前にいて会っているような気分にもなる。(そう思われて嫌な人はごめんなさい)
そんなある日、文章を読んでいて、独特のリズムと聞こえてくる機械的な音声に、ああ…と思うことがあった。AIの手がかかっているものだと思った。そのまま最後まで読み切る。確かにムダのない文章。そして、私が文章に求めること、冗長さを大事に味わっていることに気づく。
AIの手によった(と思われる)文章。では、ダメかと言うと、不思議と内容自体は他の記事よりもよく残っている(シンプルな内容ではあったが)ただ無味乾燥なことは否めなくて、その分クリエイターのキャラ設定が必須とも感じられる。
自分の仕事の中で、子どもに気をつけてほしいことなど伝える時には、感情を交えず、淡々と伝えるということがある。それを自分が受ける立場にまわった感じ。確かに有無言わず受け取るしかない。こういう気持ちで受けてたかと複雑な気持ちにもなった。そこを補うのは日頃のラポート(信頼関係)になるか。
そんなこともありつつ、朝、昼、晩とノートのアプリを開いて私は記事を読む。それはさながら、お弁当箱や冷蔵庫を開けて「何が入ってるかな」と楽しみに見る感じでもある。記事が並ぶタイムラインは、回転寿司のように思うこともある。今日は新しいお皿がなくて、同じのがくるくる回ってるか…では、他の界隈をのぞいてみようかと探検に行く。
電車の中で、気に入ったnoterさんの記事をハシゴしてつまんでる時は、いくらでも食べられる食材を食べてる気分。反芻もしてみたり。まるで紙を食べるヤギみたいだなと思いながら、今日も私は文章を食む。