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「わたしは、あの人だったかもしれない」
「時間を経るにつれて、「胃のあたりがへこむ」「ボーッとする」「倒れそう」「胸がさわさわして、無性にイライラする」「胸が締まる感じがして、悲しい」などのいくつかの身体・心理感覚だけが徐々に大きくなっていくことで、どうもこの状態が「おなかがすいた」と名づけてよい感覚なのかもしれない、とまとめられる段階がくるという感じである。
(NHK出版 生活人新書、p17)
筆者の綾屋紗月さんはアスペルガー症候群(現在東京大学先進科学技術研究センター研究者支援員)、熊谷晋一郎さんは脳性まひで電動車いすユーザー(現在東京大学先進科学技術センター特任教授)です。
私はこの本で、発達障害のある人の視点をリアルに知ることができました。
さまざまな情報が次から次へと入ってきて、それをうまく処理することができない。
しかも、それがいわゆる「健常者」と言われる人にとっての何に相当するのかがわからない。わかってもらえない。
「健常者」が、当たり前に感じる「おなかがすいた」という感覚は「空腹」という言葉に難なくつながります。
感覚が言葉につながるということは、その感覚がある種の意味を持つということでもあります。
言葉は概念として、一般的には普遍性を持つと考えられています。
けれども、感覚が言葉とつながらなければ、他の人と意味を共有することは非常に困難となります。
綾屋さんが「胸がさわさわして、無性にイライラする」と伝えても、他の人は「おなかがすいた」と理解するのではなく、「何か嫌なことがあったのか?」と考え、「何があったの?」と聞き返すかもしれません。
綾屋さんが「空腹」という言葉を持っていなかったのではなく、今、この時の感覚が「空腹」という言葉(意味)に繋がるのにかなりの時間を要するわけです。
そのことを理解していないと、私たちは見当違いの対応をしてしまうだけでなく、最後には「この人の感覚はわからない」とあきらめてしまうかもしれません。
その様子を見て、綾屋さん側の人は絶望し、ときにはパニックを起こしてしまうことも起こります。
子どもであればなおさらでしょう。
教員は、日常的に発達障害のある児童生徒と同じ学校で生活しています。
ところが、実際に関わる教員は限定されていることも少なくありません。
ときどき交流学級で授業を受けるときしか目にしないという教員もいるでしょう。
それが悪いというわけではなく、かかわりが少ない人ほど、綾屋さんのリアルのようなことが、特別支援学級の子に起きているかもしれないということを頭においておかなければ、彼ら・彼女らを悲しみの淵に追い込んでしまいます。
「言葉にならないもやもやしたわからなさを訴えると、教師の多くは「そんなのあなたのせいでしょ」とあきれたように笑いながら私をしりぞけた。はじき出される経験が続くことで、「そうか、私が全部悪いのか」と思ってのみこむしかなくなっていく。」
同著には、こうした発達障害者側の感じ方がふんだんに書かれています。
「健常者」と呼ばれる私たちは、意識して知ろうとしなければ、その感じ方はいつまでもわからないままです。
私はここまで、「健常者」という言葉を使いましたが、綾屋さんに従えば「障害のある側」との違いは偶然でしかないのです。
たまたま、大多数の人が感覚的に理解している言葉を持っているというだけだと言いかえることもできるのです。
「「固有名を持ったまま匿名性も生じる」という状態が悪いという意味ではない。むしろそれが二重性として働くことで、「ちょっとした偶然の成り行きで別の人生を歩んだが、わたしは、あの人だったかもしれない」という差異の「偶然性」とでもいうべき感覚の基礎になっているように思われる」
私は便宜上「健常者」「障害者」という表現を用いました。
でも、人が「健常者」とよばれるか、そうでないかは「ちょっとした偶然」でしかありません。
それは、「健常」や「障害」という垣根などとは関係なく、人が人を尊重する普遍的な視点なのだと思います。
「わたしは、あの人だったかもしれない」のですから。