亡弟子智泉のための達しんの文

広大で限りない真理の本性(性虚)は、すべての原因や条件(諸因)を超越して、静かで動くことがありません。一方、煩悩に満ちた迷いの海(染海)は、多くの条件(衆縁)に影響されて起こったり消えたりします。このため、一瞬の迷い(妄風)が吹けば、心の深い谷に波が打ち寄せ、十二因縁が働くことで、生死の苦しみが夢のように現れます。

迷いの心(識)は、三界(欲界・色界・無色界)を牢獄に変え、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天)の世界を焼き尽くす炎となります。無知や迷い(無明)は、亀や鶴のような長寿の命をも奪い去り、万物が変化して滅びる理(異滅)は、蜉蝣(かげろう)のような短命な存在をも打ち砕きます。私たちの存在の儚さは、まるで浮かんでは消える雲のようで、現れたり隠れたりする様子は泡のようです。

天に生まれ、喜びを味わうこともあれば、地獄に落ちて苦しむこともあり、人間や動物に生まれ変わり、喜びや悲しみに満ちた状態を経験します。このように、私たちは輪廻の中でさまよい続ける幻のような存在です。ああ、なんと悲しいことでしょうか。仏の悟りから遠く離れた世界に生きる私たちは、覚りにどれほど遠くいるのでしょう。

ここで、仏陀(覚王)は、人々の迷いを哀れみ、救おうとされます。菩薩たちは忍耐の力(忍辱)をもって、人々を助け、正しい道へと導きます。広く教えの網を投げて、迷いの海で沈む魚を救い、高く法の網を張って、誤った方向に飛び去ろうとする鳥を引き止めます。智慧の刀で煩悩を断ち切り、教えの美味を煮込む鍋で迷いを浄化します。

その結果、人々は法身(仏の本質)、般若(智慧)、解脱(束縛からの解放)の三つの特質を備えた如来となり、常に清らかで楽しい境地で過ごせるようになります。そして、凡夫と聖者が一つに溶け合い、悟りに到達します。この因果を超えた教えの境地(無為の為)は、誰も計り知ることができない、不思議なものです。

さて、亡くなった私の弟子である智泉について思い起こします。世俗的には彼は私の甥であり、出家後は私の最初の弟子でした。彼は孝行心に溢れ、私に24年間仕えてきました。金剛界と胎蔵界の教えをすべて修得し、真言密教の法を深く学び、正確に伝えました。

彼は口数少なく慎み深く、怒りを表に出しませんでした。その姿は、孔子の弟子であった顔回のようであり、釈尊の弟子である阿難のようでもありました。彼は私とともに修行し、日常生活でも離れることなく、私が飢えれば彼も飢え、私が喜べば彼も喜びました。彼はまさに、孔子にとっての顔回、釈尊にとっての阿難といえるでしょう。

私の願いは、彼が長生きして私の教えを広め、迷える人々を救うことでした。しかし、彼は早すぎる死を迎え、私は彼の棺を運び、深い悲しみを抱えることになりました。哀れなことです。涙を抑えることができません。

悟りの教えでは、無常を受け入れることが説かれています。しかし、大海を渡る途中で片方のオールが折れ、空を飛ぶ途中で片方の羽が砕けたような、この深い悲しみをどうすることもできません。

しかし、死という理(世諦)は釈迦如来ですら変えることができません。智泉は真言密教の秘伝を正確に受け継ぎ、実践してきました。一つの文字や言葉に込められた教えの真髄を理解し、それを繰り返し念じることで、すべての障りを取り除く力を持っていました。

彼は「阿」の一文字を通じて、すべてが生じることのない本質(本不生)を悟り、智慧を通じて五智を体得し、大日如来と一体となりました。彼の心には大日如来の真理が映し出され、煩悩を燃やし尽くす智慧の力を備えていました。彼は、自分が金剛薩埵であり、仏の世界そのものであると観じ、即身成仏を成し遂げたのです。

経典には、「我れ本不生を覚る」とあり、また真言には「曩莫三曼多没駄南、阿三迷底里三迷三麼曳沙縛訶」とあります。これらの教えは、仏を自らの中に観じ、真理を心に宿すものです。一度これを耳にすれば、どんな罪も消え、一度これを唱えれば、仏と一体であるという確信が得られます。

智泉よ、あなたはこの教えを理解していましたが、私は改めてあなたのためにこれを説きます。どうか、金剛界と胎蔵界の諸仏があなたを迎え、悟りの世界へと導いてくださいますように。そして、あなたがさらに進んで、法界に住み、すべての人々を救う存在となりますように。

間違えがあれば訂正します

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