第112話 14歳の私、父を訪ねて北九州に行く〜後編〜
待ち時間0分の『スペースワールド』
父の単身赴任先である小倉に、1人でやってきた翌日、8月13日。朝早く起き、父と一緒に家を出発した。
「スペースワールドっていう遊園地があるねん」
遊園地の言葉に心は浮き立った。この年、大阪は某テーマパークが開園5周年記念で盛り上がっていた。本当はティラノサウルスや超巨大ホオジロザメに会いたかったけれど、そんなことは口が裂けても言えない。
小倉駅から電車に乗って、スペースワールド駅へ向かう。道中、父と何を話したかは覚えていない。きっとあまり何も話していなかったと思う。父はいつも私に、勉強やバレエのことを聞いたりしない。私も父に仕事のことを聞いたことはない。ただ1つだけ。
「お父さんな、自分でうどんと焼きそばを作れるようになったで」
単身赴任する前は、母が全て食事の準備をしてくれ、父が台所に立つことは一切なかった。「そうなんや」と次の言葉を探していると、父は続けて言った。
「あとな、お菓子をあんまり食べなくなったわ。1人やと、なんか食べる気しないねん」
酒の飲まない父は甘いものが好きで、よくお菓子を食べていた。「そっか」と、それ以上言葉が見つからなかった。昨日、父と会った時に感じた寂しい空気と、少し痩せた背中の意味が分かった気がしたからだ。今、私たち家族はみんなどこか寂しそうにしている。この状況はいつまで続くのだろう。私は黙って電車の窓の外を眺めがなら、親指の爪の横の皮を剥いた。この頃の私は気持ちがざわついた時、指先のささくれを触るのが癖で、いつも指先は荒れていた。
父に連れられてやってきたスペースワールド。最も覚えていることは、1番大きなジェットコースターに連続2回乗ったことだ。
週末だというのに、場内はあまり混んでいなかった。「ここがメインのジェットーコースターや」というアトラクションは、待ち時間が0分だった。父と私はまっすぐ車体に案内される。私たちの後ろには30代くらいの、金色の髪と白い肌を持った欧米系の男女4人グループが乗っていた。乗客はたった6人だけ。
ここで私は生まれて初めて、欧米人の本気のテンションを知る。車体が空に対してほぼ直角に登っていく時、後ろの4人は手を叩いたり、指を鳴らしたりして、歌を歌っていた。私は頂点に向かうドキドキを感じながらも、彼らの歌を聞いていた。
どん、すとっぴーなー
どん、すとっぴーなー
歌はスローなテンポから始まり、徐々に盛り上がっていく。車体もだいぶ高いところまできた。あと少しで、頂点。そして、落ちる・・・・・・!
はばなぐったー、はばなぐったー
後ろの4人が大声で2度、同じフレーズを言った瞬間、体から重さがなくなった。そしてものすごい勢いで風をきっていく轟音と、誰の声かもわからない悲鳴に包まれた。右へ左へ上へ下へ、縦横無尽に体が振り回される。
隣の父は両手をあげて「あかーん!」と叫んでいた。私は安全バーに捕まり「あかーんて何やねん」と心の中でつっこんだ。後はもう何かを思う余裕はなかった。
ジェットコースターを降りると、欧米人の4人が楽しそうに話しながら再び入り口へ向かっていった。続けてもう1度乗るようだ。
「もう1回乗ろうか」
父はそう言いながら、体がすでに入り口の方へ向かっていた。「はばなぐったー」の歌を鼻歌で刻んでいる。楽しそうな彼の背中を慌てて追いかけた。
今度は欧米人4人の後ろに私たちが乗った。
どん、すとっぴーなー
どん、すとっぴーなー
彼らはまた同じ歌を歌う。急降下する直前、広い空の向こうに光る海が見えた。知らない土地が遥か遠くまで広がっている。言葉は聞き取れないけれど心躍る歌が聞こえてくる。私は安全バーから手を離して大きく息を吸った。
はばなぐったー、はばなぐったー
「あかーん!」
急降下度と同時に、大声で叫んでいた。私の周りを漂っていた澱んだ空気に、新鮮な風が入ってくるようだった。
後々、欧米人が歌っていた「はばなぐったー」の歌は、クイーンの『Don't Stop Me Now』だと知った。この曲を聞くと、今もジェットーコースターの頂上で見た景色と、あの高揚感を思い出してならない。何より気持ちがカラッとする。
花火大会、人ならざるものに出会う
「今日は門司港ってところで花火大会があるんや。行くか?」
スペースワールドの乗り物を乗り尽くし、日も傾き始めた頃、父が言った。
「海峡花火って言って、山口県の下関と福岡県の北九州の両方で花火を打ち上げるんや。すごいらしいで」
私たちは再び電車に乗り、門司港まで行った。電車の中で「あの外国人の人ら、おもろかったな」「やっぱ日本人より陽気やな」や、「スペースワールド、むっちゃ穴場やな」「そろそろ潰れるんちゃう」、「人、増えてきたな」「みんな花火行くんやで」など、どうでも良い話をした。ようやく父の顔をしっかり見られた気がした。これもあの欧米人たちのテンションのおかげだ。
駅を降りると、満員電車の中かと思うほど人の波。しかし、たくさんの提灯や屋台の光で、気持ちは浮き足立つ。
「はしまきって何?」
会場である海岸まで歩く間、屋台の文字を指さして聞いた。
「食べたことないんか」
父は「はしまき」を1つ買ってくれた。それは割り箸にクレープより少し分厚い生地を巻いて、上にソースとマヨネーズをかけたものだった。
「残りはお父さんが食べるからな」
きっとあまり食べない私に気を遣って言ったのだろう。それか本当は自分が食べたかったのかもしれない。一口齧る。ソースのしょっぱさが汗をたくさんかいた体に最高に美味しく、さらに、もちもちした生地は口の中いっぱいに多幸感をもたらした。私はソースを人にぶつけないよう、少しずつ、結局全て食べ切ってしまった。
「手、ベトベトなってへんか。汗拭きシートあるで」
父は自分の首を拭いたシートを渡してきた。
「余計ベトベトなるわ!」
嫌そうにする私を見て、父は声をあげて笑っていた。そして私がはしまきを全部食べたことには何も言わなかった。そのことが私を安心させた———
「全部食べれたんや」
「結構、食べれたな」
人にそう言われることが嫌いだった。モノを食べていることがすごいことのように言われると、恥ずかしくてたまらなくなるのだ。そして他人がびっくりするほど食べてしまったんだと、食べたモノを吐き出したくなる。食べると驚かれ、罪悪感を抱く。それをずっと繰り返し、徐々に食べることを遠ざけてしまった。
この時、父が何も言わなかったことで、はしまきが「美味しいモノ」という思い出のまま、おとなしく胃袋に収まっていった。それが心地良かった。
花火が終わり、帰りの駅までの道中、私たちは忘れられない経験をする。花火会場から駅までは、文字通り身動きがとられないほどの混雑だった。遅々として駅に近づく気配はない。ただ立っているだけでも、誰かと体のどこかが触れる。暑くて息が吸いにくく、気を抜くとすぐ父が見えなくなる。私は心細くなって父のTシャツの裾を掴んだ。
その時だ。茹だるような暑さが一変し、身体中に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。
「お父さん・・・・・・」
得体の知れない恐怖に襲われ、私は思わず父を呼んだ。
「・・・・・・お前も感じたか」
父が硬直した顔で私を見下ろしている。全身に悪寒が走ったのは私だけではなかった。そのことにさらに衝撃を受けた。
「・・・・・・ほんまにあるんやなあ。こういうことって」
お父さんは霊感とかないんやけどなあ、と言いながら、父は私の背中をさすった。
「お盆やからな。人ならざる者が花火の光を目印に帰ってきたんやろう。きっとここに、その通り道があったんかも知らんな」
父が真顔で心霊的なことを言うのは不思議だったが、そこに茶化す余地はなかった。だって実際に体感してまったのだから。
だがその後すぐ、「お前は小さい頃、見えてたみたいやぞ。庭に白い石があるってずっと言ってて、気持ち悪かったんやから」と、父は笑っていた。父が笑うと、なんだか全てが大丈夫なように思えた。ちなみに庭に白い石が見えていた記憶など、微塵もない。
人ならざる者を感じた門司港での不思議体験は、今でも父とよく話す。「あれは本物やったな。彩、お父さんの腕、ぎゅー掴んどったで」「お父さんこそ、おしっこちびったような顔しとったで」と、2人だけの思い出は色褪せない。
ただ1度だけ、父はこの時のことを「彩がどっか連れて行かれるんちゃうかって、むっちゃ怖かった」と話していた。その時ばかりは何も言い返せず、父が私の背中をさすっていたことだけが思い出された。
食べられなかった2つのプリン
8月14日、朝。父と一緒に実家へ帰る支度をしていた。
「小倉駅でお土産買って帰ろうな」
そう言って父は台所の食器を片付け、ゴミをまとめていた。そして冷蔵庫を開いた。そこにはプリンが2つ入ったままだった。
今ここで「そのプリン食べたい」と言えるのが一番良いのだろう。そうしたら父は喜んでくれるだろう。そのことは分かっていたが、できなかった。
父はプリンの賞味期限を確認して、冷蔵庫に入れ直し、何事もなかったようにゴミ袋の口を閉じた。私は気まずさに耐えられなくなって「最後にトイレに行っとくわ」と、その場を離れた。
あのプリンがその後、どうなったのかは分からない。捨てられたのか、父が2つとも食べたのか。ただ今も、空っぽの冷蔵庫に並んでいる2つのプリンの光景は、忘れられないでいる。
あれから数年後、父は単身赴任を終え、小倉から帰ってきた。母は父が北九州へ行った時のことを思い出したくもないらしい。彼女は九州出身なのに、「九州なんて嫌いや」と言うようになった。そのくらい精神的にも体力的にも辛かったのだろう。
一方、私は「北九州・小倉」が特別な思い出の1つになった。1人で乗った新幹線、とんこつラーメンの匂い、気持ち悪い豚足、馬刺しは甘い醤油の味、スペースワールドの「はばなぐったー」の歌、門司港の花火大会での人ならざる者、そして、食べられなかったプリン。
またいつか、同じ場所を訪れてみたいと思う。できれば今度も父と、そして母にもついて来てほしい。あの時の思い出話をみんなでしたい。何よりもあの時期、両親には何が起きていて、どんなことを思っていたのか、話してみたい。なぜ私を1人で北九州に行かせたのか、その答え合わせもしたかった。だが、それを実現させる機会は未だ作れずにいる。何よりも母は「九州なんて嫌いや」の一点張りだから。
「またね」と言って、二度と会えなくなる人が、生涯に何人いるのだろう。両親ともいつ会えなくなるかは分からない。花火を空から見る存在になる前に、みんなで地上からの花火を見たいものだ。