書くほどのことではない。

 ひとたび筆を取ると、不思議なことに書きたいことばかりが溢れてくる。
 ところで、私はアロマンティック・アセクシャルという分類らしい。という話を幾分前に書いた。そして、それ自体は別にどうでもいいという話もした。これでも20年人間をやっていれば、ある程度自分のことは分かるつもりだ。無性に恋人が欲しくなる時期があるが、それは恋人が欲しいのではなく話し相手が欲しいのだということ、そこに恋人という言葉を当て嵌めたがるのは、これまでの社会を見た結果誤学習を起こしているためだということなど。それでもって行き着いた結果が、自分の分類がどうでもいい、という話。
 まぁ、それはさておき。

 先日友人と遊んできた。度々話題にあげると言うより、最早その子としか遊ばないので話題になるのがその子のことしかないくらいの唯一の友人なわけだが、ご飯に行ってきたわけだ。帰ってきて、今日。なんだか色々なことを考えてしまう。
 人と会ったあとは毎回、あれは良かったかな、合っていたかな、うるさくなかったかな、嫌になってないかななど、考えても仕方の無いことを考える時間がある。それは一重に、その子に嫌われたくないから。もっと言えば、その子にとっての良い友人でありたいからという傲慢さから来る感情だ。ある程度どうでもいい人と会う時はそんなこと微塵も考えないが、友人ともなると話は別で、この時間を乗りきるすべを私はまだ持っていない。
 
 人間関係リセット症候群という、何ともバカげた単語がある。これは私は分からなくもない感情だが、そこまで大層なものでもない。
 嫌われたくない、嫌われて喧嘩になるのが怖い、喧嘩をするのが嫌。だから、関係ごと絶ってしまう。
 究極の面倒くさがりだろう。あるのが悪い、だから無くしてしまう。そうして孤立する。どこか厭世的な価値観が、現代には共有されている。

 まるで未来がないのだ。何年後を考えられず、そもそも何年もあとの世界を生きている自信すらなく、慢性的に消えたい、これを希死念慮と名付けられているが、希死というより生きることの面倒くささが勝ってしまっている状態だろう。エネルギーが枯渇しているのだ。
 生きる喜び、という言葉が私は嫌いだ。これから先、いくら世界が便利になろうとも、便利になりきったこの先では楽しみが減る一方だ。わざわざ苦痛を味わって快感を得ることしかできず、そうして得た快感すら「でも、得るまでが大変だから、面倒くさい」と言って捨ててしまうような、そんな世界。

 面倒くさい、とは魔法の言葉である。これに囚われると、立ち直ることは不可能だろう。だって面倒くさいのは真実だから。
 それを上回るほどの快感が、そこを乗り越えてでも得たい何かが、私にはない。世界は誰も求めてはいないが、私だって世界を求めていない。困ったものである。

 何気なく今日を生きる人々がそのまま幸せでありますようにと願っている。私はもうどうしようもない。

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