花、散りなばと 第一章【総集版】
夜明けとともに葛城山の安位寺を出て、ようやくここ古市へたどり着いたのは、未の下刻であった。
経覚は、しばらくその場にうずくまったまま動けなかった。身を隠すような張輿にずっと乗り通しだったとは言え、五十の腰にはひどく応える。
上壇の迎福寺というところへ、ともかくも落ち着いて、外陣の置き畳にうつ伏せになっていると、
「古市播磨公様がご挨拶に」
と、年嵩の住持が知らせてきた。
「早速来たか。待ち構えておったな」
経覚はつぶやき、丸々とした体を畳のへりに沿って転がしながら、ようよう起き上がった。
やってきた古市胤仙は、身の丈六尺に及ぶほどの大男である。
青々と剃り上げた頭をさらして虎髭を伸ばし、浅葱色の直綴に金襴の加行袈裟を掛けている。それが外の簀子縁に這いつくばっていた。
経覚は、摂関九条家の生まれとして、礼を失する相手は決して許さない。だが気心の知れた間柄で、内々の場にもかかわらず、煩瑣な挙止にこだわり過ぎるのも嫌いである。
「もうよい、さっさと入れ」
促されて、大男が太鼓梁の下まで膝行してきた。背後に見慣れない童子を一人連れている。経覚は畳に素足を投げ出したまま彼らを迎えた。
「門跡様。遠路はるばる、まことにご足労様でございました」
「一つも足など動かしておらんのに、ご足労もあるものか」
しかめっ面を作り、苦々しく吐き捨ててみせた。
「疲れたのは輿舁き衆と、わしを護衛してきたそなたの一門郎等、若党たちであろう。くれぐれもねぎらってやれい」
胤仙は微笑を含みながら、もう一度深々と頭を下げた。
道中敵の筒井方に出くわしでもすれば、合戦となり、輿の中の貴人を守り抜くため、命さえ投げ出すことになっただろう。そのように気を張りつめ、危険を冒してまで、彼らは経覚を古市まで送り届けてきたのだ。
「よくぞご決断くだされました。大乗院門主、興福寺別当を親しくお迎えすることができ、この古市郷始まって以来の喜びにございます」
「まだ、そなたの本貫に居着くと決めたわけではないぞ。安位寺ではいささか遠過ぎ、奈良から節供の品々を付け届けさすのにも、いちいち骨が折れようからの」
経覚は自分でも、未練ったらしい言い方になっていると思った。
迎福寺の堂宇は、この郷の中では一番なのだろうが、さして大きくもない。京はもちろん、南都の一子院にも遠く及ばないであろう。その上新しくもなく、湿っぽい黴臭さが漂っている。
「とは言え、国中の西の果ての山裾に張りついておられたとて、何の生き甲斐がありましょうぞ。まだまだ田舎へ隠居されるつもりはない。そう考えられたからこそ、門跡様は今ここにいらっしゃるのでしょう」
図星を指されてしまえば、何も言い返せなかった。
おのれの内には、位を極めた高僧らしくもなく、まだまだ熱く滾って抑え難いものがある。それは怒りでもあり、野心でもあり、さらなる栄誉への渇仰でもあった。
「必ずや筒井を叩き潰し、ご門跡に寺務を取り戻して差し上げましょう。拙者も官符衆徒棟梁へ返り咲いてみせる。どうかご安心めされよ」
自らの力を誇示するように、厚い胸板を反らしてみせた。
筒井は、興福寺の一乗院方衆徒筆頭であり、大乗院方の古市とは、不倶戴天の仇同士である。今もって奈良の支配を巡り、大小の合戦を繰り返している間柄なのだ。
その闘争を少しでも有利に運ぶため、おのれの身柄を欲している。当然のことながら、それくらい経覚にも重々わかっていた。
「わしはかつても一度、そなたの言葉を信じた。今と同じくらい、力強く請け負っていたな。その結果が、菊薗山の城を自焼し、長年にわたってしたためた日記も失い、ほうほうの体で南都を逃れてからの二年間であった」
「過去を悔い改め、同じ失敗は繰り返さぬ。その覚悟があればこそ、ご門跡をお迎えに上がらせたのです。我ら共々、もはや他に行く道はない。何卒お腹を括られますよう」
脅すように平伏してみせる。古市胤仙はそれができる男だった。
「そちらの童は」
話頭を転じ、背後に控えている小童の方へ目をやった。丹色の水干を身にまとい、髪を唐輪に結い上げている。
「我が息子の小法師にございます。今後、何卒お引き立てのほどを」
父に促され、膝行しながら前へ出た。裾濃の括り袴である。上目遣いがきつく、稚さに似ない三白眼であった。ただ、結んだ唇の両端に小さな笑窪が浮かんでいる。
「年はいくつじゃ」
「九つにて」
垂領の懐を探って短冊を取り出し、小さな両手で差し出してきた。受け取って目を落とす。
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
端正な筆跡である。新古今、西行法師の雑歌であった。ハハ、と経覚は思わず声を立てて笑った。
「そなたが選び、これを書いたのか」
折れそうな小首でうなずいてみせる。
「名は」
「春藤丸と申します」
「播磨律師にしては、良き名をつけたの」
思わず軽口が出て、またも笑いに紛れさせた。風流童子を連れてきた胤仙に、まずは先手を取られた格好である。
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