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悪運の強い天空の、海亀上の美少年ども、最終的には自爆

二月十八日

十時半離床。紅茶ティーバッグ三個分の紅茶淹れる。以前よくティーバッグtea bagかティーパックtea pacか分からなくなっていた。アボカドをカボガドと言ってしまうようなものか。もしくはパソコン音痴な人がOSのことをオペーレーティングシステムではなくてオペレーティングソフトと呼んでしまうようなものか。あるいは政界に疎いわりに個人攻撃の大好きな愛国者気取りたちがしばしば河野洋平と河野太郎を混同していたようなものか。それとも河野太郎と三谷幸喜がごっちゃになるようなものか。

昨夜(正確には今日)寝つきが悪く、入眠するまで暇だったので、こんご何を読みたいかとか何を書きたいかなどを考えながらにやけていた。こと読書において私は純然たる知的快楽主義者だから、なにか隠された社会的・人間的秘密を探っているような感興が得られるものか、あるいは悪魔的・天上的な恍惚に浸れるようなものしか読まない。世の中には読書を「苦行的義務」と心得ている人がいるが、これが私には皆目理解できない。
このごろジャン・ジュネにただならぬ関心が向かっている。光文社古典文庫の『花のノートルダム』が三年前まで身近にあったのだけど、引っ越しの際、一行しか読んでいないのに、実家に送ってしまった。堀口大学の翻訳した『薔薇の奇蹟』はある。付箋がいっぱい貼ってあるけど、なにもほとんど覚えていない(言うまでもあるまいが、覚えていないからといって、読んでいないことにはならない)。終始一貫、「分かってもらう積もりなど微塵も無い」と言わんばかりの自閉的・耽美的な独白体で綴られているので、読中ずっとジュネに突き放されている感があった。「お呼びじゃないよ」と。取りつく島もない。だが、拒まれているにもかかわらずにあえて齧り付くのも読む快楽の一種なのだ。
監獄における同性愛的美学をめぐる冗長極まる一人称語り。美少年好きでは人後に落ちないつもりの私だけど、あれくらいに突き抜けるのを見せられると、もう何も言えなくなる。ジュネはいつも極点に向かっている。方角も分からないまま。『薔薇の奇蹟』の美少年にはみな暴力の血糊がこびりついている。ごく凡庸にサラリーを得ながら納税に励んでいる「異性愛男性」がやすやす近づいていい読み物ではない。その饒舌の織り成す妖美グロテスク世界気配におののきたじろぐだろう。ジュネのそうした<読者疎外>の作法は、たとえば稲垣足穂にも見られるものだ。

偉大な行動は長い夢想を必要とします。しかし夢想は闇のなかでこそ育ちます。ある種の人間が、天国的な快楽を基礎としない夢想を愛することも事実です。それは悪を本質とした、光輝を欠く喜びです。ところがこの種の夢想は、惑溺であると同時にまた逃避でもあります、それなのに人は悪のなかにしか、より正確に言うなら、罪のなかにしか逃避はできません。ですから、わたしたちが地球上に見るまじめで正直な制度は、どれもみんな必要な変貌を経たこの種の孤独で隠密な快楽の投影でしかないのであります。刑務所というところは、このような夢想が形成される場所です。刑務所もそこに宿る客人たちも、自由に世間に残った人たちに深い影響を与えずにすますには、あまりにもせっぱつまった生活をしています。世間の人たちにとって、囚徒は一つの極です、そして刑務所内では、懲戒室が一つの極です。わたしはここで自分が、ようやく好きになったばかりのビュルカンをなぜ懲戒室に引入れようとしたのかを語りたいと思います。

『薔薇の奇蹟』堀口大学・訳

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