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「人生」に必要な知恵などついにどこからも学べなかった、

瀬那十三年十二月二四日

本の値段は、人物の評価と同じく、あがり・さがりがあるのは、海に満ち潮と引き潮があるのと、いくらか似ています。明治維新の廃仏毀釈で、奈良の諸大寺の書物は焼きすてられ、残った本は綴じ糸を切って、反故紙として、茶箱に張られました。明治二十年ころまでは、二十銭か三十銭の奈良茶盆の包み紙に、天平経が使われました。近くは、太平洋戦争の終った直後、国史や国学の本は、多くはつぶしになりました。

平澤一『書物航游』(中央公論社)〔原文傍点→太字〕

午後一時六分。緑茶、めんたいビーバー。プログラミング言語の学習。起床してから書くこの日記のなかでだけ「言いたいことを言える」。人の世はだいたいにおいてシビアなところだから「言いたいこと」なんて言えない。「政治的に間違ったこと」や「口にしないほうがいいこと」を言おうものなら良識者ぶった奴からソッコーで直接的あるいは間接的な小言を食らう。人間社会はきほん「いちおうのフリ」によって一定の秩序を保っている。こうした振る舞い方は「社会的学習」によって身に付けさせられるものなのだ。親は自分もどんな子供もいちおう愛しているフリをしないといけないし、恋人同士はどんなときでもいちおう愛し合っているフリをしないといけないし、兄弟姉妹に子供が生まれたと聞かされればいちおう「そう、よかったね」と笑顔のひとつくらいは作らないといけないし、刑務所を出た者はいちおう反省しているフリをしないといけないし、遠いところで大災害があればいちおう被災者を気の毒に思うフリをしないといけないし、知人の葬式ではいちおう悲しそうなフリをしないといけないし、誰かに何かもらえばそれがどんなに下らないものであってもいちおう嬉しそうなフリをしないといけないし、自分よりも権力を持っている人にはいちおう敬意を抱いているフリをしないといけないし、反権力的ポジションにいる人間は汚職議員なんかに対してはいちおう怒っているフリをしないといけないし、年寄りがまた前と同じ昔話をはじめてもいちおう興味ありげなフリをしないといけない。この「いちおうのフリ」は対人関係の場だけに限られるものではない。部屋で一人でいるときでも「こういうときはこのような感情反応を示さなといけない」といったフリ機制はちゃんと働いている。自分にとって明らかにつまらない漫才を見ているときもいちおう笑ってしまうのは、「みんなが笑っているなら自分もいちおう笑わないと仲間外れになる」とか「誰かがこっちを笑わせようとしているんだからいちおう笑ってみせるのが礼儀だ」とかいう「フリ不文律」が既に内面に定着しているからだ。電話なのに頭をぺこぺこ下げている人にも同じことが言えるかもしれない。誰もがたいていは「フリ不文律」からは自由になれないし、自由になる必要もない。なんのコードも共有されていない社会生活なんて誰にとっても認知負荷が高すぎる。最初から混乱と破綻は避けられないだろう。そもそもそんな社会生活は想像することさえ僕には出来ない。今日からウイスキーは原則としてコップ五杯までとする。さらに一週間に一度は必ず休肝日をもうける。飲み過ぎたあとのムカムカ&カラエズキ地獄はもうたくさんだ。独身のおばさんはランドクルーザーで四国旅行中。

見沢知廉『調律の帝国』(新潮社)を読む。
いわゆる獄中小説。どこまでが実話なのか、なんて問うのは野暮ですよ。「小説」という形式の凄いところは「事実」と「虚構」なんていう日常的区別をバカバカしくさせてしまうところだ。『天皇ごっこ』も『囚人狂時代』はずっと前に読んでいる。刑務所なんて誰でも入れるところではないので、今そこにいる、あるいはかつていた人間に対してはそれなりの敬意を抱かねばならない。プロフィールによると著者は17歳で過激派セクトに入り、そのあと新右翼活動に転向し、ゲリラ組織の指揮をしていたみたいだ。いいね、なんか興奮する。オイラみたいな「布団の中の革命家(気取り)」とは行動力が違うよ。感服。著者は1959年生まれなので、ハイティーンだったころにはもう「政治の季節」はほぼ終わっていた。経済発展を遂げたあとの日本のニュートラルで無色な一億総中流的空気の中ではどんな過激な政治的身振りもおそらく「時代錯誤」なものとしてしか受け取られなかっただろう。1970年(昭和45年)の三島由紀夫の割腹自殺がそうだったように。僕はいまだかつて「その種の政治活動」に惹かれたことがない(右翼のものであれ左翼のものであれ)。誰かを暗殺したりどこかの施設を爆破したり抗議の焼身自殺をしたりするような「確信的」勇気も持たない。あまりにも「冷笑主義」に毒され過ぎている。そのことに嫌悪感を覚えることさえもう出来ない。僕は「この社会」にウンザリし憎んではいるがそれを改良したり顛覆させたりする意志はほとんど持たない。僕は常に抽象世界に閉じこもっている非行動派だ。だから埴谷雄高『死霊』を読んでいるときでも、「観念的革命」志向の強い三輪与志の語りにはかなり「同感」出来ても、行動派の首猛夫の語りにはあまり「同感」出来なかった。デジャブあり。なんか前もこれとほぼ同じ文章を書いた気がする。僕自身がいつも「不毛な観念」をもてあそんでいる人間だからか、活動家的な人たちにはどうしても馴染めない(ここには幾分かの嫉妬があるのかも知れない)。端的に言えば「テロ行為」はすごいと思う。僕のような観念玩弄型人間よりも安倍晋三を射殺した山上徹也のほうがずっと「男」だし歴史を変えている。その行為によって却って既存の権力機構が強化されたり、(9.11後のアフガニスタンやイラクを見れば分かるように)より悲惨な事態を招くことがあるかも知れないとかそんな話は実はどうでもいいのだ。行動派にとって重要なのはこの空虚で腐りきった日常に修復不可能な亀裂を入れてやることなんだから。僕はどうやって死ぬんだろう。来年「ベッドイン・セナ」を決行し、衰弱死できるのだろうか。それともこのままいつまでも薄汚く馬齢を重ねていくばかりなのか。「自分に断りなく始まりやがったこの〝生〟に復讐したい」なんて一度も思ったことのない木偶の坊はぜんいん死ねばいいんだ。あのウイルス禍のなかでくたばればよかったんだ。「幸福」な小市民ども。そろそろオムライス作って食うかな。セナ様に抱かれたい。「セナ様、あーんしてっ」「よせよ、恥ずかしいよ、自分で食うよ」「わたしのこと嫌いになったの?」「んなはずねえだろ」(ハグ)。あ、遅刻しそう。納豆パスタ食って早く着替えなきゃ。またな。

【備忘】永山則夫、アルバニアTiKToK禁止、アイスランド36歳の新首相行、高齢者の背骨変形(後彎)、日本の医師偏在対策、公取委のグーグルへの排除措置命令、

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