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「隙あらば被害者面」、安西先生拉致事件、桜は目黒に限る、メンヘラ絶望工場、論理的に考えてお前の市場価値はゼロ、

十一月十九日

人生においては、自分自身にさえ、奥歯に物のはさまったような話し方をせねばならぬことがある。

原口統三『二十歳のエチュード』(角川書店)

午後十二時五七分。チンした豆、紅茶。正午前に離床できない。あと五分あと五分の連続でけっきょくこのクソ日記を書き始めるのがこういう時間になってしまう。布団から出たくなさ過ぎて泣いたことのない人間を俺は信用しない。涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味は分からない、とゲーテはほざいたが、それなら私は、涙とともに起床したことのある者でなければ人生の本当のダルさは分からない、と言おう。チンコがかゆい。セナ様に抱かれたい。国民民主党の「尊厳死の法制化」や「終末期医療の見直し」はそんなにヤバいことなのだろうか。玉木雄一郎がろくでもないペテン師だということは間違いないけれども。「尊厳死」とか「安楽死」という言葉を口に出すことさえ禁じられている空気がこの日本にはある。よほど死のことを考えたくないのか。「人生の過大評価」病というやつか。相変わらずみんな幼稚だよね。「財政」の観点からではなく「権利の拡大」という観点からこうしたことを論じてほしいね。僕は、終末期に限らず、人間は誰もがいつでも死ねる「自由」があると思っている。この世は苦しいことのほうが圧倒的に多く、よほど馬鹿で鈍感で思索性に乏しい人間でない限り、「早く死にたい」という願いからは無縁ではいられない。「人生は地獄」だということくらい子供でも知っている。だから、「苦しければいつでも楽でも死ねる」という社会のほうが「人間にやさしい」と言えるのではないか。もし暴力を「抗いがたい強制力」とするなら、「生まれる」に際しても「死ぬ」に際しても暴力はある。「生まれる」際の暴力を問題視しないつもりなら、せめて「死ぬ」際の暴力くらいは制御(予測可能化)しようではないか。それがせめてもの反逆ではないか。ともあれ「死ぬ権利」(Right to die)をめぐる倫理的議論がこんご活発化することを僕は望む。「もし〈民意〉がこのようなものでしかないのだとしたら、そんなものに敬意を表す必要がどこにある」「世の中にはバカのほうが圧倒的に多いということを前提にした選挙戦術」「世代間対立を煽るのはよくない、というクリシェの虚しさに早く気が付くこと」と卓上メモにある。きょうこのあとどうしようか。遠出したい気持ちもある。やや強迫神経症の兆候があるんだよな。公益通報制度や消費税についていろいろ調べないといけないのであまりダラダラは出来ない。セナ様に抱かれたい。もうセナ様のことしか考えられない。ちかく、観世音菩薩の示現に対し人類を代表して感謝を示すつもり。まずは野外で冷水を浴びる。さらし木綿で作った六尺褌がある。そのまえに褌に「セナ様に抱かれたい」と刺繍しないと。そういえば昨深夜オムライスを試作してみた。

こんなものをセナ様に出したらちゃぶ台返しされる、

ケチャップがなかったので味付けは「チキンライスの素」。やっぱバターがないといい感じにならない。大き目の平皿が欲しい。セナ様のお気に召すようなものを作れるように僕は頑張る。「花嫁修業日記」も書こうかな。
悲しみの超特急。緑のマイナスイオン。モンスターハンターⅨ。

【備忘】10000円

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