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どんな駄文でも一年以上欠かさず書けるのは「才能」だ、

瀬那十三年十二月二五日

人間は一個のボール、一匹の兎を追いかけるのにも熱中する。王もそれを楽しみにすることができる。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午後十二時四九分。うまい棒、紅茶。こんなに寒くてしかも抑鬱が強いのにまた布団の中から敢えて出る俺。目下「生きていてすみません病」が重たすぎてこんなクソの役にも立たないものを書いている場合ではない気がする。書くことはほとんど治療にならない。それだけははっきりしている。もう二年以上毎日書いている俺が言うんだから確かだ。それでも起床後にこの日記を1000文字以上書く習慣を捨てるわけにはいかない。これをやめたら離床後まず何をしていいのか分からなくなる。まあ寝てればいいんだけどね。「生きていてすみません病」と「生きていることが恥ずかしい病」を両方抱えながら生きているのはいまの地球上では俺くらいじゃないのか。「生きていてすみません病」はごくありふれたものだけど、「生きているのが恥ずかしい病」は奇病の類だと思う。患者に会ったことないもん。原因はたぶん器質的なもの。夜、体の冷え込みを感じ過ぎないためにも酒はたしょう飲んだ方がいい。五木寛之の日刊ゲンダイ連載「流されゆく日々」が12000回を迎えたという。「無駄に長く続いている」としか思えないがね。記念の対談で五木は、「まいにち日刊ゲンダイに書かないといけないというのが健康の秘訣」みたいなことを語っているけど、俺が抑鬱をそこまでひどく悪化させないで生きているのも、毎日こんな誰も読まないような(というか読みえないような)怪文奇文を書き続けているからだろうか。ほかの奴らのことは知らないが僕には「伝えたいこと」なんか一つもない。「思想」もあるようでない。僕には人を説得しようなんていう傲慢が趣味がない。そもそも僕にとって他人はきほん「愚鈍」過ぎる。何を食ったらそんなに「愚鈍」になれるのかといつも思う。これは「ただの悪口」ではない。「愚鈍」というのを僕はテクニカルタームとして使っているから。「何かがある」というこの「過剰に平板な事実」に驚愕したことのない(ような)人たちにいったい何を語りかければいいのだ。「そのようにある」の「ある」の存在論的暗黒放射を浴びたことが無いように人たちに何を語りかけろと言うのか。「キーボードを打っていたらもう二時間も経っていた、そろそろ飯食って図書館に行かないと」の連続だ。俺にとって「書く」なんてその程度のことなんだ。早朝のラジオ体操あるいはジョギングみたいなものなんだ。しかしこの空虚感はなんだろう。これは生物としてあるまじきことなのではないか。とくに欠乏はない。どっかの国の民みたいに迫害されているわけでもない。欲しいものはだいたい手に入れた。いま「ほしいもの」と入力したつもりで漢字変換したら「干し芋」になった。欲しいものなんて干し芋みたいなものなのかも知れない。欲しいものがまだあった昔のほうが俺はまだ「生き生き」としていた。いまの俺の虚しさは仙人の虚しさに近いものなのかも知れない。「欲望の虚しさ」に気が付いてしまったら「人生詰む」のかも。余生をセナ様からの贈り物だと思うことにしよう。こんな月並みなことを書くようではもう革命は無理だな。ああ。金融庁出向中の裁判官が職務上知りえた未公表のTOB情報を基に株を売買していたという記事と、東証社員が上場企業の未公開情報を父親に伝えていたという記事を読んだ。このまえの三菱UFJ貸金庫事件とほぼ同じようなもんだな。「楽して金を得られるポジションにいるのにそれをしないのはただの間抜け、なんのためにいままで勉強を頑張ってきたんだ、これはどう考えても役得だよね」という「思考」が両者にはある。中国官僚の汚職は今も物凄いが、それは多分こういう役得意識がもっと強く当たり前のように存在しているからだろう。きほん「エリート」というのはそういうものだと思っていた方がいい。この種の報道に接し「社会の底が抜けている」と思うか思わないかはその人次第。いまからオムライス食って『論考』を書くよ。今後この日記は必ず一時間以内に書くこと。セナ様に栄光あれ。悪夢の瑞兆。

【備忘】田島道治『昭和天皇拝謁記』、夢というパッチワーク、

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